4日目 闇に消える影

4―4「風が生むもの」

夜に吹く強い風で、いい風ってのは、ちょっと想像つかんね。

<ディーフォレストの船乗り>

          

 墓所の周りは鉄柵で100メートル四方囲まれている。

 浸食以降、そんなに日は経っていないはずだが、墓所の周囲をぐるりと回っているだろう石造りの道以外に生えている草は膝丈ほどの高さがある。

 なんとなく、地元の牧場を思い出す。違いは厩舎、牧舎の代わりにドーム状の墓所があることと、墓所を守る様に、騎士や賢者の像が配置されていること。

 墓所に通じる、一見固く閉じられた門扉は、セツエイが軽く押すだけで開いた。

 アルミスと老魔導士とは、ゴードン王の墓所で待ち合わせている。だが、シンベルグの言っていたとおり辺りは静まり返り、人の気配どころか、他の何者の気配もしない。

「どうします?中で待ちますか?」

 トーマがセツエイに尋ねた。セツエイがアイリを眺めると、アイリは両肩をすくめ、司書に視線を送った。

「そうですね。中で待ちましょう。たまには屋内がいい」

 司書がそういうと、了解の証に皆頷いて墓所の入り口へと向かった。

 墓所はクララが首を垂直にして見上げてようやく先が見えるほどの高さを持つ尖塔と、5メートル間隔で大きなスタンドグラスーゴードン王と妃、そして騎士たちーが嵌められた二階部分を持つ豪奢な建物で、五百年の歴史を持つ歴史的建造物だと、司書が教えてくれた。

 その造形は、クララの持つお墓のイメージとは異なり、半円形のフォルムでたたずむ姿は、お墓というよりは大きな岩のようだった。丁度真ん中に位置するであろう避雷針のような尖塔が、妙に目立つ。

 そう大きくもない―セツエイの身長と同じくらい―の戸を押して開くと、長い間開かれなかった戸特有の不安を煽るきしみを上げてゆっくりと招き入れるように墓所の中に消えていった。

 ぞろぞろと順に中に入る。クララは最後から三番目―続いてシンベルグ、司書―に入る。

 クララが入ると、外とは違うが、決して心地いいとは言えないカビの匂いが鼻をついた。

 そして、カビとは違う何かの匂い。鉄のような、硫黄のような。吸いたくはないのだが、なんとなく口で呼吸するのはためらわれて、鼻で大きく息をする。何回か呼吸すると、そこまで気にはならなくなった。ここは何より、外より落ち着くし、床が石造りのせいかひんやり涼しい。

 シュボっと音がして、入口の戸と、上空のステンドからわずかに差し込む明かりだけだった墓所内がオレンジの明かりで照らし出された。司書が手近の燭台に火をつけたようだ。

 天井が高いせいか、かなり広く感じる。円形に広がる床に合わせるように、カーブを描いて石造りの棺が配置され、入口の対極、最奥部には一際大きな金色の棺があった。手前の石棺には、ゴードン王時代の将軍や宰相が葬られ、金の棺にはゴードン王とその妻、マリアテーゼが眠っている。

 古いせいか、ごくごくシンプルな作り。寒々しさすら感じる。

 棺に付き物の天使像や神像、宗教画の類は一切なく、こちら側から見えない黄金の棺の向こう側の壁には、蔓のような物がかなり高い天井部分まで伸びている。

 暗くて先端はよく見えない。蔦は壁の低い部分にも浸食していて、入口の戸近くまで円形のドームに沿って生えているようだ。入口から奥の棺までまっすぐ伸びる道の中ほどに、長方形の石版が立ててあるのに気付いた。大きさはクララの背丈ほど。周りを気にしながらゆっくりと近づく。触ってみる。ひんやりと冷たい。指を滑らせると、微妙な凹凸を感じる。一歩下がってよく見ると、表面に何やら書いてあるのが分かる。多分、文字。でも読めない。衣擦れの音に振り返ると、司書が目を凝らして前かがみで寄ってきた。

「古代エルム語ですね」

 大方墓標でしょう、と続けた。なるほど、へえ、である。でも意味ない。要求が顔に出ないように司書を見ると、司書はニヤリとして見返してきた。興味なさそうに肩をすくめて見せる。同じように肩をすくめると、目を細めて石版に見入った。

「こころの場所を知る王。ここに眠る。彼の王は、こころの場所を知るゆえに、豊かな王であった。絶望の中にある道は細く狭い。だが、だからこそ希望へとまっすぐ伸びている。王の言葉は、王の死後も道となって伸びている。王が灯した明かりへと私は歩く。王国歴 二年 山羊の月 二十二番目の日 王妃 マリアテーゼ。下にある小さな文字は、王の功績ですね」

 王の功績や人となりについては、道すがら司書が話してくれたから多少は知っている。

 王妃マリアテーゼはどんな人だったのだろう、司書に聞く。「墓標を読む限り、優しさの分かる素晴らしい女性だったのでしょうね」少し悲しげに、司書は答えた。

 分かり合うっていうのは難しいことで、素晴らしいことですから、と独り言のように付け加えた。

 静寂が訪れた。めいめい、夜を迎える準備をしている。セツエイ、アイリ、トーマは鎧を外し、キーラも水を吸って重たげなローブを脱ぎ、水色のワンピーズ姿になっている。

 束の間の休息。クララも皆の元に戻りつつ、鎧を脱ごうかと考え、躊躇した。

 なんとなく、ざわざわする。胸騒ぎというより、音、匂い。墓所の静けさだから際立つ些細な違和感が協調されるのだろうか。皆、一言も発しない。セツエイ、トーマは脱いだ鎧の脇にたたずみながら辺りを見渡し、アイリは眉間に皺をよせ、キーラは両肩を抱くように立ち、その隣では、シンベルグがすんすんと鼻を鳴らしている。

 シンベルグの小鼻がまったく動かないのに、音だけするのを不思議そうに見ていると、鼻の下でシンベルグが小さく「しまった」と鋭く呟いた。

 同時に軋んだ音もさせず、ただ大きくバタンと音がした。思わず振り返ると、入口の戸が閉まっている。そして、壁を覆っていた蔦が、扉を覆い隠して、みるみるうちに入り口の戸が覆い隠された。

 振り返った視界に居た司書は、両手に松明を持ったままおどけたように肩をすくめていたが、急に真剣な顔つきになると、右手を突き出して「セツエイ、前」と叫んだ。

 戸が閉まったとき、セツエイは振り返らなかったのだろうか。クララが前を向いたとき、セツエイはすでに抜刀して構えていた。

 司書が叫んだ意味はすぐに分かった。一段高みにあった黄金の棺が宙に浮いていた。

 下から伸びる蔓のせいで、棺はくすんだ金の巨大な華のようだった。

 棺の台からまっすぐに生えた奇怪な金の華は中空でピタリと止まった。次に何が起こるか誰も理解できないまま、ただ異様な事態の読めない次の展開を、緊張して待つ。

 どれくらい待てばいいのだろう。思っても、自分にはどうしようもない。誰かが動いて自分の手足を強制的に動かしてくれなければ、何時間も動けない気がする。汗が不快に頬を伝い落ちる。目には見えないが、体中の至る所から足元へ流れて地面を濡らしている気がする。対局している奇妙な華に魅せられて、自分自身も奇妙な華になってしまったようだ。そんな思考が頭を巡り続けている。ふと、頭がぼうっとして辛くなってきた。

 瞬間、ドンと大きな音がして金の華が弾けた。

 そして、同時に「おほほほほほほほ」という奇妙な笑い声。思わず頭がガクンと動き、呪縛が解ける。

 笑い声は、最初、シンベルグ同様後ろから聞こえたが墓所の構造のせいか四方八方から、残響と共に何重にも響いて迫ってきた。決して心地よい音とはいえない。

むしろ、積極的に不快な笑い声だった。背筋がぞくぞくする。

 完全に笑い声が耳から消え去ると、静寂が訪れる。何事もなかったような静寂の中で金の華があった場所に、今度は異様な何かがゆらゆらと揺れているのが見えた。

 金の華より、より華に近いなにか。棺が地面から生えているように見えたのも十分異様だったが、無機質な感じがまだ安心出来た。説教台が弾けて生まれた華は、花弁の部分から花芯の部分までがゆらゆらうねうねと動いているだけに、なんだか生理的に気持ち悪く、胃のあたりが重くうずく。だいたい、華にしてはでたらめな大きさだ。

 華の直径はクララの倍。真っ赤な花びらが重なり合うように放射状に広がっている。花芯の代わりに腰から上の人の胴が生えている。何も着ていないのでスレンダーだが豊満な女性の体だと分かる。下からの松明の明かりと、上からのステンドグラスを透過した七色の光が、胴の部分を妖しく彩っている。本来あるべき下半身の部分には、口がある。唇もあり、歯もあるが、その歯は見た所犬歯だけのようだし、何より大きすぎる。クララがすっぽり入るだろう。遠目にもはっきり分かる。クララは華に人が生えているのはもちろん初めて見たが、こんなに気持ち悪いものがこの世にあるとは想像も出来なかった。それでも思わずまじまじと見てしまう。美しいとも言えるフォルムの女体は、青、黄、赤、緑、様々な色合いで照らされているが、青い部分が多い。地の色は青なのだろう。顔は、良く見えないが、黒々とした髪の隙間から、目の部分だけが赤紫に光っている。

「やれやれ」

 どこにいるのか、シンベルグの声が後ろから聞こえたが、振り返る勇気はない。 

 セツエイが抜刀して正面を守っているが、クララの正面からは左にずれている。

 そんな気持ちを察したのか、ゆっくりと空気が動くのを感じると、クララの右側をふわりとシンベルグが通り過ぎた。

「お久しぶりです。男爵夫人」

 シンベルグが右手でマントを掴むと、体に巻きつけるように上半身を倒す。合わせて周囲の人間の衣ずれの音がする。クララも硬直した両足を少しだけ下げて、奇怪な植物からせめてもの距離を取る。

「おほっ、シンベルグ伯ではないか!貴公こんなところで何をしている。おやじ殿が心配していたぞよ。伯爵家を継いでからというもの、貪欲さにかけると嘆いておったぞよ」

 その声は、若さと老いを交互に感じさせるような、微妙なオブラートと抑揚を持っていて、しかも、残響のせいか音量も安定せず、先ほどまで胃に感じていた不快感が、下腹部と喉元に移動してきた。不快感を緩和させる働きがあるのか、自然と眉間に皺がよる。大きく息を吸うと、少し気持ちが落ち着いた。不快感と不安感はまだ残っていたが、安心感も生まれていた。どうやら、シンベルグと奇怪な巨大華は知り合いのようだ。何とかなるかも知れない。体が動くようになったので、腰に佩いている剣に手を置いたまま、セツエイの後ろに移動する。考える事―タイミング?―は皆一緒なのか、移動した先でキーラが隣に来た。トーマとアイリはセツエイの少し後ろで、その左右を守るようにそれぞれ、弓と剣を構えている。司書は、と見ると、姿が見えない。まだ真後ろにいるのだろう。

「お戯れを、男爵夫人。父はとうに消え去っております。男爵夫人こそ、随分大きくなりましたね。それに、若返っている」

「ふふん。当たり前じゃ。何のためにわざわざこんな不味い空気を吸いに来たと思っているのじゃ。他の阿呆なやつらと一緒にされては困るぞよ。わらわはきちんと毎回目的意識を持って来ているのじゃ。ほれ」

 そういうと、奇怪な華―男爵夫人らしい―は奇怪で巨大な蔓を動かして見せた。さわさわと蔓同士が触れ合う音が無数にすると、床に這っていた数十本の蔓が一斉に宙に浮く。

 一瞬にして、華の両側に蔓によって壁が生じた。その先端は、「へ」の字型になっているようだ。変な形だ、と思ったのは最初だけ。男爵夫人の何かを示唆する発言と、前衛にいるトーマの「死体だ…」の一言で、現象への感想は、嫌悪に変わった。

 無数の蔓の先端に無数に刺さっているへの字は、蔓の上下に合わせて不規則に揺れている。それは、あれが手だとすると、あれが足で、あれが頭だと、一度認識すると人間にしか見えなかった。いや確かに人間だった。ただし、死んでいる人間。死体だ。束の間覚えた安心感は、どうしようもなく、絶望感に変わった。一度安心しただけに、強烈な恐怖を伴って。それでも、一縷の希望はある。今まで遭遇した闇の生き物とは違い、男爵夫人とは会話が成立している。

 入口が閉められたことや、他のメンバーが緊張を解いていないことは、あまり考えたくなかった。おそらく、考えなくても感じることはあり、そして、クララにはどうしようもなかった。

「ははははっ。相変わらずですね。エカチェリーヌ。もう十分生きたでしょうに。これ以上何を望むのです」

「おほほほ。おや、奇妙なことを聞く。シンベルグ。わらわが十分に生きたかどうかはお主のような小僧には分からぬことよ。わらわは、まだまだ生きるのじゃ」

「なるほど、失礼致しました、男爵夫人。存分になさってください。我々はお互い干渉しないのがルール。良くも悪くも。ではこれにて退散致しますので、入口の戸を開けて下さい」

 時折笑い声が挟まれ、抑揚も愉快そのものと言った会話だったが、言葉の応酬の端々にどうしようもなく不仲な関係が如実に現れていて、結果としてなんとも不気味な会話が交わされていた。そして、蔓の先端にある死体。クララはそこから目が離せない。

「おほほほほほほほほほほほほほほっ」

 おかしいことを言う、と言わんばかりの、一際大きく長い否定の笑い声。分かってはいたが、我慢できない。クララは両手で耳を塞ぐ。

 シンベルグがゆっくり首を振るのが見えた。ああ、見たくない。こんなに、絶望的な光景は浸食に入って以降初めてだった。密閉空間で、巨大な闇の生き物―しかも性格も悪そう―と対峙している状況に気が狂いそうだった。出来る事なら、地団駄を踏んで泣きわめきたい。ただ、そうしても何も事態が好転しないことは、学んでいた。それでも目頭は熱くなる。感じる事を諦めるのが、こんなに難しいことだとは。

「入口の戸は開けるともシンベルグ。そうでなくてはわらわが出ていけぬ。より多くの血も飲めぬ。教えてやろうシンベルグ。女は待っているだけでは美しくなれぬ。自ら積極的に動くことも大切じゃ。じゃが目の前にある獲物は、一通り味合わなくては美しさの真の意味にはたどり着けぬのよ。もちろん、おぬしの血など欲しくはない。どこへなりと去ね。欲しいのは、何故連れているか分からぬが、おぬしの連れの連中の血よ。ひい、ふう、みい…それだけあれば、この場から動けるだけの血が手にはいりそうじゃ。礼をいうぞよ」

 シンベルグがまた振り返った。なんとも悲しそうに眉が歪んでいる。

「どうしよう」

「まさかシンベルグ、貴様」

 アイリが大声で詰問する。

「違う違う。絶対違う。そうじゃない。わたしも知らなかったんです。ほんとに」

 アイリはシンベルグが罠に嵌めたと思っているようだ。クララはなんとなくシンベルグを疑う気になれなかった。ただなんとなく。

「セツエイ、前」

 司書の声が鋭く響く。はっ、と見ると、前方の薄暗い闇から、何かがセツエイめがけて襲い掛かるのが見えた。前方から迫りくる何かに、反射的に剣を抜いて身構える。暗所から迫りくる影は、松明の明かりに照らされてその姿を露わにした。

 太い針のような。それは人の腕ほどもある植物の蔓だった。セツエイは、切らずに後方集団とは逆―左―の方向に受け流す。シャキシャキという金属室な音がして、蔓はセツエイの横をまっすぐ進むと、ピンと張り、くねりながら再び闇の中に消えていった。

 どうやら、触手状の蔓は、クララ達にぎりぎり届く長さしかないらしい。少しづつ落ち着きを取り戻し、視野が広がる。なるほど、壁際に沿って入口を塞いでいるのは、襲って来た蔓よりもはるかに細く捩れあっている。どうやら根のようだ。人間の手足でいうと足の部分だ。おそらく器用には操れないのだろう。かといって先ほどセツエイの刀との摩擦音を聞く限り、剣で切れるとも思えない。これは、ピンチだ。

 前方ではさすがと言うべきか、セツエイが構えたままでじりじりと後退してきた。

「フフフッ」

 男爵夫人は当たり前のように笑った。

「そうなんだよなぁ」

 溜息交じりに司書が呟く。

「なにが?」とアイリ。

「逃げられないんですよ」

「なにか手はないのですか?」とキーラ。

「物質的なものに対する攻撃方法が、今の我々のパーティーには肉弾戦しかないのです。キーラ殿は幽体攻撃魔法しかない。他の面々は基本的に戦士です。わたしは戦士ですらありません。となると」

「神魔器は?」とトーマ。

「リスクが高すぎますよ。魔の部分が分からない物は使えないでしょう?」

「で、では火を点けるのはどうです?」

「燃えるでしょうけど、密閉空間では自殺行為ですよ?」

 トーマなりに頭を使ってはいるのだが、にべもない。

「司書」前を向いたままのセツエイが話しかけた。

「なんです?」

「弱点があると思うか?」

「…」

「知ってて肉弾戦しかないと言っているだろ」

「…」

「沈黙は雄弁だな」そういうと、セツエイは振り返って司書を見た。口元に薄っすらと笑みが浮かんでいる。この状況で笑えるセツエイにクララは驚きを覚え、まじまじと見てしまう。そして気づく。確かに口角は若干上がっているが、目は怖いくらい真剣だった。微動だにせず司書を見つめている。視線の先を追って司書を見る。そこには普段の陽気で軽い男の顔はなかった。ただ二人が見つめ合っているだけなのに、そこに何か計り知れない重みがあるのが伝わってくる。皆もそうなのだろう。誰も口を開かない。こういう沈黙を、いつ果てるとも知れない、というのだろうと実感する。

「いつまで睨み合っているのじゃ?皆餓死するまでか?わらわは今は満たされておるゆえ、一向に構わぬぞ?肉より血が欲しいのでな」

 闇の男爵夫人、エカチェリーナが意地悪く沈黙を破る。そういう思惑があるならば、黙っていればいいものを。楽しんでいるのか、それとも単にしゃべらずにはいられないのか。クララは生家の二つ隣に住んでいたスプラードおばさんを思い出した。懐かしい我が家。いますぐに帰りたいとは思わない程度には大人になったが、ここで死にたくないとは思う。

 長い沈黙の後、言葉を発せずに、セツエイが視線を外し、俯き加減で頭を掻いた。再び顔を上げ、頬をさすりながら今度は大きくはっきり笑みを浮かべた。ついでに眉を上げる。こういう仕草は、どちらかといえば司書がやりそうなものだ。

「皆に出会って、ただなにも考えずに付いてきたわけではない。それがしもそれなりに考えるのだ」

「なにをです?」と囁くようにシンベルグ。濡れたように光る眼が、いつもより大きいみたいだ。

「自分が何者で、なぜここにいるのか。何をするべきなのか、というようなことだ」

「存在意義」アイリが呟く。

「簡単にいうとそうかもしれない。ただ、とても長い時間の中で、考えすぎて、状況状況ではあまり考えなくなった。そう、だからそう、なのかもしれない。存在意義。生きている、いや生かされていることの意味。考えたよ。そしてもう随分昔に決まっている。ただ、場所が分かっても、遣り様が分からない。だから教えてくれないか」

 そういってセツエイは司書にゆっくり近づいた。そして魅力的に優しく笑うと、司書の耳元でそっと囁いた。その囁きは、クララには聞こえなかった。おそらく、他の誰も聞こえなかったと思う。ただ一人司書を除いては。シンベルグやエカチェリーナ、闇の者の聴力は分からないが、シンベルグの表情は変わらなかった。司書の表情も変わらなかったが、いつも緩んだような印象を与えるその表情は、ただただ平坦だった。能面のような表情で、司書はゆっくりとセツエイを見返した。二人の顔の距離は極近い。司書は腕を組み、伏し目がちにして、何かを考え始めた。長いのか短いのか、全然分からない時間が進む。司書がゆっくり顔を上げると、その口元が引き締まっているのが分かった。セツエイの顔を見返し、ひとつ頷く。セツエイは、小さく頷き、まばたきで返事をした。

「そうなんです。多分、そうなんです」

 司書の言葉の意味は分からないが、何かが決まったことは察した。

「それで、どうすればいい。神魔器は使えないんだろう?」

「はい。おそらく、セツエイ殿の望み通りにはいかないでしょう。それに、あなたに今、ここで、あれを使われると、我々は大局的に詰みだと思います」

「では、やはり」

「そうですね。なんとかならないか考えましたが、結局その時が来たのかもしれません。そう思って考えたら、その思考の筋道から抜け出すことが出来なくなりました」

「では、司書。貴公のイメージを聞かせてくれないか」

「二つ目の刃です。すべてを無くしたあとの、二つ目の刃」

 ふふっ、とセツエイ。

「知っていたのか」

「いえ。不思議に思っていたのです。聞いていた話と違ったので。まあ、今質問してだいたい思った通りだと確信しましたが」

「なるほど。なるほど。怖い物だな。物知りというのは」

 二人がとても分かりあっている。まるでチェスの感想戦のよう。

 セツエイは頬を擦っていた手を、髭が色濃い顎に当て、掌で口元を覆うと、そのまま唇を拭うように滑らせ、くしゃり、と笑った。

 なんだろう、破顔、というのか、こういう笑顔。あらゆるもやもやが一瞬で着せ去り、まるでこの後、全てがうまくいくしかないことが決まったような、会心の笑顔。

「司書」

「はい」

「酒はあるか?」

 セツエイの笑顔に引き込まれたのか、能面の様だった司書の顔が緩んだ。心なしか、眉のあたりが哀しげなのは、クララの気のせいだろうか。

「ありますよ」

 そういって足元に置いてあった魔法の巾着にかがみこむと、ごそごそと袋の中をあさる。

「なくなってないといいわね」とアイリ。

「大切なものは絶対無くさないんです」と司書。

「少し、男爵夫人と話してくるよ。気が変わって僕らを解放してくれるかも知れないしね」とシンベルグ。

「大丈夫なのですか?殺されたりとか」とキーラ。

「ないな。それは」とシンベルグ。

「でも、血を」とトーマ。

「ああ、大丈夫。僕には飲める血が流れてないから」

 シンベルグはそういうと、ひらひら手を振りながらエカチェリーナの方にゆっくりと近づいていった。

「ありました。お国の酒です」

 司書が袋から取り出した透明な大きな瓶には、うねるような字が書きつけてある。当然、クララには何と書いてあるかさっぱり分からなかった。

「おお、イワサクラではないか」

 感動、というよりは懐かしさのせいだろうか、若干震えた声とともにセツエイは瓶を受け取った。クララは訳も分からず、きゅんとして、そしてなんだか切なくなった。村を出るとき見送ってくれた幼馴染のリンの震えた声を思い出したからかもしれない。

「はい」

 司書が袋から酒とともに取り出し、手にしていた小さな杯を、アイリがひったくるように奪うとセツエイに渡した。

「これは、どうも」

 アイリの勢いに少しびっくりしながら、セツエイは酒瓶を左手に持ち替え、右手で杯を受け取る。

「では」

 アイリとは対極的な穏やかさで、キーラがセツエイの左手から酒瓶を引き取ると、存外慣れた手つきで瓶の口を開け、中の液体を杯に注ぎこんだ。

「おっと。すまぬ。ありがとう」

 セツエイは珍しく相好を崩しながら、液体の入った杯を掲げ、言った。

「乾杯」

 後ろではシンベルグが触手を器用に避けながら何やら言い争っているのに、セツエイを囲む面々は、みな一様に笑顔だった。笑いではなく、微笑。

 ふうっ、と大きく息を吐き出すと「ここだなぁ」とセツエイが言った。酒を飲んだことがないクララは、普段アルコールの匂いに敏感だが、なぜか少しも気にならなかった。場の空気に酔ったのか、なぜだか無性に泣きたくなった。そんな自分が別に嫌じゃなかった。いつもなら、泣きたくなる度に―実際泣いている―自己嫌悪に陥るのに。

 あっという間に空になった杯に、今度はアイリが酒を注ぐ。

 注がれた酒を飲みながら、セツエイはアイリ、キーラ、トーマ、司書の順に目を合わせ、一人一人に軽く頷く。

 クララと目が合うと、少し困ったような顔で口を開きかけ、閉じた。視線を少し下に落とし、すっと顔を上げると、クララに一歩近づき、肩に手を置いた。

「言葉の意味が実感出来るだけで、生きている意味はある。さよならだけが人生だ。上手く言えないが、さよならを言われる方にも、さよならの意味は続いて行く」

 それだけ言うと、セツエイは右手に持っていたカゲツネをクララに差出た。クララは目だけで困惑を伝える。セツエイは頭を振って、今度は押し付けるようにクララに差し出した。クララは刀を両手で支えるように手を添えたまま、司書に目で訴える。司書は目を閉じ、頷いた。刀の重みが、クララにしっかり伝わると、セツエイは手を放す。

「さて、ここで見ていてくれ」

 ここから来るな、と言わんばかりに両手を広げ空中に線を描く。そして、エカチェリーナの方に振り返った。そのまま一歩歩き出す。と、顔だけ振り返る。その表情に笑顔はなかったが、険しくもなかった。田舎の村で仕事終わりの男の人たちがよくしていたような、どこか寂しげで、ただ、なんらかの達成感を感じさせる顔。

「司書」

「はい」

「アルミス卿と老魔導士殿によろしく」

「はい」

「そして、後は頼んだ」

「はい。確かに」

 セツエイはそのあと二度と振り返ることはなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る