4日目 背中の光

4―3「風の中」

ただ歩くんじゃない。

光の刺す方へ歩きなさい。

例え光が見えなくても、目が見えなくなっても、

光が射していると思われる方へ歩くんだ。

それが人生だ。

<クララの父>           

 

 クララは、走って来た―ただ走ったのではなく、全力で―勢いそのままに転んだ。幸いなのは、転んだ先が草地であったこと。幼いころ、意味もなく草地にダイビングした記憶がよみがえる。上手く手から滑るように転ぶことが出来た。それでも、地面に胴を強く打って、一瞬息が詰まる。クララは、両手を頭の上に掲げた格好のまま、しばらく地面に突っ伏していた。呼吸が荒く、息をするのがしんどい。鎧の胴の下の辺り―へその上部分―が、引き攣るように痛む。

「おい。大丈夫か?」

 セツエイの声がする。こんな状況でも、とても落ち着いている。クララは、とてもじゃないが、返事は出来ない。それでも、気力を振り絞って、地面に手をつく。足が言うことを聞かない。とりあえず、両手を地面に着き、体を起こす。肩を引き上げるようにして、誰かが手を貸してくれている。四つん這いになったところで、セツエイらしき影が、口元になにか差し出した。

「飲め」

 クララは頭を振った。弱弱しく。息の苦しさは、少しずつ楽になってきていたが、今度は頭が割れそうに痛かった。実際、少し首を振っただけで、吐き気が襲ってきた。出来ればセツエイに、遠くに行って欲しかった。吐くところは見られたくない。我慢して吐き気をこらえていたが、我慢すればするほど、喉元に異物感を感じる。クララは、唾を吐いた。最初の方は、小刻みに。後の方は、唾を垂らしっ放しだった。頭から、血の気が引いて行くのが分かる。やがて、背筋に悪寒が走り、身震いした。そのまましばらく、意識を飛ばし、生暖かい風を感じることだけに意識を集中させる。もう大丈夫かと、立ち上がりかけて、すぐに立ちくらみがする。クララは、諦めて―自分でも情けないと思うような表情だろうと考えながら―少し顔をあげて、四つん這いのまま、岩場の影を目指した。視界の隅に、完全に横になったトーマを確認。クララは、そこから少し離れた場所に弛緩したように横たわった。体中だるいし、肺は痛いしで、体調は最悪なのだが、妙に神経は敏感になっている。気配で周りの動きを感じる。最初に二人の足音。セツエイとアイリとのやりとりで、司書とキーラだと分かる。二人とも、口数が少ないのは、クララ達と同じ状態なのだろうと察する。どのくらい時間が経ったか分からないが―温かい風を気持ちがいい、と認識し始めたころ―クララはゆっくり目を開けた。うわん、という耳鳴りと、瞼の裏側を赤や青の光がちかちかと走ったので、しばらくそのまま横になって、辺りを見渡した。

 ずっと目を瞑っていたせいか、辺りの景色がよく見える気がする。

 クララは右腕を伸ばしたまま、枕にしていたのだが、そのクララの視線の先には、大の字になった司書と、体育座りのまま、両膝の間に頭を垂れているキーラが見えた。

 名残のように風に水分が含まれているが、雨はやんでいた。肺と肋骨と歯が痛い。脚は痛むというよりだるい。腕だけで状態を起こすと、尻持ちしたまま座り込む。意識して痛みを体外に放出するように、鼻だけで呼吸していると、徐々に肺が楽になってきた。声を出せそうだ。トーマがキーラの肩に手を置いて心配そうに顔を覗きこんでいる。

 首を左右に回すと、セツエイが腰に手を当てて辺りを見渡しているのが見えた。

 周囲を警戒しているようだ。ゆっくりと四つん這いになり、両腕に力を込めて立ち上がる。すぐにガクンと腰が落ちた。ふくらはぎに力が入らない。どうしよう。

 前髪を掻き上げて助けを求めるようにセツエイに視線を送るが、セツエイは背を向けて気づかないようだ。視界の隅でキーラがトーマの手を借りて立ち上がった。トーマと目が合う。トーマがキーラに何かささやくと、キーラが顔をあげ、こちらに向かってきた。

「大丈夫」

 それは、疑問形ではなく、断定系のイントネーションだった。すごく安心できる。キーラは小声で―少し掠れた声で―何かつぶやくと、クララの頭から足にかけてなぞるように手をかざした。キーラの手が通り過ぎた箇所から順に涼しい風を感じると、先ほどまでの痛みや疲れが消し飛んだ。口にはミントの香りが残った。立てそうだ、と思い、足に力を入れる。萎えるような感じはまだあったが、それでも立ち上げることは出来た。歩き出そうとして足がもつれ、キーラとトーマに支えられる。

「無理しないで。一時的に痛みを抑えただけで、回復したわけではないの」

 いつものような笑顔はないが、掠れながらも柔らかな声でキーラが囁く。クララはコクンとうなずくと、司書を探した。司書はまだ大の字になっている。

 クララ達は司書の方に向かう。あと三歩ほどで辿り着く距離まで近づくと、司書が上体をむっくり起こした。途端「痛てて」と言って頭を抱える。キーラがクララにしたように呪文を唱え、手をかざすと、頭を振り振り立ち上がる。

「ありがとうございます。キーラ殿。エイクヴォイドの呪文は初めてですが、ミントの味がするんですね」

 「とってもいい」と言いにっこり笑う。釣られて三人にも笑顔を広がった。

「ところで、アイリ殿は?」

 司書が問いかけると、セツエイが近づきつつ「あそこです」と指を差した。見ると、さっき走り抜けた岩の横で、今来た道をどっかで見たような筒で見ている。司書も気づいたようで、ローブをまさぐると「あっ、わたしの遠眼鏡」と情けない声を出した。遠目に見ても分かるように、アイリは首を振ると、こちらに向かって戻って来て言った。

「駄目。見えない」

「何がですか?」とトーマ。

「アルミス様よ。もう布は沈んだわ」

 遠眼鏡を司書に軽く放りながら沈んだように言う。眉間の皺がなかなかセクシーだが、冗談でも言える雰囲気ではない。

「ここで待ってもしょうがない。予定通り墓所へ向かおう」

 セツエイが言うと、賛同の意思を表して皆が一様に頷いた。アイリだけは、どこか不安そうな面持ちだった。

 セツエイを先頭に、トーマ、キーラ、クララ、司書、アイリの順に歩き始める。三人―二人と一魔人?―居ないだけなのに妙に寂しくて、クララはほとんどキーラに寄り添うように歩いた。濃密で重い夏の空気が纏わりつくようで肌がべたつき不快だ。前方の闇は色濃く、明かりを伴わない熱気が、前を行くセツエイとトーマの姿かたちすら、奇妙な陰影で包み込んでいる。ふと気を抜くと、闇の生き物のように見えて、一瞬足運びに躊躇する。その度に伝染するように、キーラがピタリと止まり、振り向きながら歩いているらしい司書が、クララ達にぶつかりそうになる。

 そんなことを何度か繰り返す。

 司書はもごもごと「すいません」と言い、クララ達は無言で頷いた。暑さやら不快感やら不安感のせいか、だんだんイライラしてくる。ぶつかられることにではなく、もごもごした司書の言い方に。もちろん、隠密行だから、大声を出せというのではないが、毎回同じことの繰り返しだと、頭がおかしくなりそうだった。

 キーラが大きなため息をついた。なにか、いろいろと伝染してしまうものらしい。痛みはないが、だるさは残る足を、黙々と運んでいると、十メートルほど先を歩いていた二つの影が左右に散った。びっくりして立ち止まるが、気力が着いて行かず、それ以上は動けない。すると、後ろからドンとぶつかられた。

「ちょっと」

 キーラが珍しく棘のある口調で吐きだすように囁くと後ろを振り返った。クララも振り返ると、案の定司書は頭に手をやり、すいません、てへへ、のポーズで目を見開いた。

「すいません。でも」

「なんです?」

「アイリ殿がちゃんと付いて来ているか気になって、振り返りながら歩いてたもので」

「あたしならちゃんといるわよ」

 右横からアイリの声がし、三人ともびくりとして声のした方を見る。「真後ろじゃないけどね」そう言ってスタスタと三人の横を通り過ぎ、トーマとセツエイの方へ歩いて行く。前方を歩いていた影はいつの間にか三つに増えて、こちらへ戻ってくる。

「シンベルグ」

 アイリの呼びかけで、増えた影の正体に気づく。それにしても何でも影にしか見えないこの闇の中で、アイリは良く見えるものだと思う。「オルトロスの涙」と司書が言ってククッと意地悪く笑う。しまった、心の声が読まれた。それにしても意地が悪い。良く考えたらそんな便利なものがあるなら言ってくれればいいのに。そう、抗議すると、司書は両手を広げ「アイリ殿にあげてなくなりました」と答えた。

「予備とか普通ありますよね?」

 キーラの表情は闇の中で良く見えないが、えらいきつい物言い。司書はしょげた声で「いや、神魔器の中で消えてしまったようで…」もごもごと答える。

「どうしたの?」

 戻ってきたアイリの目元は良く見るとうっすらと水色に光っていた。シンベルグの赤く光る両眼とのコントラストがなんとも不気味だ。

「いえ、なんでも。ところで、お久しぶりです、シンベルグ殿」

 「よく我々だと分かりましたねぇ」と司書がシンベルグに話しかける。

「うん。一旦ホロホロ墓所に行ってきたんだけど、人間の匂いがしなかったから帰って来たら、懐かしい匂いがしたので」

 いろいろと間違っているが、シンベルグとはそういうものだと分かってきたクララは、無駄な質問で時間を浪費する気にはなれなかった。ひとつには、自分自身のイライラもさることながら、アイリとキーラが妙に気がたっているのを感じ取ったこともある。

「もう近いのか?こう暗くては距離感が分からなくて」

 セツエイが聞くと、闇の中でシンベルグが顔を縦に振ったのが分かった。闇の中で赤い両眼が左から右に動き、影がマントを翻し、大仰に後方を指さす。

「あの坂の向こう、下ったらすぐのところが多分ゴロンゴロン墓所」

 存外近い。もうこの濃厚で蒸し暑い闇の中を歩くのは、まっぴらだったから、嬉しい。

「みんな、墓所はすぐです。頑張りましょう」

 久しぶりに聞いたトーマの声はなんだかひどく大人びて聞こえた。


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