4日目 川を渡る
4―1「四段目」
ねえ、お兄ちゃん。
背が伸びると心も大きくなるの?
<マリー トーマの妹>
人間と言うのは不思議な生き物だ。
外は寝る前と同じ、闇に包まれていたが、クララはいまが時間的に朝だと感じた。いや、分かった、の方が正しい表現か。
おそらく、そのフィールドにいた、多くの人間がそうだったのだろう。空気がざわついていた。
テントに居た他のメンバー達は、武装を終えかかっている。
起き上がったクララは、鎧の留め金を留めているアイリと目が合った。
クララは無言で頷くと、立ち上がると傍らの装備を手に取った。ついでに、足元で寝ているトーマを軽く蹴飛ばす。鼾が中途で止まって、しばらくの後、のっそりと少年が起き上がる。目元をこすりながら、「んだ…」とかなんとか呟いたが、周りを見回して、慌てたようにふらつきながら立ちあがると、装備を手に取る。アルミスがテントの入口から司書と共に入ってきて、小刻みに頷いた。
「よし、行こう」
余計なことは言わない。打ち合わせは昨日の内に済んでいる。テントを出、崖の上に立つ。崖の下では、ほとんどのテントがたたまれ、武装した騎士や魔導士が慌ただしく陣容を整えつつあった。
橋の入口では、百人ほどの重装歩兵が反対側の入口に向かい、睨みを利かせている。川岸に沿って、弓兵と魔導士。その後ろに、軽装の騎士や、導士、ヒーラー、神官などが、いくつかのグループに分かれて配置されていた。
「じゃあ、ここで」
アルミスと老魔導士が、崖の右側の道を、下へ向かって降りて行く。彼らは、橋の右手側を目指すのだ。
残りのメンバーは、二人に軽く手を振り返すと、左の道を進んだ。
霧が、対岸からこちらに流れて来ているようだ。
太陽は出ていないが、ひどく蒸し暑い。蝉が激しく鳴いている。太陽がなくても、蝉は鳴くんだ、ふとそう思った。
クララは、故郷の夏の朝を思い出した。空気の匂いがそうさせるのか。ふと、空を見上げて、雨が降るように感じた。
夏の日のにわか雨。それまで晴れ渡っていた空が、見る間に黒雲に覆われ、世界は闇と化す。そして、大粒の、少し泣きたくなる感じの、ぬるい雨が、髪を、衣服を、体を濡らす。他の季節の雨とは違い、思わず天を仰いで、打たれ続けたくなる、懐かしく優しい浄化の雨。そんな雨の気配がした。
クララは、傍らを歩いているトーマに、雨の予感を伝えた。トーマは汗だくの顔で空を見上げ、何も言わずに汗を拭った。ひどい勾配の崖を降りきり、平地に立つ。
陣容の熱気は、崖の上の比ではなかった。
さきほどまでは感じられなかった殺気のようなものが、そこかしこに溢れている。
冷静に見える人間もいるが、多くは怒っているような、上気した険しい顔で、小走りに駆けていた。何人かが、クララ達を見、怪訝そうに、あるいはぎょっとしたような素振りを見せるが、それもほんの一瞬のことで、すぐに思い出したように走り出す。
「シンベルグ卿を連れて来なくてよかったな」
セツエイが、首を回しながら言った。昨日の打ち合わせで、シンベルグは森を行くことになったのだ。人間に見つかると厄介だからだ。説明すれば、分かって貰えるという意見もあったが、結果的に別行動で正解だったようだ。
「クララの天気予報が当たるかな」
トーマが、対岸の空を見ながらつぶやく。みな、釣られて空を見た。対岸の空には、今や闇の中でもはっきりと分かるように黒い雲が湧いて来ている。
「急ごう」
アイリが言う。
パーティーは、所定の位置まで移動を続ける。川と森の境界線に程近い岩場。そこにクララ達は辿り着いた。橋からは200メートルほど離れている。そこまでは、陣は敷かれていない。
クララ達を除くパーティー群が作った陣は、川から崖にかけて丸太で柵が作られ、今まさに完成しようとしていた。
少し前から、ごろごろと不穏な低音を響かせていた雲は、対岸から川に向かって、その塊を溶かし始めていたが、クララ達が岩場に着き、司書が魔法の袋を探っている途中、ついに、ぴかっと閃光を走らせた。
クララは、瞬間びくりと体をちぢ込ませ、丸まった。その時。稲光から顔を逸らす瞬間、確かに見た。川向こうに蠢く、黒雲とは違う、何かを。それは、川を挟んでいるので、脅威には感じられなかったが、何やら不気味な蠢きだった。まだ衝突はないようだが、緊張が高まっているのは、気配で分かった。
その後も、閃光と雷鳴は、不仲の夫婦のように少し遅れて、しかし、必ずセットで現れた。
もはや慣れてしまって、いちいち驚かないほど、それは空と大地を震わせていたが、クララはいちいち体がびくりとするので、岩場の影でしゃがんでいることにした。
トーマに馬鹿にされるのも癪なので、魔法の袋を探る司書の手元を見ている風を装って。
トーマは雷が落ちる度に、「おおっ」とか「ビビる」とかいいながら、嬉しそうな顔をしている。ほんとうに、男の子は何を考えているのか分からない。キーラは、その杖を、地面と平行にして、不安そうに空を見上げている。その気持ちは十分に理解出来た。むしろ、立っていられることに、感心する。
「有った!」
空をちらちら見ながら探していたせいか、かなり手間取ったようだが、司書がようやく探し当てたようだ。黒雲は、なにかの目盛りのように、少しずつ、先端を回転させながら、こちら側の岸に近づいていた。司書、セツエイ、アイリが三人がかりで、魔法の袋から、半透明な布のような物を引き出している。
「これが、例の魔布とか言う代物か」
セツエイが感心したような声を出した。司書が忙しなく頷き、布の先端の片方をアイリに、もう片方をセツエイに渡す。アイリが弓筒から矢を二本選ぶと、片方をセツエイに渡した。セツエイは自分に渡された矢を、先端から覗いたり、羽の方から覗いたり、胴部分に指を滑らせたりしている。
アイリは明らかに不機嫌そうにその所作を眉間に皺を寄せて見ていたが、セツエイがアイリの矢を見せるように言うと、渡す代わりに口を開いた。
「なにかあたしの矢に問題でもあるの?」
かなりイライラした様子だったので、クララとトーマは雷以上にびくっと体を震わせた。
セツエイはというと、平然とした顔でアイリを見ると言った。
「重さを知りたくてな。見たところ、同じ重さに見える。が、弓の張力が違う」
アイリはむっ、としたように口元を引き締めると、矢をセツエイの方に突き出した。セツエイは無言で受け取り、両手に矢を持ち、軽く手の上で転がした。
「ありがとう」
セツエイはそう言って、片方の矢をアイリに返す。アイリは無言で受け取った。セツエイは、刀から小柄を抜きだすと、左目を瞑り、矢を羽の方から覗きこむと、矢の先端に程近い方を削り始めた。その間、司書は、二人の間を落ち着きなくうろうろしていたが、空を見上げると、ぱたりと立ち止まり、セツエイに言った。
「セツエイ殿、あとどのくらいかかります?」
これまた、さきほどのアイリほどの迫力はないが、妙にイライラした声だった。普段温厚な司書が、珍しくイライラしたせい―クララ達は前に一度経験している―だろうか、これにはセツエイも多少驚いたようで、手を止めて司書を見る。
「もうすぐだが…まずいか?」
「まずい、非常にまずい!あと十秒以内でお願いします!あれっ!」
司書は天を指差す。皆空を見上げる。黒雲は十メートルほど先の上空まで迫っていた。
黒雲がそのまま自分にのしかかってきそうな、嫌な圧迫感で、クララの腰から力が抜ける。トーマは岩に手を着いた。
「まずいか…」
セツエイは、心持スピードを上げて、矢を削る。雨が降るのは、時間の問題だろう。気のせいか、クララは頬に水滴を感じた。
「そうなんです!非常にまずいんです!この布は、水に濡れると固まるんです!速攻で!分かりますか?この意味!川に濡れると固まるんではなく、水に濡れると固まるんですよ!」
最後の方は、早口過ぎてよく分からなかったが、その分、司書がどれだけ焦っているのかは、クララにも良く分かった。この気持ちはセツエイにも伝わったようで、セツエイは一際大きく削り節を出すと、アイリを見て頷いた。二人は二メートルほど離れ、対岸に向かって対峙する。すでに弓に矢を番えていたアイリは、頷き返すと、空に矢を向ける。
「どうだ?」
アイリがセツエイに聞く。
「右に二メートル。」
セツエイが答える。昨日の夜、セツエイは弓にも多少自信があると言っていた。奇襲部隊にいたから、と。セツエイの弓は、アイリのそれより少し小ぶりだ。
「もう少し上ではないか?」
アイリがセツエイに言う。そうだな、と言い、セツエイが心持矢の先端を上に上げた。
「合図を」とセツエイがアイリに言うと、アイリがカウントダウンに入った。
「三、二、一、よしっ!」
ひゅん。矢が空気を切り裂く音が、雷鳴の中でもはっきりと聞こえた。しゅるしゅる、という音と共に、半透明の布が、空に巻き上げられていく。司書が、布が一度に持っていかれないように、いつの間に仕込んだのか、布の巻かれて筒状になっている部分に差し込んだ棒を押さえている。布で出来た筒がみるみる内に厚みを失っていく。厚みが完全に無くなり、ふわりと布の端が宙に舞った。どん、とセツエイが足で、はっしと司書が手で布を押さえた。布は、そのまま動かず、地面に力なく落ちた。さあっ、と風が吹き抜けると、ぽつり―というよりはぼつりといった風情で―と雨が地面に跳ねた。
そのあとはあっという間だった。
バチバチ、と水滴がほこりを舞いあげるほどの勢いで地面を叩き、次の水滴がほこりを地面に押さえつける。
瞬く間に、天から地面へ、滝が出来た。最初の十秒ほどは、あまりの勢いに、誰も身動きが取れなかったが、少しずつ雨粒の大きさも勢いも小さくなると、セツエイが立ち上がって、川に近づく。他の者も後に続く。川は一見なにも変わらないようだったが、良く見ると、対岸に向かって幅2メートル程ほどの半透明な地面が続いているのが見えた。セツエイが、川岸とその半透明な急ごしらえの橋の間に立ち、布に足を乗せる。最初は片足、次に両足で乗ると、一行を振り返って言った。
「問題無い。あとは…」
なにか言いかけたが、その言葉は、遠く橋の方で起こった鬨の声に掻き消された。
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