4日目 目に見えないモノ
4―2「その向こう」
魔法とか、勇気とか、愛とか。
妄想だけでは存在しない物を形にするのが人間なのだ。
<剣士隊道徳師範 セリン翁>
「作戦名は、そうですね…マキス決死行とでもしましょうか?」
昨夜、司書はそう言って始めた。
司書いわく、作詞が自分で、作曲がアルミス、そして編曲がセツエイ。
パーティーは双手に別れ、アルミスと老魔導士は川の右手に向かい、残りのメンバーは左手に向かう。左手に進んだメンバーは、司書の持って来た魔法の布で簡易橋を作り、そこから川を渡る。
クララ達は簡易橋を川の中ほどまで来て、しゃがみこんで待機していた。
雨はその雨量を粗方使い果たしたのか、その一粒一粒の間隔が随分と長い。
半透明の簡易橋の下は、さきほどの集中豪雨の影響もあり、水が轟々と流れている。
下を向いていると、水の流れに釣られて、川に引き寄せられそうになるので、クララは努めて前方の暗闇に意識を集中させていた。
風が吹く度に、欄干の無い橋の恐ろしさを感じながら。
作戦の続きは、遠くアルミス達の行動を待たなくてはならない。
どうにか橋を渡り切ったら、敵に囲まれていた、なんてことにならないように、双手に分かれたのだ。
「遅いな」
遠く鬨の声と、金属音、時々水音の聞こえる中、セツエイが言った。
「ええ」
アイリが妙に素直に返す。アイリがセツエイの肩に片手を置いているのが、妙に気になる。自分は司書の肩に手を置いているのを棚に上げて、クララは思った。
「行けるのではないか?司書殿」
セツエイが司書に聞いた。司書はクララに魔法の遠眼鏡を渡しながら、首を振った。
「まだ、相当こちらに寄っている。もうひと押しないと、確率が下がる」
クララも遠眼鏡を覗いてみる。確かに、まだ対岸の敵は、クララ達寄りにも多い。クララは、ふと急に思いついたことを司書に聞いてみた。
司書は「言ってなかったっけ?」と言い、「シンベルグ卿が言うには」と前置きして教えてくれた。
「シンベルグ卿を含む、闇の国の住人達は、生存するのに闇の空気が必要、というのは覚えてる?」
司書は教師然として話す。クララと―いつの間に近づいたのか―トーマとキーラが頷く。
「闇の空気は比重が重い、それも知っているよね」
三人共に頷く。トーマとキーラがだんだん近づいてくるので、クララは足周りが狭くなるのが嫌で、両手を簡易橋について、体を支えた。
「それだけではなくて、闇の空気は水に非常に溶けにくい性質を持つ、らしい。言っている意味分かる?」
クララは半分理解して頷いた。クララは、なぜ闇の生き物は川を渡って戦わずに、橋にこだわるのか聞いたのだ。なんとなく理解したのだが、完全には納得出来ない。クララが盛んに小首をひねっているので、司書は困ったように雨に濡れて顔にへばりつく髪を掻き上げながら口を開きかけたその時。
ドウゥゥゥン。雷鳴とはまた違う重みのある低音が、乱戦中の橋の向こう側で聞こえた。
ほぼ同時に、大きな炎の塊が、橋を挟んで対角線上の対岸を走り抜けるのが見えた。
老魔導士の、サークルファイアヘクタだ。それは、祭りのフィナーレを飾る花火のように凄まじい迫力だった。
しばらくして、今度はシュォォォォンという、高音で軋むような音。
その後で、青色の閃光が、波になって地面を駆け抜ける。あれは、なんという魔法なのだろう。美しいが、きっと凄まじい破壊力なのだろう。おおっ、という明らかに人間の放つどよめきの他に、キーッやズモォという、鳴き声のようなものが聞こえる。
「もう一発…」
司書が遠眼鏡を覗きながら呟いた。それに呼応するように、今度はバリバリバリと、空気をかみ砕くような音と共に、真白い閃光が地面を走った。
「よしっ」
司書は頷くと、遠眼鏡を懐に仕舞い、「セツエイ殿!」と叫んだ。
セツエイは、雨に顔をしかめながら頷くと、アイリの肩をポンと叩くと走り出した。アイリも後に続く。二人の姿は、簡易橋を一直線に川岸へと向かい、闇に紛れて見えなくなった。
また少し雨が強くなったようで、対岸の音は聞こえない。さきほどよりも切れ切れに、橋の上の音が聞こえてくる。
アルミスと老魔導士は、敵をクララ達の側と反対側に引きつけるために橋の右側へ向かったのだ。
司書の作戦はこうだ。まず、人間と闇の生き物が戦闘を開始したら、間違いなく橋の上で乱戦になる。両軍必死で戦うが、人間は徐々に押されるか、狭い橋の上で戦う愚を悟り、どちらにしろ後退し、川の人間側で魚鱗の陣か、半円包囲の陣を敷くだろう。そうなると、必然、川の向こうに居た闇の生き物達は、橋に殺到し、川向こうの闇の生き物達の陣系―そういうものがあれば、だが―は縦に長くなる。そこで、橋の上が大方闇の生き物だけになった頃合いを見計らって、老魔導士の持つ最上級の魔法でドーンと一発。続いて、橋の向こう側の直線状にドーン。最後に―これは、老魔導士が三発が限界だと言ったため―橋の左側直線状にドーンと一発。これで、闇の生き物達は、必然、後背の森へ逃げだすか、比較的安全と思われる橋の右側―クララ達が待機しているのとは別の側―に移動するはず。
第一段階は、作戦通り。続いて第二段階に突入する。
橋の向こう側では、老魔導士に触発されたのか、魔法が飛び交い始めているようだ。そこかしこで、花火の様に、大小の光が点滅している。
「クララ、トーマ。大丈夫だな?」
花火に見とれている二人に、司書が声をかけた。そう。セツエイ、アイリのペアに続いては、クララ、トーマが川の向こうの平原を突っ走るのだ。
クララもトーマも、ごくりと喉を鳴らした。クララは、これからの動きを反芻する。ペアで平原を突破するのは、セツエイの案だ。セツエイは、奇襲部隊に居たことから、乱戦での敵中突破には、一家言あった。
ポイント一。進入地点から目標地点まで、ルート意識を持って走り抜けること。
乱戦の中の隙間を狙って走るのではなく、具体的には、2、3メートルほどの差異の範囲で直線状に走ることを守り抜くこと。
ポイント二。基本的に敵との遭遇が予想される突破行においては、二人が並走し、右を走る一人は自分の右側の敵を、左を走る一人は自分の左側の敵を切り抜けること。この際、敢えて止めを刺そうとはしないこと。
ポイント三、えっとポイント三、並走している人間とはぐれても、立ち止まったり探したりしないこと、そんな感じ。
お互いに探していると、どうしても速度は落ちるし、ルートを見失う。
ポイント四。自分が、もし、不慮の事故で遅れたり倒れても、声を出さぬこと。自分だけではなく、他の人間までも危険に陥れてしまう可能性がある。
ポイント五。最後まであきらめぬこと。目標地点まで、辿り着くことだけではなく、極端に遅れてしまったり、敵に囲まれた場合でも、あらゆる意味で、生にしがみつくべし。これが、敵中突破の心得だ、とセツエイは言っていた。
クララはまず、司書の顔を見て頷き、次にキーラの顔を見て頷いた。二人とも、雨に濡れてびしょぬれのせいか、心なしか、悲壮感がある。
クララは最後にトーマの顔を見た。今度はトーマの方から頷くと、トーマはクララの左手を右手で一度握りしめて立ち上がった。クララも立ち上がる。二人が顔を見合せて走り出そうとした時、司書が二人の肩に手を置いた。
「決して振り返るなよ。まっすぐ突っ切るんだ」
そう言って手を下ろす。二人はもう一度頷くと、闇の向こうへ走りだした。
魔法の簡易橋は意外にしっかりと固く、地面と変わらない。ただ、少し、滑り易く感じた。そのせいか、いつもの自分の走りより、スピードが出ている気がした。だんだんと川向うの地面が近付く。このままのスピードで走りぬけられるかが不安で、少しスピードを落とそうとしたが、うまく調節出来ない。トーマが走りながら、握り続けていたクララの左手を少しだけ、優しく引いた。少し、スピードが落ちる。簡易橋を渡りきり、地面を踏む。地面の固さを感じ、その違和感が、衝撃になって顎を打つ。それでも二人は止まらない。自分の足で走っているのに、まるで暴走している馬に乗って駆けているように、顎の下からの視界がなく、ひどく苦しくなってきた。このままじゃ壊れちゃう、そうクララは感じて、顎を引き、前傾をとる。視界が広がり、落ち着きを取り戻した。何が何だか分からないまま、二人は手をつないで、真っ直ぐ走った。途中、顔を何かが顔を掠めそうになって、思わず左に寄ると、トーマの肩にぶつかった。どこまで来たのか不安になる。あとどれくらいだろうか。早く、仲間の誰かに会いたい。前方の闇で、何かが地面を左から右へ動いている。どうしよう、そう思う間もなく、トーマにぐいっと左に引っ張られた。そのまま、何かの横を走り抜ける。幻聴かもしれないが、何かの咆哮が聞こえたような気がして、背筋に悪寒が走った。トーマも同じなのか、二人のスピードが少し上がった。足ががくがくする。
空気を吸うのが、ひどく辛い。顔に当たる雨が痛い。脚だけが腰で固定されて、別の動力で動いているかのように、回転し続けている感覚。また何かの塊が、行く先に迫る。今度はクララがトーマの手を引いて右に駆け抜けた。あとどのくらいだろうか。すでに息は上がっている。頬を伝わり、口の中に雨が入る。トーマの荒い呼吸音が聞こえる。逆にクララは、あまり息を吸えない。そのせいか、闇の雨中を走っているのに、妙に視界―というか、後頭部の辺りから、頭の天辺にかけて―が明るくなったように感じた。わけもなく、笑いそうになる。一際大きな塊が、二人の行方に迫る。もう判断がつかない。二人の手が離れた。クララは両手を振って、前傾姿勢を強くし、意地になって塊の右側を走り抜けようとした。
「おいっ!」
鋭く呼ぶ声がして、肩を掴まれた。クララは態勢を崩して、滑るように前に倒れた。
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