5日目 出会い
5―2「心が望む先と元」
自分を大切に出来ない人間は、
他人を大切にできない。
やり方が分からないから。
他人を大切に出来ない人間は、
他人に大切にされない。
だから自分を大切にしなさい。
<聖プーチ>
予感。
黙り込んだのはいいが、何かが明らかに進展する訳でもなく。
濃い緑色に揺れる湖面の傍で胡坐を掻いて座り込んだトーマを、最初の内こそ皆で注視していたが、しばらくすると、皆思い思いの行動を取るようになった。
アルミスとアイリは何か湖を渡るのに使えるものはないかと湖の端まで見に行き、司書とキーラはこれもまた、魔法の巾着に使える物が入っていないかリストと照らし合わせている。
老魔導士はそんな二人に「竿はないか」と聞いていたが、無いと分かると残念そうに湖面に近づき、ぶつぶつ言いながら腰を落として湖面を覗き込んでいる。
クララは、というと、どこにいっても危険な気がして、結局胡坐のまま湖面を見つめているトーマの視界に入らないように、少し後ろに腰を落として膝を抱えて座り込んだ。
こうして膝を抱えて座り込むと、前後に揺れたくなるのは何故だろう。
思うがままに身を任せて、前後に体を揺すりながら、チラチラとトーマを見る。
斜め後ろから見るトーマの顔は、彫刻の様だった。
クララの位置から目は見えないが、見開いているのは分かる。
眠ってるわけじゃなさそう。
トーマの物言いがやたら真剣だったせいでさっきは聞けなかったが、「予感」てなんの予感なんだろう。あとどのくらいなんだろう。
時間だけが、過ぎていく。たまにはこういう時間もいいか。のんびりと風に吹かれる時間。闇の霧浸食以降の道中は、あまりにも慌ただしすぎた。
肩の凝らない性質のクララだが、最近なんだか右肩が固い。軽い違和感。首を回したり、右肩を左手で揉んでみたり。
すぐに飽きて、トーマに視線を戻す。
それにしても。のんびり風に吹かれるのもいい、なんて思ってみたりしたものの。
湖面方面、右斜め前方から吹く風は、クララの知っている秋風より少し涼しい、いや、寒すぎた。温かい飲み物でも貰おうかと思って司書―使えそうな道具を探すのを諦めて、野営の準備を始めているーを振り返った。
左に頭を巡らせる途中で、右目の隅にアルミスとアイリが入る。戻ってきたんだな、と思ったまま、司書に声をかけようとしたしたその瞬間だった。
背後で、ざばば、と水が地面を打つ音が聞こえ、続いて、ブホッと咳ともくしゃみとも言えない妙な音が聞こえた。
驚いて振り向く。驚いたのはその音ではなく、その音の大きさ。
異様な音がして振り返る場合、大概見慣れない光景が広がっているものだが、今回も御多分にもれず、いやむしろ、過去最大級の見慣れない光景がそこにはあった。
太い幹。背の高い草。黒々した塊。
それまで何もなかった空間に、島が浮いていた。
驚きすぎて、中腰のまま、両手を水平に広げて振り返ったままの姿で、クララは固まっていた。何も起こらない訳はないんだなぁ、ふとそう思った。
足音が聞こえる。
ぶほほっ。再び大きな音がして、額に、頬に、水しぶきが当たる。冷たい。なんだか笑えてきた。昔だったらー浸食前だったらー泣いていただろう。おおん、という音がして、空気が引っ張られるのを感じる。笑える。まったく笑える。犬のように顔を振り、水気を飛ばすと、何事もなかったようにすくっと直立し、鎧にかかった水滴を袖で拭った。口元だけで笑みを浮かべながら。
「師匠!」
空気、なのかも知れない。あるいは「予感」を好意的に信じていたおかげかも。
畏怖に近い驚きはあったが、腰に来るような恐怖はなかった。それにしても、「師匠」とは。
「ししょお?」
ししょお、とくぐもり、語尾の伸びた返事はシンベルグやエカチェリーナに代表される指向性のない、紛れもなく闇のモノのそれだった。しかし、脚の先から先に聞こえ、お腹の辺りで認識する迫力と重低音は、他の闇のモノを遥かに凌駕していた。でも、なんだか不快じゃない。だがそれどころじゃない。
湖に浮く、目の前の大きな塊を、トーマは師匠と呼ぶ。師匠って。でかい。普通に直視しただけでは、その姿は視界に収まりきらない。しかし、大きさを除けば。足元に見降ろすほどに縮小すれば。知ってる。カメ。亀。「幸いなことに?」違う。「偶然なことに?」だいたい合ってる。クララは昔亀を飼っていたからその生き物がカメに見えた。甲羅の端に穴を空けて紐を通して散歩したのが懐かしい。大きさは随分違うし、背中に草も生えてなかったし、頭もあんなにとげとげが無くてつるつるしていたが。でも、トーマの師匠って亀なの?
「ああん。なんじゃおんまえら」
デカい亀は、首をぐいとトーマの近くまで降ろすし、すんすんと匂いを嗅ぐように鼻を鳴らした。
「トーマです。あなたは…」
「とおまあ。しんらんのお。ニンゲンじゃなあ。まいったのお。おわるまでずううっともぐっていようとおもっとったのにのお。まあ、わしのことはわすれてくれよなあ」
びりびりと体を揺さぶる心地よい重低音でのんびりと話すと、巨大な亀は首を引き上げ、くるりと後ろに向ける。多分少しバックしてそれから水中に潜るのだ。
「待ってください。話を聴いて下さい。師匠が言っていたのは多分あなたのことなんです。きっと。夢の中で、師匠が教えてくれたんです。湖のほとりに居る大きな塊と、光を交互に指さして、僕が分かりましたというと、笑顔で頷いたんです。だから」
必死過ぎて何を言いたいかが良く分からない。巨亀は聞かないのか聞こえないのか水中で少し後退する。湖面が揺れて、地面を水が濡らした。
「待ってください」
一瞬水を避けて後退したトーマが、猛然とダッシュして湖の淵から手を伸ばし、亀の甲羅に掴みかかろうとする。
「危ない!」
アルミスとアイリが同時にトーマの腕を掴んでほとんど宙に浮いていたトーマの体を引き戻す。動きはゆっくりだが、亀の体は湖の淵に水平の状態まで動いている。ちゃぷちゃぷと湖面が揺れる。ふと、亀の首の後ろの影がむっくりと起き上がるのが、常闇の中でも分かった。影が亀の首に抱きつく。すると、亀の動きがピタリ、と止まった。
首が真っ直ぐ伸び上がり―天に届きそう―とげとげのあるあまり可愛くない頭が空を見上げると、おおん、と一鳴き。
「おおおお。しんべるぐかあ。ひさしいのお」
あのマント。あのひらりひらりした足運び。そして亀の一言。あの影はシンベルグ。いつの間に。
「久しぶりです。長老」
「いつぶりじゃのお。なにしとんかあ」
「前の浸食以来ですよ。相変わらずですね」
重低音と高温の指向性のない音に晒される感覚は、現実感とはほど多い、なにか演劇でも見ているかのようだった。
「まあなあ。おぬしがここにいるとは、こんどのやつはまだはじまったばかりということかあ。やれやれじゃなあ。しんどいのお。もうあきたわい」
「いえ。多分終盤ですよ。ところで、先ほど匂いで感じたニンゲンは、私の知己でして。ちょっと話を聴いてもらえますか?」
「むむう。ニンゲンにしりあいがいるかあ。おんぬしこそあいかわらずよなあ。はなしなあ。めんどくさいのお」
「そこをなんとか…」
「お願いします!」
トーマが右腕をアルミス、左腕をアイリに掴まれながら身を乗り出して割って入る。むうん、と唸るような音が響くと、亀―長老―が右回りに回転して体ごとトーマに向き直った。
シンベルグは右手を亀の首に添えて立ち、小粋に右足を甲羅の一段高い所に上げている。やだ、ちょっとカッコいい。その姿は、巨亀を操る黒づくめの召喚士のよう。
亀がトーマに顔を近づけるために首を降ろすと、釣られてシンベルグが前のめりに倒れ、湖に落ちそうになって亀の首にしがみついた。前言撤回。かっこ悪い。亀は再びすんすん、と鼻を鳴らした。
「ああ。わかいのお。わかものはいやじゃなあ。じこしゅちょうばかりつよくてわしらのはなしをきかんからのお。はなしにならんよおお」
「です、ですから聞いて下さい、って長老、少し首を立てて下さい」
シンベルグ必死過ぎる。水は苦手なんだっけ。ていうか、闇のモノは水が苦手、いや、水には闇の空気が少ないから望まないんじゃないっけ。
「そうです。話を聴いて下さい。そして、助けてください」
おおん。一鳴き。トーマ、随分押しが強い。びっくりする。
「ああん?なんじゃあ。きくばかりかたすけるのかあ?」
虫が、良すぎないか。それとも、なにか策があるのだろうか。
おおん。
「おも、おもしろいのお。さっぱりしてるのお。しょうじきじゃのお」
どうやら、先ほどから鳴いているように聞こえる「おおん」は、笑い声のようだ。
「むうん。ちいとばかりきょううみがわいたあ」
「では、聞いてくれますか」
亀は大きく頷く。クララは顔に水気と風を感じた。
「僕らは浸食を終わらせるために旅をしています。だから、ですからカシュワルク城に行かなきゃいけないんです。そのために湖を渡る手段を探しています。お願いです。手を貸して下さい」
「ぬしらあ、ニンゲンじゃろうう」
すんすん。撫でるように順番に匂いを嗅ぐ。アイリ、トーマ、アルミス、クララ、司書、キーラマイ、老魔導士。クララに顔を寄せた時、懐かしい水の匂いがした。
そして気づいた。亀は目を閉じている。一通り匂いを嗅いだ後、「悪くない」と聞こえた、気がした。
「そうです」
「ふううん。なんでえわしがぬしらのたすけをしなきゃならんのじゃあ。わしはぬしらのきらううやあみのおイキモノじゃぞうう」
「それは…」
トーマ、頑張れ。誰かトーマに手助け。そうだ、司書。司書を見ると、視線に気づいたのか腕組みしたまま見返してきて、首を左右に振った後、縦に一度振った。何も言うな、ということか。
「それは、そうだ、そうです」
「なにがああ」
「さっき、師匠、いや、長老さん言ってましたよね!浸食が終わるまでまだ時間がかかるとしんどい、って」
「むううん。いったかのお。いったかあ。まあぬしらにかんけいないことじゃろうう」
「違います。分かりました」
「おおん。とおまあ、おもしろいのお。なにがわかったかあ」
「ほんとは嫌なんですよね、浸食。司書さんが言ってました。水中には闇の、長老さんが吸える空気が少ないって」
「ものお、ものしりじゃのお。たしかにそうじゃがあ。水からあがればよかろうがああ」
「嫌なんですよね。多分、なんていうか、争い、そう、争うことが」
亀は返事をしない。
「だからずっと潜っていたいんですよね。長老さん。そうですよね」
「おおん。おおん。おおん。ぬしはあ、よっくはなしをきいとるのお。そうじゃなあ。ずいぶんながいことお、はなしもしなかったからあ、わすれていたがあ、そうなんじゃろうなあ」
「でしたらお願いします。僕たちが終わらせます。そしたら、元の場所に戻れるんですよね、多分。だから、湖を、その、その、背中に乗せて渡してください!」
なんと、そういうことか。これが「予感」の結果か。なるほど。
「むうん。はなしはきいたあ。ねがいもきいたあ」
「じゃあ」
「まてまてえ。うんともすんともいうとらんよお」
「えっ…」
「まあまあ。そんなにかなしそうなこころをださんでいい。わしにもききたいことがあるのじゃあ」
亀は目を閉じている分、何かを感じ取る力があるようだ。
「分かりました。そうですよね。すいません。自分ばっかり」
「おおん。きにいったあ。とおまあ。ぬしはいいこのようじゃあ。さてえ。しつもんじゃが、ぬしらをわたしてやったらあ、ぬしらはなにをくれるんかのお」
「渡すだけでは駄目ですか?」
「おおん。そううじゃろううてえ。ぬしらをわたさなくてもお、おわるじゃろうう。ながあくみておるからわかるんよお。ニンゲンとはそういうイキモノじゃろうう。おそろしいほどお、あきらめずにすすむ。だからあおわりがちょびいとながくなろうともお、わしにはああんまりかわらんよお」
なんだか、この巨亀を見、声を聴いていると、ほんとに悠久など瞬間でしかない気がしてくる。
「まああ。かんがえるかあ。そうだんするかあ…」
「僕をあげます」
それはもう、即答だった。
「僕を好きにしてください。食べるなり、あと、分かんないですけど」
「とおまあ。ぬしい、ほんきかあ」
「はい」
言い切った。あまりにも、あっさり過ぎて、なんとも考えられなかった。けど、なぜか手が、そして、心が震えた。勇気、とは。
「むうん。むううん。むうううん」
唸り声が響く。「おおん」が笑い声だとすると、「むうん」は何なのだろう。怒り、か。
「なんじゃあ。こんなニンゲンはじめてじゃあ。なるほどなあ。しんべるぐう。ぬしのしりあいかあ。わかる、わかるぞお」
亀の声が一際大きくなる。もうお腹では留まらない。胸の辺りまで震える。
「わしいはあ、うまれたときからあちらのくにじゃったあ。ふかい、ふかあいやみのくにじゃあ。いがみあい、ぬすみ、だまし、そうではなくてはまんぞくできない、ふかあいやみのくにじゃあ。だからみずにもぐったのじゃあ。のぞまなければあ、いきられるのじゃあ。だれもきずつけずう、だれにもきずつけられずう。ただ、さびしさだけをたえればいいのじゃからあ。そのうちときだけがすぎさりい、なにもかんがえなくなったあ。なんのためにいきているかすらじゃあ。じゃがあ、こんなきもちになるとは!むうん、そのはっそうはなかったぞお。ふるえるぞお。とおま。こんなきもちのためにいきてきたのじゃなあ。いきていて、こんなによかったとおもわされるとはあ。であいじゃあ。こころとであえたのじゃあああ」
「渡して、くれますか?」
「よかろうう。とおまがそのみをさしだすというならばあ」
むうん、と一鳴きすると、巨大な長老は首を左に回し、体を回し始めた。湖面が激しく揺れる。完全に背中を見せると、その長い首を後ろートーマ達―に向けると「のれいい」と雄々しく言った。
皆、顔を見合わせたが、すぐにアルミスはトーマの背中をばしっと叩き、アイリもそれに続く。司書はトーマの肩に手を置き、頷きかける。キーラはトーマの顔をぎゅっと抱きしめー丁度胸に当たってるー老魔導士はキーラに抱きしめられてあたふたしている右手を両手で握手。そんな光景を、腰に手を当てたまま見守っていたクララだが、つかつかとトーマの背中に近寄ると、両手で肩を掴み、こちらに振り向かせ、二回、うんうんとうなずいた後、力いっぱい抱きしめた。二、三秒そうしていて突き放す。トーマは優しく、照れ笑いを浮かべていた。
「トーマ」
アルミスに促されて、トーマは湖の淵から亀の甲羅に飛び移った。
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