3日目 夜 踊り場にて 遠い日の花火

3―5「踊り場」

二十には二十の、三十には三十の

高見がある。

もちろん、六十には六十の。

きちんと追いかけること。

呼吸が止まってからは、

測る術はないのだから。

<古の大魔導士ジン・バルゴ> 


 司書が話した計画は、細かい詰めを擦り合わせたあと、合意に到った。

 決行は、人間側と闇の生き物側の戦争が始まるのに合わせて。夜と昼の概念が、ひどく曖昧になってきているので、明確に明日とは言えないが、明日になりそうだと司書は言った。

 シンベルグ卿がそうおっしゃっているので、と付け加えて。

 恒例の打ち合わせのあとは、見張りを交代交代一名ずつ置いて、各自自由に休むことになった。

 めいめい、崖の下の様子を見に行ったり、テント内で寝転がったり、囲炉裏の周りで話をしていたりしたが、まずトーマが寝始め、次にキーラが寝、皆本格的に睡眠の時間になった。

 見張りの順番は、セツエイ、司書、老魔導士―籤引きで決めた―クララとなっていたため、クララはうつらうつらしつつ、すぐにはっとなって目が覚めることを繰り返していたが、老魔導士が出てからは、横になって目を瞑っても頭がぼんやりするだけで、眠れなかった。

 空欠伸ばかり出る。

 そのうち、司書が置いて行った大きな砂時計が完全に落ち切ったが、老魔導士が戻ってこないので、これは自分から交代に行くべきなのか―皆がどういう風に交代していたか思い出せない―と思い、ぼんやりしたままテントを出た。

 岩場の所まで歩いて行く。

 そういえば、司書も戻ってきてないな、と思ったら、老魔導士と二人、岩に腰かけ話していた。クララが近付くと、二人が振り返った。談笑していたようだ。下からの明かりに照らされて、老魔導士の顔はひどく楽しそうだった。

「おう、クララか」

 老魔導士は顔に劣らず、楽しげな声で言った。

「もう交代の時間か」

 クララはこくん、と頷き、岩場の左手を周り、老魔導士と司書がしているように、岩場に腰掛け、ちょこん、と座る。隣の司書が、クララを見て言った。

「今、魔導士殿の魔法の凄まじさについて、話していたところですよ」

 へえ、といいながら、崖の下を見る。先ほどより、少し動いている人間が少ない。一貫して闇に覆われたこの世界だが、最初に崖の下を見たときは、夜に成り立ての夜、だったが、今は夜の中の夜、しかもやや後半戦という感じがした。

 遠く川向うは、相変わらずの霧がかった闇だが、若干濃くなっている気がする。

 本当に突破できるのだろうか。

 明日が何かのお祭りの初日なような、大事な試験の日のような、不安とも期待とも言えない、妙な高揚感がクララを包んだ。

 そんなクララの逡巡を気にする風でもなく、老魔導士が話し始めた。

「そもそもは、アングリラの魔導合戦がワシの初陣よ。もう四十、いや五十年は前かの。あの合戦が、ワシの国が大きくなるきっかけじゃったと思う。いや、確かにそうじゃった。今思うと、じゃが。あの当時はワシも新米魔導士、今で言うルーキーでな。ともかく実戦で魔法を使いたくてうずうずしとったわけじゃ。あの当時は、魔導兵団を組織している国はあまり多くなくてな。魔導士は、騎士の補助や本陣の守備、とにかく後衛に配置されることがほとんどじゃった。ワシも本陣周りに配置されておってな。本陣周りの兵や、直属の魔導長なんかは、『本陣回りに敵は来ないから、まあ序序に慣れろ』なんて言うわけよ。ところが、ジャクタ公国の連中が裏切りおっての」

 一息入れて、カップを啜る。カップを置いて、右手を空間を撫でるように動かす。

「丁度、こんな感じの平地だったな。ワシら本陣は川を背に陣を敷いておった」

「それは!川を背に、ですか?」

 司書が聞くと、老魔導士は嬉しそうに頷く。

「そうじゃろ?おかしいと思うじゃろ?確かに兵法上は、川を背にするのはおかしい、とされている。いや、されていた、が正しいかの。退路が無くなるからの。ところが、アングリラの合戦の三月ほど前に、東邦騎士団の大遠征の際、三千の兵が、四万の兵を打ち負かすという大事件が起こったのじゃ。いやまあ、若干誇張されていたとは思うがの。その時の指揮官が、ほれ、あの、なんと言ったか…だめじゃ、忘れたわい。まあ、良いわ。ともかく、背水の陣を敷いたのじゃ。今でこそ、有名じゃが、あの当時は画期的じゃった。川を背にして陣を敷き、退路を無くすことで、死中に活を見出す。要は死兵じゃな。死を恐れぬものほど強いものはない。闇の連中と戦うのが怖いのは、連中、死を恐れぬからじゃ。どこまで話したかの?」

 背水の陣、とクララが言う。クララは最初、なんとはなしに話を聞いていたのだが、いつしか老魔導士の話の続きが気になっていた。

 老魔導士が嬉しそうに続ける。

「そうそう。背水の陣。わしら、というか、当時弱小国は、この一戦に国運あり、とか言っておってな。何しろ群雄割拠の時代じゃったから。いつでもどこでも、小さな合戦が起こり、その度に領土が変わっておったのよ。あの頃は、どんな合戦でも、国の命運がかかっておったなあ…アングリラの時は、まだ山賊もどきが相手じゃったから、わしらも気がゆるんでおってな。それでも、第一軍の大将が、王国の命運とか言い出してな。まあ、要は流行りの陣形を真似したかっただけじゃろうとは思うんじゃが、背水の陣を敷いたんじゃよ。ところが、何が幸いするか、ほんとに分からんもんでな。世の中というやつは。さっきも言ったが、ジャクタ公国、ワシの国の王の息子の弟の国なんじゃが、山賊退治に援軍を送るとみせかけて裏切ったのよ」

 司書が持っていた水筒からアイスコーヒーを注ぐと、老魔導士に手渡した。クララにも、んっと言って差し出す。ども、と言って貰ったが、正直ブラックでは飲めないのだ。

 崖の下では、いつの間にか動いている人影がほとんど見当たらなかった。川岸に立っていた人間の数はそう変わっていないようだが、何人か塊で交代している。対岸にも相変わらず動きはない。少し、靄が薄くなっているように見えるが気のせいか。

 老魔導士の話は続く。

「ジャクタの連中は、田舎もんじゃから、当然川のこちら側、今人間達が陣を敷いている方にワシらも陣を敷いているもんだと思って、後ろから奇襲してきたわけよ。ところが、ワシらは川の向こうに、川を背にして陣を敷いておった。あのときは、大将が流行りもの好きで助かった、そう思ったな。なにしろ、主力の重装歩兵は山賊と対峙して、本陣の500メートル先。合い間に軽装歩兵と弓隊じゃろ。本陣周りは、親衛隊が百人ばかりと、ワシら、魔導士が二十人。元より山賊相手に王国の虎の子の騎兵隊など連れてくるわけもない。ジャクタの連中は、重装歩兵と軽装歩兵合わせて二百人ほどじゃったかな。もう少し多かったかも知れん。そして、王の馬鹿息子二人の内の、少しましな方とその取り巻きが騎馬で三十ほど。いや、あれが騎馬が先頭だったら、負けていたかもしれん。川を隔てていたおかげで、こちらにはいい意味で予想外、あちらさんには、悪い意味で予想外だったとしても。なにしろ、重装歩兵は遅いのが弱点じゃからな。ともかく、ワシらは、前面に山賊、後方からジャクタの裏切り者ども、と二方面から挟撃されたわけじゃ。普通負けるわな。前門の狼、後門の虎というじゃろ。絶対絶命じゃ。大ピンチじゃ。まあ、やつら弱いから、前門のアヒル、後門のシマリスじゃったのかも知れんが」

 「がははっ」と笑う。釣られてクララも笑顔になった。司書も、ほの明かりの中、笑顔に見える。とても、優しげ、ふいにそう思った。

 老魔導士がぐいっ、とカップをあおる。飲み干したカップに、司書がまた、アイスコーヒーを注いだ。クララも黙って、カップを差し出す。苦かったのだが、少しずつ、飲んでしまった。もう大人だ。司書は黙ってアイスコーヒーを注ぐ。水筒から落ちた氷が、アイスコーヒーの上でくるくると回っているのを眺めていると、司書が「ああ、そうか」と言って、ローブの袂をごそごそと探った。「はい、ハチミツ」と言って、小瓶を差し出す。とりあえず、もらってアイスコーヒーに入れる。

一口飲むと、アイスコーヒーの味が、幾重にも広がった気がした。汗がすっ、と引いていく。風が右から流れて、木の枝を鳴らす。とてもいい気持ちだ。風に、お酒の匂いが混ざった。見ると、老魔導士は、アイスコーヒーに何やら茶色の液体を注いでいる。じっと見ているクララと目が合うと、にやっと笑って、片手でカップを掲げた。大人はこれだから、と思ったが、話の続きが気になるので、黙ってカップを掲げた。老魔導士は嬉しそうにお酒入りアイスコーヒー―アイスコーヒー入りお酒、かも―を一口飲むと、話を続けた。

「ワシらの大将は、とにかく慌ててしまっての。そりゃまあ、凡庸な将なら、慌てるわな。味方の筈のジャクタの旗が、明らかな敵意で迫ってくるんじゃから。あの、アルミス辺りはまた、違った反応をするじゃろうがの…まあ、とにかく慌てふためいて、言うんじゃ『総員本陣を守れ!オレは前線の山賊を撃破する!』とな。そうして、騎馬を連れて前線方面に行って仕舞いおった。結果として、正解じゃった。あのまま、本陣ごと前進しておったら、完全な二方面作戦の成功じゃったな。時には、ありえない采配も、結果として成功することもある、そう学んだな。上司が無能で、かえって助かることもある。とにかく、本陣に残されたワシらは、ジャクタの連中を相手にする羽目になった。まず幸運だったのは、やつらの前衛が重装歩兵じゃったことじゃ。やつら、橋を押し合いへし合いしながら、こちら側へ攻め込もうとしておった。ワシら少数精鋭の魔導部隊にとっては、非常に狙い易かった。魔法を扱う者にとって、敵が密集していることほど戦い易いことはない。面白いように、ジャクタの兵士達は魔法の餌食となった。今度はそうこうするうちに、橋では攻めきれないと気づいた部隊が、川を渡り始めた。これまた助かった。ワシら当時の魔導部隊は、補助系の魔法が使えなんだから、騎馬隊の突撃でも来たら、終わっておったが、わざわざ動きの遅くなる川に入ってくれたからの。親衛隊の隊長も、運がいいことに、そこそこ目端の利く男での。もう死んだが、ライルだか、ラングだか言った名前じゃったな…親衛隊らしく、線は細いがいい男じゃった。やつは、親衛隊を岸部に配置して、魔法から逃れて辿り着いた敵を効率良く叩いた。まあ、魔法を逃れた敵は、そう多く無かったがの。敵の数が相当減ったところで、ようやく敵も、騎馬による突撃と、中央突破の必要性に気付いたようで、騎馬が橋の向こう側に一列に整列した。いよいよ正念場だと、こちらも橋の正面に勢ぞろいしたが、何かぐずぐずして、一向に突撃して来ない。大方、阿呆な次男が憶したかと、皆で笑っておった。いや、本当じゃよ。戦争を始めて、或る一定の時間が過ぎると、なぜだか笑いたくなるのよ。不思議なもんじゃて。まあ、勝ってる戦に限るがな。そうこうするうちに、ジャクタの騎馬部隊は、踵を返して退却し始めた。まだ戦っている兵もいたし、引き鐘も鳴らなかったのに。ワシらみな、ぽかーんとして、その後ろ姿を見送った。なんだか勝った気がしなかったな。まあ、とりあえず勝ってな。その時の功で、魔導部隊は使える、とこういうことになって、我が王国の守備の要として、正式に魔導団が作られたのじゃよ。あとのことは、歴史が知っている、とこういうことじゃ」

 言い終わると、カップをぐいっとあおった。なかなか面白い話だった。さすがに長く生きている人の話は面白い。いや違うか。長く生きている、だけではなく、長く生き、何かを成し遂げてきた人間の話は、深みがある、ということか。そうでなくては、語る物語もないだろう。じっ、と老魔導士の顔を見る。ほの明かりに照らされたその顔には、深い皺が刻み込まれている。それは、多くの経験と記憶の蓄積そのものが具現化したものなのだ。

 不思議な話だが、それでもなお、老魔導士と呼ぶには躊躇するような、若々しさが、その表情と、なによりも、明らかに活力に溢れている目に現われていた。ゆっくりと体ごと揺らすように頷いていた司書が、老魔導士に顔を向けた。

「ううん。すごい話です。生ける伝説ともいうべきお方の話は、とてもためになります。興奮しますね、実際。自分もその場に居たくなります。ところで、魔導士殿は、なぜ今回の侵食に?」

 そう言って、ちらりとクララを見る。老魔導士は、楽しそうに「かまわんよ」と言った。

「クララを除け者にしては可哀想じゃ。まあ、無理に聞かせる話でもないが、子供に世の中を隠し過ぎるのも良くない、とワシは思う。ワシには、子供はおらなんだがの」

 酒を壜ごと煽る。

「成功も、失敗も、じゃ。先に生きてきた人間は、後に続く者に、心を伝えなきゃならん。そうでなくては、先に生きている人間の価値など、ないに等しい。そうは、思わんかね。世の中には、自分の生だけを全うすればそれでいいという考えの持ち主が多い。それもまあ、考え方の一つではある。生命を全うするのが、人間に課せられた根本的な使命そのもの、生命の全う、それこそが生きる意味じゃからな。大金持ちになるとか、王になる、魔導士として名を馳せる。そういう有象無象は枝葉に過ぎぬ。人間としての根本の使命ではない。言って仕舞えば、個人の努力目標に過ぎん。だが、ワシらが人間であるならば、それだけではまた足りぬ。人間という種を、存続させ、次の世代に人間という仕事を伝えていくことに、価値を生み出すべきなのじゃ。それにより、先人の知恵は次の世代に受け継がれ、その繰り返しが人間をより良い生き物にする。それが、ワシらが単に個人ではなく、人間という種である意味だと思っておる」

 老魔導士は、手の中の壜を表にしたり裏にしたりしている。どこかで蝉が鳴いている。

「ワシはどこかで間違った」

 先ほどまでの調子とはうって変って、呟くように老魔導士は言った。

「戦に勝ち、領土を広げ、王に忠誠を尽くす。その中で、何かを手に入れるべき、いや、ヒトとして生きるうえでやらなくてはならぬことを、なして来なかった。王の命は絶対。それがどんなに理不尽なことでもやったし、例え疑問を持っても反対することはなかった。結果、それなりの地位と名声を手に入れたが、目を閉じると、大きな喪失感に苛まされるようになった。歳をとると、先に対する不安が大きくなるとばかり思っておったが、実際に湧き上がるのは、過去に対する喪失感なのじゃ。後悔、というのとも違う。心が空虚になるような、絶望に近い喪失感」

 老魔導士の声は、ささやくようになっていた。

「後悔ではない…」

 司書もまた、ささやくようにつぶやいた。

「そうじゃ。後悔はあの時ああしておけば良かった、そういう選択肢の感覚じゃろう?ワシはそう思う。ワシが感じるのは、いまこの年齢に達して気付かされる、喪失感じゃ」

 老魔導士は顔を両手で覆った。

「王国は今、崩壊の危機じゃ。いや、崩壊はもう始まっている。それを止める者はいない。止めるべきではない、という意味も含めてな。栄光の時代は確かに在った。だが、気付いた時には、王国の幹部達は皆、完全な孤独だった。いま、王国の幹部達は、王家と、そして幹部同士で対立しておる。王は子に国を譲った。新しい王は、自分を認めない王国の幹部を疎んだ。当り前じゃ。幹部達は、王に王たる資質がなければ軽んじ、認めず、新しい王は王たる資質がない故に、そういった感情を理解出来ぬ。新しい王に出来るのは、王と言う名の元に、その権限を使うことだけじゃからな。ワシらはそのことに気づいておったが、それでも新しい王を支え、反対する者を粛清し続けた。それがワシらの使命だと信じておったから」

 老魔導士の声は、口元を両手で覆ったまま話しているため、ひどくくぐもっていた。

「中には本当に国を思う人間もいた。ほとんどの人間は、新しい王を軽んじるか、その無能さに腹を立てるかだけだったが、国の行く末を思う人間も確かにいたのじゃよ。いい魔導士じゃったよ。やつは、王国が大きくなるためではなく、王が王でいる限り、起こりえる禍について、ワシら王国執務院に直訴してきた。外敵の侵入の可能性。政治の乱れ。王の自己を満足させるための、ありとあらゆる政策。どれもこれも理にかなっておった。そのうえ、やつは、誰にそそのかされたわけでも、己の利益のために訴えて来たわけでもなかった。初めは訝しんだよ。そんなやつがいるのかと。己の利のために動かぬ人間が居るのかと。ワシら自身が、そうではなかったからの。そんな価値観は理解、というか、存在すら想像出来なかった。それまで粛清した連中も、みな何かしらの利益がついてまわっていたしな。だが、やつと直接対峙して分かった。やつは、王国の未来を、そして王国に暮らす多くの人間達の幸せを本気で考えていた。粛清は簡単だった。思ったよりもずっと。優秀な魔導士だったが、やつは誰も巻き込まなかったんじゃ。最後まで、粛清部隊と戦いながら、どうして誰も真剣に国の将来を思わないのか、と叫び続けていた。崖に追い詰めた時も、少しも命乞いしなかった。その姿に、ワシは畏怖の念を覚えた。四十も年下の若造にじゃ。粛清部隊の連中は、どうだったかって?ふん、大方、粛清を終えたあとでも開いているパブを頭の中で検索でもしていただろうよ」

 老魔導士は口元を右手で拭った。更に独白は続いた。

「そのころから、ワシは自分がして来たことに、本当に意味があったのか、考えるようになった。いや、実際はその考えが頭から離れなくなり、やがて、支配された。それでも、粛清は続けた。続けざるを得なかった。だが、何人かは取り逃がした。ワシの担当だけではない。多くの粛清部隊が、叛乱者、あるいは反乱しそうだと思われる人物の五割を逃がした。追う者と追われる者の、モチベーションの違いじゃな。逃げた連中は、各地で叛乱の狼煙をあげたよ。そのうち五人ほどは、本当に手ごわい。だが、上手く軍を動かせば、今回の反乱は抑えられるはずじゃ。なぜなら、反乱の連中同士、戦いあっておるからじゃ。手を組もうとはしない。さっきも言ったが、ワシらは皆、孤独なのじゃ。誰も信用せず、誰にも教えず、誰も育てようとはせず、誰にもその理念や道を説こうとはしない。それが、ワシらのしてきたことなのじゃ。あるのは、一方的な命令と価値観だけ。新王は、ワシに反乱の鎮圧を命じてきた。ワシは聞きたいことが沢山あったが、どう口にして良いか分からなかった。だから…少し考えさせて欲しいと言って王宮を退出し、その足で侵食に向かった。考えさせて欲しい、というのは時間稼ぎでもあったし、本音でもあった。もちろん、そう言わねば、面倒なことになる。いや、どう言っても面倒なことにはなったのだがな。とにかくフードで顔を隠し、素性を隠し、侵食の内に入ることを考えた。そこまでは、追手も来ない。考える時間が出来る。ワシがして来たこと、そして、なによりもワシがしてこなかったことについて」

 蝉の音が、不意に止まった。

「それで、なにかお分かりになりましたか?」

 司書は、突き放したような、冷たく聞こえる冷静さで響いた。老魔導士は頭を振った。

「分からん。ワシが軍を指揮しなければ、王国は滅びるかも知れん。それでいいのではないか、という考えにはいたった。反乱を鎮圧し、また反乱が起こり、民草が疲弊するよりは、いっそ滅びる時に滅びた方がいい。じゃが、ワシ自体がどう残りの時間を過ごすかについては、非常に曖昧なままじゃ。ただ、何かを残す、あるいは伝えねばならぬ、という気はする。ワシが生きて来た上で学んだ、良いことも悪いことも、極めて公平に。そして、その人間が、少しでもそのことを胸に残し、また次の世代に自分の経験を乗せて、伝えて言って欲しいと。その繰り返しが、多くの人間に本当の幸せを感じて生き抜く強さを伝えて行くのではないか、と。まあ、そこまでは分かったのじゃが、なにせ、何を話していいか分からなくてな。ついつい昔話になる」

 「フハハハハ」と老魔導士は自嘲気味に笑った。

「なるほど、もうお分かりではないですか」

 司書が柔らかい調子で、フフフと笑って言った。クララにも、とても良く分かった。何が分かったか、と言われると、言葉にはしにくい。でも、とてもよく伝わった、そう、伝わった。そのことを、老魔導士に伝えようと思ったが、なぜかうまく口に出来なかった。

 そして、クララは自分が泣いていることに、初めて気付いた。

「あれっ、何で三人もいるんですか?」

 後ろからトーマの声が聞こえる。もう交代の時間なのだ。クララが慌てて顔を隠そうとすると、司書が袂から、白い布を出し、渡してくれた。

 そうして、立ち上がると、トーマに「ちょいと寝るよ。あとよろしく」と言って去って行った。

 

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