4日目 夜 踊り場にて 夏の夜の夢

 4―5「四段目 踊り場」

なあセツエイ。

風が止まってしまえば、時間が止まる気がしないか?

ふふん。

武骨なやつ。

なあ…

いや。

待っているから。

すっと。

<カヤ姫>


 セツエイの体は、その鎧と共に丁寧に包まれ、ゴードン王の墓碑の前に置かれた。

 今、その紺色の包みは、静けさと共にそこにある。

 クララはカゲキリを背中に背負い、司書の横で黙とうを捧げた。

 気づかない内にどれだけの力で握りしめていたのか、自分の手指なのに引きはがすのにえらい苦労して、最終的にはトーマの力を借りなくてはいけなかった。カゲキリが、心地よく重い。

「行きましょう」

 司書の一言で、一人ずつ、その引力から逃れるようにその場を後にする。最後にアイリが残り、そのアイリも力強く踵を返した。

 入口を塞いでいた闇の根は、まるで難百年も前の植物のように枯れ果て、朽ちている。カサカサ音を立てる根を、乱暴なほどの力強さでトーマが引きはがし、戸を開けた。

 外界の濃密で生々しい気配が墓所に流れ込む。光とも言えない仄暗い明かりの先に、見慣れたたたずまいの影二つ。思わず駆け寄る。風が少し肌寒い。

「ああ。中にいたのか。戸が開かなくてどうしようかと…どうした、クララ」

 アルミスの平坦で力強く頼もしい声。クララはただ、頭を振った。アルミスと老魔導士は戸惑ったように顔を見合わせる。

「アイリ。何が…おい、アイリ」

 その横を黙ってアイリが通り過ぎる。司書が来て優しく言った。

「皆少し疲れていまして。取り合えずここを離れてテントを張りましょう」

「何かあったのか?セツエイの姿が見えんようじゃが。やつは中か?」

 老魔導士が聞く。

「ええ。中です。いろいろありまして。いろいろと」

 アルミスと老魔導士は再び顔を向い合せた。

 墓所が見えなくなるまで歩いて、大きな岩のかげにテントを張った。道すがら、アルミスと老魔導士は何があったか知りたがったが、皆終始無言だった。無視する、というよりは話す気力すらない、というのが正解だろう。クララ自身そうだった。決死行で二人で行動したせいか、アルミスと老魔導士は前より中が良さげに見えた。そんな二人の関係になんだか無性に腹が立った。セツエイがいないこと、他の皆の雰囲気。そういうものを察したのか、いつしか二人も無言で歩いた。

 テントを張り、簡素な夕食の後、アルミス、老魔導士、司書、キーラ、トーマ、クララの六人は車座に座り、お互いの過ごした経験を伝えあった。

 アイリが早々に寝てしまったため、コーヒーは無し。司書が用意したバラの香りのする茶色いお茶と、茶色のお酒を伴に話は進んだ。

 司書から話を聴いた老魔導士が「そうか」と言い、アルミスが「そんなことが」と続ける。アルミスは、右手を胸にあて、老魔導士は額に右掌を押し付けて哀悼の意を示す。

「それで、そちらは?」

 司書の問いかけに二人は目を合わせて押し黙る。そして同時に首を振ると前を向き、アルミスが言った。

「いや、今は良そう。大した話じゃない。単なる思い出話で、今話す話じゃない」

「そうですか。では、今後の事を話しますか?」

 アルミスは順に皆の顔を見つめる。最後にクララと目があった。しばらく見つめった後、アルミスは不意に視線を外して頭を振った。

「いや、それも良そう。明日、起床後にしないか?」

「ええ。分かりました」

 では、と言って各々床に向かう。クララの寝床の横に座ったキーラが、「眠りの魔法をかけましょうか?」と聞いてきたが、少し考えて断った。今日はそういう気分ではなかった。

 それから1時間ほど。アルミスと老魔導士、司書は囲炉裏の周りで話し込んでいたようだが、明かりが消え、衣擦れがすると、それきり静かになった。

 クララは変に寝付かれない。体はどうしようもなく疲れ切っているのに、頭のスイッチが切れない。キーラに魔法をかけてもらえば良かったと後悔する。今からお願いしようか。キーラはもう寝ただろうか。そんなことを考えていると横でキーラがむっくり起き上がるのが背中越しに感じられた。キーラは衣擦れの音も密やかに表に出る。キーラも眠れないのだろうか。クララはそっと体を起こすと皆を起こさないようにその後を追った。

 やっぱり肌寒い。気配はもうすっかり秋めいていた。

 テント脇の大きな岩からも秋の気配のようなひんやりして切ない匂いがする。

 王の墓所ほどもある大岩の端の角を、キーラの後ろ姿が曲がっていった。

 ゆっくり歩くつもりが、存外大きな岩に終わりが来ない感じがして、最後の方は小走りになった。角を曲がると、数メートル先、紅葉しかけた大きな樹の下に二人の先客を見つけた。

 一人はキーラ。

 もう一人は、司書だった。

 司書も寝付けなかったのだろうか。こちら向きに座っている司書と目が合う。司書はパタンと本を閉じると、クララに向かって頷いた。司書の視線の先を追って、キーラもこちらを振り返る。岩に反射してか、月の光を浴びたようなその表情は、穏やかな曇り顔だった。

 一瞬テントに戻ろうか躊躇したが、俯いた顔を上げ、相変わらずの困り眉で手招きするキーラに誘われるように前へ進み出た。

「眠れない、のかな?ですね」

 司書が言う。クララはこくんと頷いて見せた。顔が冷たい。おかげで余計目がさえた。

「そう。クララちゃんも」

 キーラはいつものように、短い言葉を吐く。その姿は、まとわりつく、というよりは切り取る様な秋の冷気の中で、際立って細く、悲しげで、儚げで、それゆえか妖しく美しかった。誰か抱きしめなければいけない、そんな気がするほどに。

「はい」

 秋を楽しんでいるかのように陽気ではないが明るい声で司書が何かを差し出す。カップには何か温かい飲み物が入っているようだ。湯気が立つのが見える。キーラはカップを受け取ると、両手で包み込むように持った。

「あたたかい」

 愁いを帯びて見えるその表情が、少し和らぐ。

 司書は横着にも手招きすると、クララにカップを差し出した。クララは子犬のように駆け寄ると、キーラのようにカップを両手で包み込む。あたたかい。恐る恐る、それでも出来るだけ急いで口を着けたその中身は、濃くて甘い琥珀色の飲み物だった。口、喉、お腹の辺りまで温かみが広がっていく。安心感。思わず、ホッとして目を閉じた。

「おいしいでしょう?ブルーフォレスト産ハチミツとサンサワ産チョコ、それにノルン産リンゴのオリジナルブレンドです。冷やして飲んでもいいのですが、こんな夜に温めて飲むのはたまりません」

 二人の反応が嬉しかったのか、司書は嫌味もなく目を細めて笑っていた。自分も相当疲れているだろうに、二人を気遣う司書は本当に優しい人なんだな、と再認識させられた。派手じゃないから気づきにくいけど、だからこそ心の中に温かく落ちていき、いつまでも残る様な素敵な優しさ。丁度今の飲み物のように。しばらく三人とも黙って飲み物をすする。

 キーラが手じかな岩に腰掛けるのを見て、クララも程よい高さの岩に腰掛ける。

 岩はひんやり冷たかったが、左程気にはならなかった。飲み物が一層有り難い。

「キーラさんが遅くまで起きているのも珍しいですね」

 司書が聞いた。

「ええ。寝付けなくて」

「魔法は、ご自身にかけないのですか?」

「ええ。なんというか、しっかり見ておきたい…考えておきたいですし…それに」

「それに?」

「わたしは自分に魔法をかけるのが怖いのです」

 微弱な光を反射する透き通った肌。動くたびに微かに揺れる紫の髪。長いまつげが目元に影を落とす切れ長の瞳。儚い美しさそのものの人。その声は鈴のように、凛としてそして悲しく響く。静かに秋の虫の音が聞こえるが聞こえる。

「それはまた、どういう」

「聞きますか?」

 キーラは悲しく笑う。「そうですね」と呟き口元に手を当てる。元より話すつもりでいたのだと気づかされる。

「旅の初めにお話しした通り、わたしは聖プーチの神官でした。生まれてからずっと。神殿を出るまで。いえ、その少し前まで、ですかね。今も人はわたしを聖プーチの神官と呼びますが、わたしの中では最早取り戻せない過去の話です。今は何者なのでしょう。ただの女、なのかと思います」

「それは、なぜです?聖プーチの神官として浸食に参加したのではないのですか?」

 司書の質問に、キーラは溜息で答える。そして司書には答えず、クララに奥深い目を向けると、「聞いてくれる?」と言った。

 クララはなるべく慎重に見えるように、ゆっくりはっきりを意識して頷いた。

「司書様にはお話しするつもりでした。おそらく旅の記録のようなものをお書きになっているのは存じ上げておりましたし。今日はセツエイ様が何と言いますか、あんなことになってしまって。セツエイ様のように穏やかに神の元に召されることが出来るのかどうか不安、といいますか心残りを残したくないと恐ろしい気持ちになりました。ですからどなたかにお話しして、自分の願いの一部でもなんとか生き続けてくれないかと。そう、司書様とクララちゃんがいいのでしょう。女同士ですし。ただ」

「ただ?」

「恥ずかしい話です。でもお話しします。少しお酒をいただけますか?」

 司書は黙ってローブの袂から小瓶を取り出すと、キーラに渡した。キーラはカップに注がず、瓶に直接口を付けて中の液体を煽ると、少しむせた。その普段から想像もつかない振る舞いに、クララは少し面食らう。

「強いですね。でも、いいです。はい、わたしが浸食に来たのは、人に会うためです。会ってどうするかということでもありません。上手く話せる自信もない。ただ、この指輪を受け取って欲しいのです」

 そういって、長いローブの袂から細く綺麗な指を出し、首から下げたチェーンの先を見せた。銀色に輝く、小さな指輪だった。

「聖プーチの指輪です。その方のものではありません。わたしのです。随分とひどいことをしてしまったお詫びに差し上げたいのです。わたしには、他に差し上げるものがないので。その方、というのは前任の神官長様です。つまり、エルの杖を授けて下さった方の前の方です。彼は、わたしがわたしを取り戻した時には、もちろん変わってしまったわたしですが、姿を消していました。お別れも言ってくれなかった。浸食に行ったと聞き、後を追ったのです。もう、失うものはなかったので」

「なにか、あったのですか?」

「はい。そうですね。分かりづらいですよね。恥ずかしいので、ついつい曖昧になってしまう。いけませんね。あの方に怒られてしまう。厳しく、気高く、なによりも優しい方でした。あの頃は気づきませんでした。わたしたちは、皆、そこにいることが当たり前すぎて。ただの言葉が、こちらに来てから随分と腑に落ちます。そして身に沁みます。聖プーチ様の言葉も、あの方の言葉も。優しさ、こころ、そういったものは、気づかなければ存在しないのですね。聖プーチの神殿、わたしたちはお山、と呼んでいました。わたしが言うのもなんですが、辺鄙なところにあります。週に一度、麓に住むおばあさんが穀物や野菜を届けに来る他は外の人は誰も来ません。ですから去年の春の終わり、神官長様が見知らぬ男の人を担ぐようにして散策からお戻りになられた時は、それは騒ぎになりました。どこかから落ちたのか、ひどい切り傷で。わたしたちは人様のお役にたつようにと、多少の医学の心得もございましたし、当然治癒の魔法も使えますから、神殿の者総出で看病に当たりました。その甲斐あって、何よりも若いこともあって治りも早く、起きて歩き回るようになるまで三日とかかりませんでした。どの時だったのでしょうね。あの人がわたしを騙し始めたのは。わたしが危うい魔法にかかってしまったのは。看病は日替わり週替わりではなく、時間替わりでした。初めはなんとも思わなかったのです。本当に。ただの物珍しさ。起き上がり話すようになって、すぐにお山を下りてくれればあんなことには。旅の商人、と言っていました。わたしには。まあ、嘘だったんですけど。わたしが様子を見に行くたびに、屈託なく笑い、今日も素敵だとか、わたしに会うたびに元気になるとか、そういうことを言うのです。そういうことをおっしゃる人に会ったことがないわたしは、初めの内はなんだか恥ずかしくて俯くだけしか出来なかったのですが、その内あの人に会うのが楽しみになっている自分に気づかされました。そうなるともう駄目でした。無邪気な笑顔、いろんな国の愉快なお話し、若く引き締まった体。そういうものに触れたくてしょうがなくなっていました。もちろん、口には出しません。出せません。態度にも出せません、でした。でも、いつしかあの人を探して神殿内を歩くようになり、お祈りにも、お努めにも身が入らなくなってしまいました。そうして彷徨っていると、聖プーチの像の下で、他の神官、もちろん女性です、と楽しそうに話しているあの人を見ることになりました。辛かったです。なんで辛いかも分からないままに泣いたりもしました。いっそ看病の担当を外してもらおうと思い、実際外してもらいました。眼に入らなければいいのだと思い、これでもう大丈夫と思い、聖プーチ様にすがるように、一心にお祈りしました。でも駄目でした。残像を消せないのです。少し手を伸ばせば、そこに実物がある状態で、残像を消せないというのは本当に辛いのだと学びました。そして、あの人が来てから十と四日たった真夜中、今日のように眠れずにいたわたしは、何をしているか分かりながら、分からないふりをして、あの人の寝ている坊を訪れてしまいました」

 キーラは黙って司書に右手を差し出す。司書は不意を突かれてギョッとしたように身を引いたが、すぐに得心したらしく、酒の入った小瓶を渡した。キーラマイは先ほどより激しく瓶を煽った。

「はあ、なんなんでしょうね。人間と言うのは。自分で自分のことを分かっているつもりで、同時に自分を自分でどうしようもない。そういう時はそういう時だと、あの方は言って下さいましたが、あの時、夜の神殿を歩いているときだって薄々は何か違うと思っていたんです。でも、結局そんな自分を振り払って。それまで生きてきた殻を脱ぎ棄てたいとか、そんなことでもないのです。ただふわふわした体の感覚に任せて動くことに快楽を感じていた。やっぱりうまく説明できない。まあ、だから説明しないで指輪を渡すのですが。思い出してその時は楽しかったのかも思い出せない。銀のスプーンを舌に当てて考え込んだときのあの感じ。舌に触るスプーンの感じは分かっても、味がしないんです。負け惜しみ、とか悔しさ、後悔でもないのです。行動自体には。後悔はあの方に負わせた心の傷と、失った絆にあります。それはもう、ずっと。三日ほど通って段々悲しくなってきました。あれは愛とは違う。心がまったく満たされないのです。それでも執着なんですかね、四日目五日目とあの人の部屋に向かって、六日目に行くのを止しました。久しぶりに早く寝たせいか、次の日は辛くもなく早く起きました。そして騒ぎに気付いたのです。最初は年配の司祭様達がパタパタと慌ただしく神殿内を走っているのに遭遇しました。珍しいのです。本当に。神殿内で誰かが走るなんて。変に胸騒ぎがしていたわたしは、司祭様に囲まれて、あれこれ指示なさっている神官長様の元に駆け寄り、何事か起きたのですか、と尋ねました。とても優しく、いつもわたしの事を大切にしてくださっていた方です。わたしに兄はおりませんが、お兄様のように慕っておりました。その方が、わたしの問いかけに少し困った顔を見せ、いや、まだなんとも言えないと歯切れの悪い返事をなさいます。なにが起きたのかは分かりませんが、悪いことが起きたのは分かりましたし、それがあの人に纏わることだというのも察しました。そして、神官長様が、ここ最近わたしに起こった変化に気づいていたことも。日が昇り始め、徐々に人が増えるにしたがって、特に女官達が集まり始めるに従って騒ぎは大きさを増し始めました。若い女官の二人に一人が、事態を聞いて泣き崩れたからです。三十人ほどの女官が、神殿の広場で泣いている姿を見て、わたしの頭と背中に、重いおもりが少しずつ載せられていく感覚に耐えていたのを、感覚として覚えています。わたしは騙されました。あの人、あの男は、盗賊だったのです」

 キーラは小瓶を握りしめ、また一口飲み込み、溜息をついた。眼を伏せ、早口で語るその姿は、普段の無機質な美しさが別人のように生生しかった。薄明りでも分かる、頬に刺す赤み。目の潤み。時折乱れる言葉遣い。熱を感じる顔ごと上げた目が、クララのそれとぶれずに合う。

「知っているのと、意味が分かるのは全然べつのことなのよ」

 キーラはひしと視線を固定させると言った。

「甘い言葉と優しい言葉。打算の産物と、思いやりの伝え方。似ているけど違うのよ。無知は罪なのよ。いいえ、違う。無知でもいい。見抜く目があればいい。本質とかそういう難しい話でもない。ただ、嘘を見抜く目があれば。嘘つきは泥棒なのよ」

 そう言って小瓶の残りを飲み干すと、再び目を伏せた。

「あいつは神殿の像に埋め込まれた宝石、祭壇にあった銀器。そういった軽目の物を持って逃げたらしいです。手馴れた男であれば、さぞ簡単だったことでしょう。そうして、神殿のあちこちにいくつかの空洞が残されました。女官達のうち、良家から預けられていた幾人かは、期限を繰り上げてお山を去りました。わたしは行くあてがなかったので、そのままお山に残りました。なにも変わらない様な日々を過ごすことになりました。だけど、もちろん、元の生活に戻れるわけもなく。それから一か月ほどたったある日、神官長が変わることを知りました。いえ、聞いた時にはもう変わっていました。もう少し時が経てば、昔のように自然に笑いあえる、そう信じていたわたしにはショックでした。結局あいつが逃げた日以来、一言も交わせなかった。わたしが自己嫌悪で避け続けたから。今思えばそれも良くなかったのでしょうね。そして、月日は流れ、三か月ほど前にあの方が浸食に志願したと風の便りに聞き、今に至るのです」

 ほうっ。その溜息で、キーラの話が終わったのが分かった。口元が、きゅっと真一文字に閉じられ、辺りに静けさと虫の音が戻った。

 司書が、ぽりぽりと頭を掻く。クララはかける言葉が思いつかなかった。

「なるほど。あれですね。なんというか、お探しの方に会えるといいですね」

 月並みなことを言う。キーラは一層俯いて「別にいいんですけどね」と囁くように言った。クララは、恋をしたことがない。だから、なんとなくも共感は出来なかったが、キーラが吐き出したい気持ちは感じることが出来た。上手く言葉に出来ないので、そっと手に手を重ねた。キーラは一瞬強く手を握ると、すぐに和らげ、開いている左手でクララの右手をぽんぽんと叩いた。そうして顔を上げる。

「この指輪は初めて魔法を覚えた日に、あの方から貰った物なのです。あの方も孤児でした。神殿の前に捨てられていた時に、唯一握りしめていた物だそうです。それ以来、辛いとき、悲しいとき、世界に一人だと感じるときに、握りしめては、自分が誰かに望まれて生まれて来たことを思い出したと。自分には、もう必要が無いから、持っていてくれないか、いつか役に立つかも知れない、そう言って渡して下さいました。わたしは何かを知り、何かを失い、そして、自分を知りました。なので、この指輪をお返しして、少し、お話がしたいのです」

 キーラはそう言って指輪を見つめた。

「ありがとう。クララちゃん。渡したいものを渡せた気がするわ。なんだかすっきり」

 満面の、美しいが可愛らしくもある満面の笑顔を見せると、すくと立ち上がる。

「もう寝ます。眠くなりました」

 唐突にそういうとさっさと歩きだす。二、三歩歩くと、立ち止まって振り返る。

「忘れてました。司書様もありがとう。はい、これ」

 司書に向かって下手投げで何かを投げてよこした。暗闇の中で飛んできたその黒い物体を、司書は危なっかしく両手で受け取る。クララと司書で覗き込むと、酒の空き瓶だった。二人で顔を見合わせ、再び顔を上げると、キーラの姿はもうなかった。

 後には、キーラの爽やかだが、少し妖しく甘い残り香が漂っていた。クララは再び司書と顔を見合わせると、そのきょとんとした顔が可笑しくて思わず笑った。司書も釣られて可笑しそうに笑う。鈴のような虫の音に、押し殺した笑い声が乗る。

 二人は首を振り振り、笑いをかみ殺しながらテントに戻った。テントにいる全員が、穏やかな寝息を立てていた。




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