4日目 その時

4―4「風と共に」

雪も、雨も、霧も消えていく。

風だけが去っていく。

<セツエイ>

 

 そのあと起こったことは、聞けば単純な話だが、過程は多くの物を含んでいた。

 すべての事象がきっとそうなのだろう。

 結果は現れる。それまでに流れた時間。沢山の想い。喜び、悲しみ、怒り、不甲斐なさ。笑顔、涙、血、汗、そしてまた涙。結果だけがすべてだと人は言う。もちろん、過程が大切だと言う人もいる。いずれにせよ、クララは実感した。

 言葉を知っていても、上手く説明できず、感情をそのまま伝えることが出来たら楽だと、何度思ったことか。今も、それはそう大きく変わらないかもしれないけど、少しは伝える努力を出来る気がする。

 目の前に、両足を失ったセツエイの遺体を目の前にしている今、そしてこれからならば。

 アイリが泣いている。あの、黒のアイリが。

 キーラは、遺体―遺された体―の横に膝をついたまま動かない。右手は、回復の呪文の印を結んだまま。顔は紫色の髪に隠されていて見えないが、肩が小刻みに震えている。

 トーマは顔を真っ赤にしたまま、上を向いたり下を向いたりを繰り返している。

 司書はその全ての人たちを、能面のような顔で見ている。

 シンベルグは、目を閉じ、腕組みしたまま微動だにしない。まるで彫刻の様だ。

 そして、クララは、というと、自分が泣いているのは分かった。ただ、自分のために泣いていないのは確かだった。ごめんなさい。そう思って泣いていた。セツエイはきっと泣いて欲しい訳ではないだろう。だからごめんなさい。自分のために泣いている訳ではないが、泣かないで前に進めるとも思えなかった。だから泣いた。そしてごめんなさい。そして、涙は枯れ果てた。

 セツエイが素手のまま、エカチェリーナの元に歩いて行ってから、1時間経っていないだろう。長くとも、30分。

 武器を持たずにゆっくりと歩み寄るセツエイが不気味だったのだろう。エカチェリーナは弄ぶように、右から左からシンベルグの足元を払っていたその触手の動きを止めた。シンベルグも、縄跳びの要領で触手をひらりひらりと飛び越えていた動きを止めて、セツエイに見入った。

「…お主、何をたくらんでおるのじゃ?」

 再び言葉の指向性が広がったのか、エカチェリーナの声が、墓所内に響き渡る。先ほどまでの高音と打って変わって低く響くその音は、ある種の厳かさに満ちていた。

「差しで勝負しないか。いや、勝負しなくてもいい。それがしの命をヌシに渡そう。ヌシはどうか分からんが、それがしはもう十分に、いや、十二分に生きた。度を超すと、辛くなるばかりだと良く分かった。今が引き時、そんな気がする」

 そんな。もちろん、そんなつもりじゃないかと考えないでもなかった。本当に?揺さぶって聞いてみたい衝動。だが、セツエイはもう随分前に居る。そこまで行く勇気がない。

「本気か?丸腰の相手に勝負して負ける気もしないが。喰らってくれとお願いされるのは、随分と長く生きているが、そう、初めてじゃな。殺してくれ、なら何度も聞いたがの」

 「こいつ正気か、シンベルグ」とエカチェリーナは疑わしげに問いかける。

「おそらく」とだけシンベルグ。

 「まさか、その態でくればわらわが喰らわずにおのれら全員見逃すと思っているのか?」

 どうにも疑いが晴れないようだ。そうだろう。クララがエカチェリーナの立場でも、どうかと思う。

「正気だ。で、どうなのだ。それがしの命と引き換えに皆、仲間を見逃してくれるのか?」

「ふーん。まずそうな男一人と交換か。わらわの美貌と若さの維持のためには、若い女子の生き血が必要なのじゃがなぁ」

「駄目だ。取引が成立しなければ、われら一同、必死で戦う。我らには武器がないと思うなよ」

「知っておる。なんとかいう器じゃろう。それでもわらわを殺めることは容易くはないぞよ」

「やってみるか」

「そうよなぁ。まあ待ちやれ。少し考えてみる」

 エカチェリーナはそう言うと、花弁の上で、裸の腕を持ち上げ、指を口元に当てた。同様に、触手状の蔓も大きな華の真ん中に広がる口元に当てる。

 分からない。ただ見守るしかない。セツエイの考えているのは、このなんのひねりもない懇願なのか。誰かにすがりたくて、正解を聞いて安心したくて周囲の顔を見渡すが、横顔を見せるだけで誰も答えてはくれない。

「決めた」

 あっさりとエカチェリーナが言うのと、その触手がセツエイに伸びるのとはほぼ同時だった。何が決まったか考える暇はなかったが、何をしようとしているのかは目に見えて分かった。そして答えも男爵夫人が教えてくれた。

「おぬしを喰らってから考えるとしようううぞぉぉぉ!」

「卑怯!」アイリが叫び駈け出そうとするのを、司書が止める。

「放せ!」

「放しません!」

「おまえ、司書、なぜ!」

「セツエイ殿は侍なのです!」

 短く、峻烈だが、無意味なやりとりは、セツエイの叫び声で強制的に終わりを告げる。一瞬、身近なやり取りに気を取られていたクララの視線もセツエイの声の元に戻る。

 ああ。あれは。間違いなく。刺さっている。セツエイの体を、一本の触手が下腹部から背に抜けている。

「貴様ぁぁぁ」

 呻くような、絞り出すような声は、その苦痛を否が応にも伝えてくる。

「おほほほほほほほほっ。安心せい。なぶり殺して喰らうのは趣味ではない。生きながら喰ろうてその血をなるたけ無駄にせずわらわの血肉としてくれる。喜べ、ほれ、喜べ」

 普通の植物ではない、不思議な金属質の蔓に串刺しにされ、セツエイの体は宙に浮いた。苦痛がひどいのか、セツエイは身じろぎせずグッタリとしている。セツエイの血らしい液体―様々な色の光で照らされ、血には見えない―が蔓の表面をゆっくりと染めていくのが見える。蔓の表面をほとんど染めたかのようなその量に、クララは自分の頭から血の気が引く、サァッという音が聞こえた気がした。気が、遠くなる。誰も言葉を発しない。狂ったように笑い続けるエカチェリーナの声だけが、墓所の空間を隙間なく埋めていて、まるで新しく言葉が生まれる余地が無いかのように。

 一瞬、ビクンとセツエイの体が跳ねる。

「おおっ。死んでしまっては良くない。歳を取ると冷たいものはあまり良くないのじゃ。そちらに分かるかのぉ」

 言いたい放題。これが、闇の生き物だ。恐怖を凌駕し、クララに激しい怒りが湧き上がる。「鮮度鮮度」と言いながら、エカチェリーナは闇に咲かせた悪の真っ赤な大輪に滋養を与えるべく、セツエイの体を口元に運んだ。エゴ。ただ自分の欲望のために、信を裏切り、他人の想いを踏みにじる。どんな理由があっても、許せない。純粋な怒り。純粋な悲しみ。あの華に対する嫌悪感の源にはっきり辿り着いた。そして自己嫌悪。無力なことが、こんなにどうしようもなく自分の体の内側に渦巻くなんて!どうしようもない場所にはまり込んだ思考と体はただ熱く震えるだけで、そうこうしている内に、セツエイの脚が膝まで飲み込まれようとしている。このまま、消え去ってしまうのか。そんなのっ…無駄死にじゃない!今度は潔いのかなんなのか、徒手空拳でエカチェリーナに歩み寄ったセツエイ、そんなセツエイの決意を許した司書に腹が立って涙が出る。男同士の友情?分かり合う気持ち?そんな物が一体なんの役に立つのか。男の勝手な自己満足じゃない!やるせない気持ちに叫びだしそうになる。いや、実際クララは叫んでいた。派手に涙を流しながら。墓その正当で純粋な怒りの叫びは、墓所内に充満する狂気を切り裂き、セツエイの元まで届いた。

「泣くなぁ!クララ」

 叫びは、力強い返事で報われた。最初からそのタイミングだったのか、それとも、クララの叫びが中断されていたセツエイの意識を呼び起こしたのか。セツエイはぐったりしていた上体を引き起こすと大声で笑った。

「かかったな。醜い化け物め!」

「なにおぅ!半身を食われて血の巡りを悪くしたか?わらわの美貌が分からぬとは!」

「はっ!笑止。アイリを見ろ!キーラを見ろ!そしてクララを見るがいい!」

「あんな小娘ども…」

「違う!美しさとはその動き、その行い、そのこころ。おまえにはひとつも見当たらん!ただの醜悪な化け物だ!おれには分かる!」

「くっ、田舎者が何を言うかぁぁぁぁぁ」

「ああ、そうだ。おれは遥か東方ヤクシの侍、セツエイ!二つ目の刃を体に隠し持つ者!これでもくらえい!」

 そういうとセツエイは自らの右手で左の手首を掴むと大きすぎる動きで引っ張った。左腕が肘から千切れた、ように見えた。そして、その下から遠目にも鋭く清らかに輝く銀色の刃が現れた。

「ひっ」

 セツエイを咥えこんでいる大きな唇の端が震え、その上に鎮座する半身の女性の唇からも短い驚きの声が漏れる。半裸半身のエカチェリーナ本体は両手を交差させ、豊満な胸元を隠す。呼応するようにセツエイを貫いた蔓ごとセツエイの体を引き離そうとするが、蔓が引き抜かれただけで、がっちり咥えこまれた両脚を軸に、セツエイの上半身はそこに踏み止まる。右手がエカチェリーナの左肩を掴む。ぶわっといくつもの蔓が上空に引き上げられ、醜かいな毒の華はその存在感を倍にする。

 次の一瞬には、複数の蔓がセツエイの体を貫くだろう。だが、セツエイは刹那、その隠し持った刃をエカチェリーナ本体の腹部目がけ突き刺した。突き、刺し、上に向かって引き裂くその速さは、クララの想像を超え、ほとんど静止画に見えた。

「ああああああああぁ」

 叫び声は口からというより喉から絞り出されるそれであった。苦痛だけではなく、目の前に迫る暗く重い塊を避けようがない、そういう恐怖に満ち満ちていた。

 エカチェリーナの本体から黒い何かが霧状に噴出し、セツエイを覆い隠す。条件反射か、ガチンと音がして、セツエイを咥えこんでいた捕食用の口の歯が閉じる。

 セツエイの体が、背中から地上に落下する。どさり、ではなく、ドンと鈍い衝撃的な音がして、セツエイの体は地面に落ち、反動で跳ねた。誰が、ということを判別する間もなく、経緯を見守っていた一団は一斉に駈け出した。クララももちろん。ふわふわがくがくする太腿を握りこぶしで叩く。痛みが他のいろいろな問題を掻き消す。司書が滑るようにセツエイの傍らに正座し、布をセツエイの膝に巻きつける。白い布は、瞬く間にどす黒い朱色に染まった。

 セツエイを見、思わず至近に迫った狂気の華を見上げる。余程の力を加えたのだろう。鎖骨の辺りに折れた刃が刺さっている。霧状の噴出は霧吹きで吹くほどになり、はるか上空に持ち上げられた蔓がゆっくりと水位を下げるように降りてくる。

 エカチェリーナ本体は、先ほどまでの饒舌はどこへやら、なにか言いたげに口を開いたまま両手を切口に添わせている。クララと目があった。

 その眼は、異様な程に見開かれている。驚き、理不尽、現実逃避。眼から伝わる心の動き。口をパクパクさせた後、一度口を閉じ、何か飲み込み再び口を開いた。

「えええええええ?」

 残念そうな、心底残念そうな声が絞り出された直後、目がぐるんと上を向き、体ごと、その大きな華の茎ごと崩れ落ちた。クララも呪縛を逃れたように、膝から崩れ落ち、地面にガン、と両膝を着く。立膝のまま、セツエイを囲んでいる仲間たちに意識を戻す。正座し、セツエイの頭をその太腿に乗せているのは、最初キーラかと思ったが、現実ではアイリだった。セツエイの右手を握り、あられもなく泣いている。普段の気丈な彼女からは想像出来ない姿だ。涙で流れたアイラインが、黒い涙の様。よだれの筋が唇の端から垂れている。

 セツエイの左脇では、中途半端な正座のまま、司書がおそらく薬だろう、白く丸い粒をセツエイの口に押し込もうとしている。口から溢れる血で、司書の手は真っ赤だ。

 右脇では、キーラが早口で何か呟いている。魔法を唱えているのだろう。両手を胸元で握り合わせて話すその姿は、詠唱というより祈りの姿だった。

 キーラの後ろでは、剣を握りしめたトーマが、集団を守るように仁王立ちし、死んだエカチェリーナに相対している。歯ぎしりの音が聞こえんばかりの形相で。

 それらすべての人間の動きを克明に記録するように、少し離れた暗がりに、シンベルグは居た。いつもの無重力感はなく、棒のように突っ立っている。表情は見えないが、その姿は「悲しみ」と銘打たれ、最初から置かれていた墓所の彫像の様だった。

 短く、献身的だが、ほとんど無意味な時間を終わらせたのは、セツエイの自身だった。セツエイはアイリが掴んでいる右手を持ち上げ、演奏を止める厳格な音楽教師の動きで右手を開き、突き出した。

 クララは駆け寄ってセツエイの顔を覗きこむ。気配を感じたのか、セツエイは目を閉じたまま、微妙な動きで一人一人に顔を向ける。一度口を開きかけ、閉じると口をすぼめて顔を司書側に向けると唾というには赤すぎ、粘度の強い液体を吐き出した。

「少し、静かにしてくれまいか、アイリ殿」

 口元には微笑。場面に最大似つかわしくないその表情が、余計哀愁を誘う。

 セツエイの依頼と真反対の反応を示したアイリの右頬を、司書が左手の甲でごく優しく鋭く弾いた。アイリは閉じていた目を見開くと、唐突に黙った。

「かたじけない。司書」

「いいえ。気分はどうです?」

「ああ、キーラ殿の適正な判断のおかげで痛みが随分和らいだ」

「そうですか。どうです。もう一度立てますか?」

「いや、それは遠慮しておこう。凄まじく幸せなのだ。このまま逝かせてくれ」

「そうですか。何か出来ることはありますか?」

「なにも、いや、そうだな。酒を頼まれてくれないか」

「分かりました」

 司書は手早く巾着から酒の瓶を取り出し、杯に注ぐとアイリに差し出した。アイリは怖い程の無表情で受け取ると、セツエイの唇に指を添わせ、そのうえから杯を傾けた。セツエイの喉元がはっきり上下する。

「ううむ。いい酒だ。一本空けられないのが惜しいな」

「余計なことをしましたかね。いや、いつかきっと飲み交わす日が来るでしょう。その時まで取っておきましょう」

「ああ。そうだな。ありがとう。司書。アイリ。キーラ。トーマ。シンベルグ。クララ。ほんとにありがとう。出会えたおかげで理想に辿り着けた」

 少しずつ、嗚咽が高まりつつある。クララも泣いていた。声を出さないように、口を大きく開き、口元を両手で押さえて。

「他に何か?」

「いや、もうない。少し眠る。置いて行ってくれ。では」

「さようなら。セツエイ殿」

「さらばだ」

 セツエイは口元を真一文字に引締め、右手をゆっくり下した。皆、黙って見守る。アイリが握った右手を引き上げ、両手で握ると、自らの額に押し付け震えている。セツエイは首を少し傾けるようにして、顔をくしゃくしゃにして笑顔を作ると、掠れた声で言った。

「ああ。すまん。今行く」

 セツエイの鼻からゆっくり息が漏れ、彼は永遠の眠りに落ちていった。

 


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