3日目 黒緑の魔人
3―2 「水たまり」
あの坂を越えれば海が見える。
<少年>
ぼんやりと、空が明るかった。
それに気付くまでは、常に日蝕を均等にしたような、朝と夜が完全な割合で交じりあっているような、そんな感じであったのが、残り坂1つ―クララは数えていた―を残したところから、坂の向こうの空は、ぼんやりと揺らぐように明るくなっていた。
かといって、別に太陽が昇っていたわけではない。
黒い天井を、下からか細いろうそくの光で照らしたような、そんな光だった。
クララだけが気づいたわけではない。パーティーの一行が、皆一様に気づいていたのが事実だ。それを証拠に、坂の頂上―川まで二つ目―に辿り着いた順番に、坂の上に立ち、後続を待っていたから。全員丘の上に辿り着いても、しばらくは誰も何も言わなかった。最初に口を開いたのは、シンベルグだった。
「そろそろかぁ」
次に口を開いたのはセツエイ。
「なるほど」
そして、続いて司書。
「やはり、必ず起こるものなんですかね?」
司書の質問は、前者二人に向けられたものであったようだ。その司書の質問に、シンベルグが答えた。
「そうだね。前の時も、川辺だったね。いや、前の前かな」
「シンベルグ殿と同じ経験かどうかは分からぬが、前は平野でしたな。前々回が、川辺でした。それがしが仲間とはぐれたのもその時」
主語がないので、三人が何を話しているのかはっきり分からずに、クララはイライラした。クララがイライラしたのだから、アルミスと老魔導士がしないはずがない。二人揃って「おい」と司書に言った。司書はそんな二人を、嫌そうに見返した。首の後ろ辺りを、ぽりぽりと掻く。
「そんな風に言われても。人に物を聞く時は謙虚にと習いませんでしたか?」
疲れているのか、いつもの柔和さが見当たらない。アルミスは一瞬目を細くしたが、大きく息を吐いて、仄かに揺らめくように照る空を眺めた。
司書がシンベルグの方を向いて「もう少し時間がありますか?」と聞くと、シンベルグは遠くを見たまま「うん」と短く答えた。司書がアルミスの隣に進み、本をめくりながらアルミスに話しかけた。
「すいません。文献によると、侵食内で、必ず最低一度は、闇の生き物と、我々人間との間で大きな戦いが起きるようです。あの明かりは、おそらく、人間側の持つ、松明やら何やらの明かりかと」
「知っていたなら、なぜ言わん」
「本に書いてあること全てが正しいとは限りません。また、私の知っていること全てを語ったら、半年は過ぎますよ?」
アルミスは自分の左肩を、右手で揉んだ。
「なるほど。それもそうだな」
言って、大きく息を吐く。溜息というのは、幸せだけを逃がすためにあるんじゃないな、とクララは思った。
「まあ、座って話そうではないか」
老魔導士がなぜか愉快そうに言った。
「しっ!」
老魔導士の言葉の後ろに被せてアイリが言い、クララの後ろ―進行方向左手の森―を指差した。
「なにか来る!」
シンベルグが目を細めて、奇妙にのんびりと言う。
「ああ、いつもより多いね」
ここ数日ですっかり耳慣れた音―剣が鞘を走る音や、マントがはためく音―が聞こえると、クララも自然と剣を―驚くことに―抜いていた。
「十は居るな」
セツエイが指差し確認し言うと、ゆっくりと刀に手をかける。
「しかも、厄介なことに、新種ですね」
司書が言った。
「新種?」
アルミスが聞く。
「ええ、良く見て下さい。一見ひと固まりですが、歩いているのが五。そして、浮いているのが五。ほほう、デュラハンとスケルトン、そして浮いているのが、わぁ、ファントムですね。」
よく見えるものだ。クララには、黒い塊が、マキス川手前の丘に向かっているようにしか見えない。そう思って司書を振り返ると、いつの間にやら変な筒を覗きこんでいる。左目をつぶり、筒を覗きこんでいる様は、見事に変だった。なぜか、左の口角も上がっている。
少し楽しそう、そうクララは思った。
そんな、司書をアルミスとアイリが引き気味に見ていた。司書は筒を覗きながら「このまま真っ直ぐマキス川まで行くみたいですね」と言った。
「こちらには気づいてないのか?」
アルミスが聞く。
「ええ。そのようです…が。そのようでした…が。気づきましたね」
皆、音がするほどの勢いで黒い塊を見る。
確かに塊は、こちらに進路を変更していた。
「距離600ってところか」
アルミスが言い、目を閉じた。
「ファントムが厄介じゃな」
老魔導士も目を瞑る。
「どうしてです?」
トーマがちらちらと、黒い塊を見ながら聞いた。
「普通の武器では死なないの。実態がないから。魔法も、物理的な魔法は効かない、らしいわ。それに、飛ぶでしょ?」
アイリが答える。今までの戦闘が楽だった―クララは何もしていないが―だけに、クララは大人達が悩むのを見て、急に不安に襲われた。自然と、目の下から頬にかけての辺りに引きつるような感じを覚える。
「ここで神魔器か…」とアルミスは言って、背中の剣を鞘ごと外し、目の前でチャキという音と共に持ち換える。
「派手な魔法は出来ればまだ使いたくないんじゃが…」と老魔導士はローブの袖に手を入れる。
「カゲツネで斬れんかな…」とセツエイは抜き身を目の前に翳し、右手を添えて刃を眺める。
「あの…」
キーラがおずおずといった感じで、右手を胸の辺りに挙げた。皆がキーラを見る。
「ん?キーラ殿、なにか策が?」
司書が尋ねるとキーラは右手を挙げたまま、「消霊魔法なら、使えますけど…」と答えた。老魔導士の顔が、ぱっ、と明るくなった。
「ほっ!キーラ殿、消霊魔法も使えるのか!いやぁ、てっきりヌシは、治癒系の魔法しか使えないものと思っておったわい。なるほどなるほど。この距離なら十分じゃて」
「なんですか?ショウネン魔法?」
トーマが間の抜けた声を出す。
「消す、霊と書いて、消霊魔法。実態のない相手を、この世から消滅させる魔法のこと」
アイリが補足する。
「そうじゃ。ワシは物理魔法の神々と契約しておるので、たいがいの魔法は使えるのじゃが、消霊魔法や治癒、精神魔法は、契約そのものに条件があるので、一部の神官しか使えないんじゃよ。世俗に塗れたら、もうほとんど契約出来ん。そうかそうか、まあ、キーラ殿なら…美しいのにのう」
老魔導士が一頻り感心―関心―する。
「ああ、そうなのですか。いやいや。そうかぁ…キーラ殿。いや、やはり真に美しい方は、心も美しい」
司書が大仰に感心する。大きく頷き合う二人を見て、クララはなにか嫌な感じがした。
キーラは困ったような顔をして、胸の辺りで挙げた手の平をブイサインに変えた。
キーラ様もなかなかお茶らけた所がある。
「よく分からんが、その魔法で何とかなるんだな?」
アルミスが聞いた。
「ええ。詠唱の種類にもよりますが、一度に二、三十体は消滅させることが出来るはずです。ねえ、キーラ殿」
司書が答える。キーラはいよいよ眉間に皺を寄せたまま、なぜか手だけはブイサインのまま小刻みに上下させている。なにか変、クララは思った。横でトーマがブイサインにした手を、表にしたりひっくり返したりしながら、時折キーラを見て、首をかしげている。シンベルグは、キーラの前に立ち―いつの間にか―同じ動きを楽しそうにしている。
あの、クララは一番話が通じそうなセツエイに話しかけた。アルミスはともかく、司書と老魔導士には、いやなオーラが漂っている。
「ん?どうかしたのか?」
セツエイは、柄に手を載せたまま、目を細めて黒い塊を見ていたがクララの方に顔だけ向けた。
クララは黙ってキーラを指差す。セツエイは、眉間に皺をよせて言った。
「二?何が二か?」
やっぱり。ブイではなくて、数字の二、だ。
アルミスに伝えると、アルミスは訝しげに、「キーラ殿。何が言いたいのです?」と聞いた。キーラは、「ごめんなさい。二体までしか対処出来ないの」と小声で言った。なぜか、司書と老魔導士がひどく驚いた、というか残念そうな顔をした。
「途中でその…三の段からその…」
キーラがしどろもどろになり、恥ずかしそうに言う。司書が、斜め上を見ながら言った。
「良いんです。良いんですよ、キーラ殿。十分いい夢を見ました。そうですか…二の段で…いえいえ、三の段から急に難しくなりますから。ですよね、大魔導士殿」
老魔導士が重々しく頷く。
「そうじゃてそうじゃて。キーラ殿…二の段か…いや、なにも言うまいて。人には人の人生じゃ」
何が何やら分からない。
「で、どうするんですか?」
アイリがいら立つように言った。
「あと砂時計十回分の距離だな」とセツエイ。
「キーラ殿。三体残して、次の詠唱までにどのくらいかかる?」
アルミスがキーラへ問いかける。「10分あれば…」とキーラが言うと、「しかし、完全に消しさるまでは、一番早いハジンキョクの言葉でも3分はかかる」司書が急に真面目そうに言った。
「勝てん、とは言わないが、危険だな」
アルミスが不愉快そうに眉間に皺を寄せる。
「逃げるか?」
セツエイが言うと、アルミスは被りを振る。
「貴公はその鎧があるから言えるが、我々はこの平地では、逃げきれん。森に逃げる訳には行かないし、後退して逃げるのでは、意味がない。先を急がねばならない」
少し棘がある言い方だった。セツエイは無表情に黙る。
「待って下さい。思い出しました!」
司書が言うと、例の袋を漁り、三枚の紙きれを取り出した。
「これが使えるかと思います」
何だろうか、薄く光っている。「それは?」とアルミス。
「実体化の札です。忘れな草と霞み草を混ぜ合わせ、そこに蝙蝠の涙と、かげろうの血を混ぜて、まあ、いろいろやると出来上がる、膏薬のようなものです。実体のないものに貼ると、固体化する物で、危険なガスの処理なんかに使います。これ、使ってみましょう」
「どう思います?」とアルミスが、老魔導士に聞くと、魔導士は「ふうむ」と唸って「試したことはないが、いけるかも知れん」と言った。
「アイリ」
アルミスは司書から奪うようにお札を掴み取り、アイリに渡す。
アイリは黙って矢じりにお札を差すと、弓を構え、矢の先端を上下させる。アイリが声に出さずに何かをつぶやく。ひゅい、という音と共に、矢が放たれた。黒い塊との距離は100メートル程ほどだろうか。空が黒いこともあり、矢を追うのは難しかったが、黒い塊の上の方で、光が小さな花火のように、八方に散ったのが見えた。
おおう、と誰ともなく声を漏らす。クララは、何がどうとかよりも、アイリの腕前に驚いた。自分では絶対に無理だと思った。
「当たりましたね」
司書が筒を覗きながら言う。
「そのようじゃな」
見ると、老魔導士も、空間を切り取るように、両手の親指と人差し指で顔の前に四角を作って黒い塊を眺めている。
「あれは…なんですか?」
キーラも同じように顔の前に指で四角を作っている。片目を瞑っているのが愛らしい。トーマが気になるのか、老魔導士の後ろから覗きこむが、老魔導士が険しい顔で睨むので、隣のキーラに移る。キーラが微笑みながら、「術者にしか見えないのよ」と言ったのが聞こえた。司書が「トーマ」と呼んで、筒を差し出すとなぜかアルミスが受け取って筒を黒い塊に向けた。
「あれは…グールか」
そう言って、筒をトーマに放る。トーマは、びっくりしたように受け取ると、嬉しそうに覗きこんだ。「すげえ、すげえ」と繰り返すトーマをガキっぽいとは思ったが、アタシも見たいな、と少しだけ思った。すると、トーマが不意に振りかえって、筒と顎を突き出した。クララは、別にいいんだけど、まあ、借りるわね、といった風に肩をすくめると、筒を受け取った。
黒い塊の一団―筒のおかげでよく見えるが、一体のデュラハンとグール、四体のスケルトンとファントム―は無表情にこちらに向かってくる。グールだけが、少し遅れ気味だ。どうやらお札を貼られたファントムは、グールへと実態化したらしい。
「なんとかなりそうだな」
アルミスが言い、続ける。
「よし、皆聞いてくれ。まずはキーラ殿、消霊魔法の詠唱にかかってください。アイリ、なるべく距離のある今のうちに落とせる残り二体のファントムを実態化してくれ。残り二体もグールだと、断然戦いやすい。遅いからな。魔導士殿は、スケルトンを…何体いけますか?」
「お主、馬鹿にしてるのか?もちろん四体よ」
「では、四体を。助かります」
「セツエイ殿」
「おう」
「左から周って後続のグールをお願いできますか?」
「承知」
「大丈夫だとは思いますが、敵の一団全てが向かってきた時は退いて下さい。それと…」
セツエイはアルミスに向かって右の掌を向ける。
「分かっておる。囲まれるようなことはない」
アルミスは黙って頷く。
「自分はデュラハンを。アイリは、撃ち洩らしをフォローしてくれ」
「ここで待つのか?」
セツエイが聞くと、
「否。オレとセツエイ殿は、坂からやつらよりに少し下った所で迎え撃とう。その方が、アイリも術者も狙い易いだろう。あ、言い忘れましたが魔導士殿」
「何じゃ?」
「くれぐれも、森まで届くような魔法を使わないで下さい。森が騒ぐと厄介だ」
「分かっとるわい」
「では」とアルミスが言いかけた時、トーマがアルミスに聞いた。
「あの…僕らは何を?」
アルミスは、顎に手をやると少し考え込む風だったが、手を下ろしてトーマの肩を叩くとこう言った。
「そうだな、キーラ殿とクララを守ってくれ。そして、我々の戦い方を良く見るんだ。いつか、お前が闘う時のために」
トーマは力強く頷く。
司書とシンベルグは互いに顔を見合わせ、自分たちの顔を指差したが、さすがに男らしくないと思ったのか、何も言わなかった。
「落ちたわ」
いつの間にか、アイリがファントムを落としたようだ。
「一体はグール。もう一体は動きませんね」
いつの間にか、筒は司書の手に戻っていた。
「ふん。まあいい。行きましょう、セツエイ殿」
各々が配置に着く。アルミス、セツエイは、皆が居る丘の上から、20メートルほど下った。二人とも、それぞれ剣も刀も抜いていない。アイリは弓に矢を番え、老魔導士はアイリの左3メートルの間隔を開けて杖を横にし、なにやら呟いている。その真ん中にキーラ。こちらも詠唱中だ。キーラの前に、前方をにらみ、視界を遮らない様、片膝を立て、トーマが座っている。後ろから敵が来たらどうすんのよ、とクララは思い、キーラマイの後方で半身になって警戒する。皆の背のはるか向こう―マキス川まで最後の丘―の空は、仄かに揺らめいて赤やいでいる。ああ、焚き火の空だ。焚き火をした時、仄かに燃える夜空。横でシンベルグが「キレイだなぁ」とのんびり言っている。クララは、ちょっといらっとして、シンベルグに後ろ見ていてくださいね、と言うと前に向きなおった。
向き直ると同時に、キーラが両手を広げ、それから右手の指を目いっぱい開いたまま突き出した。あっ、思わず声が出る。突き出されたキーラの白く細いきれいな指先―人差し指と中指―から、二本の緑色の光が出ると、糸のように伸びていく。緑の糸の先端は、アルミスの頭の上を越え―いつの間にか、セツエイはいない―アルミスの前方を浮遊し、向かってきているファントム二体に纏わりつくように絡みついた。緑の糸は、キーラの指先から絶えず出ているようで、二体のファントムは緑の糸でぐるぐると巻かれていく。緑の糸が、ファントムを覆い尽くした様に見えるまで、30秒程度だったと思う。ファントムの―緑との対比でよく見える―黒い頭が見えなくなると、キーラの指先から出ている緑の糸が、明るい紫に変わった。すると、今度は素早い動きで開いていた指を閉じ、拳を握ると、ぐいっ、と手前に引きよせた。緑の糸で巻かれたファントムも、手前に引き寄せられたように見えた。そして、一度拳を地面擦れ擦れまで振り下ろすと、勢いよく天に突き上げた。ひとつひとつの動きが―普段のキーラからは想像もつかないほど―ダイナミックで美しく、まるで踊っているようだった。緑の糸は、キーラの頭上まっすぐに伸び、そしてパッと散った。クララは、緑の蝶が夜を染めていく、そんな歌の歌詞を思い出した。「キーラ様!」トーマの声がして、はっと我に帰ると、キーラが地面に尻もちを着いていた。
急いで駆け寄ると、キーラがきれいな白い歯を見せて苦笑いしながら、「この呪文は少し疲れるのです」と言っていた。大丈夫そうだ。
前方に目を戻すと、心なしか、黒い塊の速度が増しているように感じられた。いや、元々この速度なのか。近づいているから、速く感じるのか。時間の感覚というのは不思議―というより恐ろしい―だ。展開が嘘のように、目まぐるしく、リアルだ。
「はっ!」
声がする方を見ると、老魔導士が体の前で、杖をグルグルと物凄い速さで回している。ポンポン、と音がした―気のせいかもしれないが―と思うと、円を描いて回転する杖の上下左右から、白と青が目まぐるしく回転する四つの塊が飛び出してきた。
横で、いつの間にかキーラを覗きこんでいた司書が「なるほどソニックか」と言った。
老魔導士の回す杖の風圧か、四つの回転する球の風圧か、クララの髪が後ろに流される。流されるどころか、体ごと飛ばされそうだ。踏ん張って、右手で風から目を守る。
老魔導士のローブのフードも後ろに流れている。老魔導士は、目を細めると、「ふんっ」と言って杖を持ったまま、右手を大きく前方に振った。杖の先から放たれたように、青色と白色が縄のようにねじり合う球―親指と人差し指で作る輪と同じくらいの大きさ―は、段々大きくなりながら、アルミスの両脇を―左側を一つが、右側を三つが―物凄い速さで擦り抜けた。
アルミスは髪が舞っても微動だにしない。
美しくも、物凄いエネルギーを感じさせる球は、最終的にスケルトンと同じくらいの大きさになると、四体のスケルトンに見事にぶつかり、そして、その体を四散させた。
再び老魔導士に目を戻すと、滝のような汗だが、なぜか若々しく見えた。クララと目が合うと、してやったとばかりにニヤリとした。
クララは、老魔導士が一瞬少年のように見えた。
頭を振って、前方を見る。
見るとデュラハンは立ち止まっていた。アルミスは、剣を肩に担いでいた。デュラハンは肩を動かして、右を見―首がないのでおかしな話だが―左を見ると、駆け足でアルミスに向かって走り出した。
突進、と言った方が正確か。
デュラハンは、首のない胴体部分だけでも、アルミスよりも大きかった。
抜き身の両刃の剣を右肩に担ぐように振り上げると、そのまま打ち下ろす。
どん、と鈍い音がして、両刃の剣が、地面を叩く。
アルミスはもうそこにはいない。
デュラハンの左脇を抜けると、剣で打ち込もうとする。
デュラハンは、剣を地面に突き刺したまま、左手を凪ぐようにアルミスに向かって振るう。アルミスは、その手に向かって右足を踏みつぶすように出す。
ガイン、と金属音がして、アルミスがはじけ飛んだ。
剣を握ったまま、尻もちを着いたが、すぐに起き上がり、両手で剣を構える。
デュラハンは、ゆっくりと大地に刺さった剣を引き抜いた。
ほんの一瞬の攻防だが、クララはまたしても、くらくらするような感じを覚えた。見ていたり、思いつくのと、実際に行動出来るのは、空と大地ほども違うのだ。凄すぎる。
またしても、デュラハンから打ちかかる。
アルミスは腰を落として躱したり、後ろにステップを踏んだりして、剣を交えようとはしない。
多分正しい。得物の重量が違い過ぎる。アルミスの剣が如何に業物でも、受ければ折れるか、曲がるだろう。
それは、息の詰まるような戦いだった。何度か、アイリがアルミスに加勢しようと、弓を構えていたが、引きしぼっては下ろすということを繰り返していた。
アルミスとデュラハン、双方の距離が近過ぎる上に、体が激しく入れ替わるので、狙えないのだ。
老魔導士も同様らしい。杖を構えては、ちっ、と小さく舌打ちする。デュラハンを軸に、デュラハンが剣を振ってはアルミスが避け、時折剣でデュラハンの胴を打ったり、蹴りを入れたりしているのが続いたその何度目か、アルミスが一回転して蹴りを入れ、反動でデュラハンは大きくよろめいた。
おおっ、と声が出る。その直後、「危ない」と誰かが叫んだ。自分だったかも知れない。
デュラハンは、大きくよろめいた体を、そのまま一回転させると、物凄い速さで剣を水平に凪いだ。
アルミスはほとんど地面に両膝をついて避けると、そのまま立ち上がった勢いでデュラハンに凄まじい勢いで体当たりした。
デュラハンは、体勢を崩して地面にうつ伏せにどうっ、と倒れ込んだ。アルミスは急いでデュラハンの背中に乗り、両手で剣を握ると、腰のあたりに突き刺した。
一瞬、デュラハンの四肢が跳ね上がると、そのまま二、三秒して、地面に落ちた。
アルミスが、額を腕で拭うのが見えた。そして、デュラハンの背の上で、剣を鞘に納め坂の下を見る。ぎくりとしたように一瞬硬直すると、坂の下に向かって走り出した。そうだ、セツエイ様。皆、アルミスの視線の先、セツエイが闘っているであろう敵、グールを目で追った。
「あれは!」
司書が叫ぶ。セツエイが戦っていたのは、グールではなかった。すでに、二体のグールが、銅を真っ二つにされて転がっているのが見える。セツエイは、ダークグリーンの鎧を着た、何かと戦っていた。
「まずいなぁ」
いつの間にこちらを見ていたのか、シンベルグが声を出した。
「グールではないのか!?」
老魔導士が聞く。アイリはすでに駆け出していた。皆も後に続く。
「あれは、私と一緒。魔人ですよ」
走りながらシンベルグをちらと見る。歩いているのに早い。
視線を先に戻す。魔人、とシンベルグは確かに言った。
あれが、魔人。
遠目に見ると、セツエイと緑の魔人は激しく打ち合っているようには見えない。セツエイが斜めに刀を引き、魔人が歩きながら打ち込み、セツエイは受けるではなく刀をすべらせ、一歩下がる。その動作が、三度ほど繰り返される。
よく見たら、防戦一方だ。稽古のような型どおりの動きなので、気付かなかった。セツエイの刀の引きが、少しずつ浅くなっている。
先を走っていたアルミスが、走りながら抜刀し、緑の魔人に真横から斬りかかった。
魔人の何も持っていない左手から緑の光が飛び出し、アルミスの剣を受けた。ここで初めて緑の魔人は歩みを止めた。両手に光る黒緑の剣。二刀流だ。
その剣は、針をそのまま太くしたような形で、先端に向かって細くなっている。
膠着した状態のその場所へ、皆が辿り着いた。
「おい、何をしている」
第一声は、緑の魔人が発した。みな、思わず一歩下がる。
その声は、シンベルグの声と同様、頭の後ろから聞こえるような、妙な感じの聞こえ方だったが、シンベルグの声―甲高いが、のんびりした感じ―とは違い、骨が揺さぶられるような低音だった。声が体を通り抜けると、腰の辺りに重みを感じた。声だけで、地面に押しつぶされそうだった。さらに、声は明らかな怒りを含んでいた。緑の魔人の目―暗い、暗い緑色―は一直線にシンベルグを見ている。
見ると、アルミス始め、みな一様に少しずつ後ろへ下がっている。クララも、緑の魔人に背を向けたい思いと懸命に闘いながら、ずりずりと後退した。二、三メートル後退し、最後尾の司書の横に行くと、ふっと体が軽くなり、そのまま尻もちをついていた。
クララは自分が、ひどく歯を食いしばっているのに気づいた。立ち上がろうとして、立てない自分に気付いた。足に力が入らない。腰から下が―いや全身か―自分の物ではないような感覚だった。
司書が来て、手を貸してくれて、ようやく立ち上がるが、ふらついて、司書のローブにすがった。
相手の脅威に気付いたのか、司書の周りに、自然とキーラ、老魔導士、トーマ、そしてクララが集まっていた。
アルミスとセツエイは、緑の魔人から20メートルほどの距離を置いて、肩を並べて構えている。
こんなに敵と距離を置いたアルミスとセツエイを見たのは初めてだった。こんなに小さく見える二人も。
アイリを探すと、アイリは緑の魔人の左斜め後方に居た。
「別に」
こんなに遠いのに、なぜか聞こえるシンベルグの声。
声の主は、クララ達一団から左前方を、ふわりふわりと弾むように歩きながら、緑の魔人の前方に出ようとしている。
「シンベルグ卿は勝てませんよ」
司書が早口で言った。皆、言外に「なぜ分かる?」という気持ちで司書を見る。まあ―シンベルグの強さを知らないが―そんな気もしつつも。司書は「訳はあとで」とだけいうと、老魔導士に聞いた。
「魔導士様。先ほどの見事なソニックですが、実際何個出せますか?六つ?」
「ほっ。よく分かるの。確かに六よ」
「それではお願いします。あれは剣では弾けない。あの緑のお方の前後左右上下を囲めますか?」
「お安い御用じゃ。ふん。ちょっと離れておれ」
そういうと、老魔導士は、クララ達と距離を取り、杖を回し始める。シンベルグは、緑の魔人と5メートルの距離でふわふわ浮いている。時折、緑の魔人が、剣を構えるような素振りを見せると、水平に後退し、また距離を詰める。
何か、話しているようだ。
司書は、そんなシンベルグの様子を半身で見ながら、トーマとクララに手招きした。二人共、大した距離ではないが、つい駆け足になる。
「トーマ。クララ殿。老魔導士のソニックボールが五つ出たら、アルミス殿とセツエイ殿の所へ全力で猛ダッシュです。そして、アルミス殿には、右下。セツエイ殿には左下、そう伝えて下さい。それだけで伝わるはずです。良いですね?」
二人は黙って頷く。老魔導士の周りには、空気が渦巻き、ソニックボールが四つ出来ている。もうすぐだ。
キーラが、なにかの呪文を放つ。えいっ、と声がして、蝋燭の炎ほどの小さな光が、ふわふわとシンベルグの方に向かって飛んで行った。
緑の光はシンベルグの周りを周っている。シンベルグは楽しそうにその光を捕まえようとする。緑の魔人は訝しげにそれを見ていたが、大きな針のような剣で光りを切り裂いた。光の球は弾けて消えた。
「行け!」
司書に背中を叩かれ、はっとして走り出した。
アルミス達の所へ全力で走る。
走りながら、トーマとクララ、どっちがアルミスとセツエイに伝言するか決めてなかったのに気づく。左横を走っているトーマも気づいたようで、目が合った。二人同時にコクンと頷くと、クララは右側に立っているアルミス目がけて進路を変えた。アルミス達に近づくにつれ、なにかが猛スピードで追いかけてくるのを、背中越しに風圧で感じた。
ソニックボールだ。
アルミスの胸に飛び込むように、辿り着くと、司書の言葉を伝える。息が荒くて、アルミスは、右、セツエイは左、としか言えなかったが、アルミスは一瞬目を合わせると、走りだした。
そのすぐ後で、ソニックボールがクララ達の横を通り過ぎ、瞬く間にアルミス達に追い付くと、その傍らを抜け、緑の魔人に迫って行く。
途中までひと固まりに見えた空気の球は、緑の魔人の手前で四散し、ひとつは更にスピードを上げ、シンベルグと緑の魔人の間を通り過ぎ、急な弧を描くように戻ってくる。
緑の魔人は、通り過ぎたソニックボールを目で追った後、シンベルグを見て剣を振り上げ振り下ろした。
シンベルグは、今度はバックステップではなく、サイドステップで横に逃げた。
すると、シンベルグの後ろ、死角からソニックボールが緑の魔人に迫る。緑の魔人は、剣を振り下ろす途中で腕の振りを止め、右足をどん、と地面に下ろし、踏み止まると、物凄い速さで前後左右を見渡し、踏み出した右足を引くと、そのまま地面を蹴った。
この間、ほんの数秒。
ソニックボールが前後左右上下から迫り、至近の右側からアルミス、左側からセツエイが迫る。
クララは目まぐるしい展開に、一瞬緑の魔人を見失った。
後方から、司書が大声で叫ぶ。
「アイリ殿!」
クララが振り返って司書を見ると、司書は人差し指で右を差し、それから天に向かって腕を伸ばした。
クララが先ほどまで緑の魔人が居たところに視線を戻すと、丁度ソニックボールがぶつかり合った。
一瞬空気が凝縮し、そして弾ける。
地面を波立たせながら、流れてきた空気の波が、クララの髪をなびかせた。
クララはソニックボールがぶつかりあって消滅した地点から、右上を見る。
すると、そこには緑の魔人。
そして、もうすでにアイリの放った矢が、緑の魔人めがけて空気を切り裂いている所だった。当たる。
まさにその時、緑の魔人は、ぐいっと体をひねらせ、空中で右肩を突き出した。かっ、という甲高い音は一瞬。
アイリの放った矢は、緑の魔人の右肩に深々と飲み込まれていった。緑の魔人は、矢の刺さった部分を押さえたまま、地面に膝から落ちた。どん、と鈍い音がして、埃が舞った。
この間、ほんの数十秒。一連の流れが終わり、場は、静寂に包まれた。一番先に動いたのは、緑の魔人の近くにいた、アルミスとセツエイだった。
二人とも、棒立ちだったのだが、はっとしたように、緑の魔人に駆け寄ろうとする。その間を割って、シンベルグが中空からふわりと舞い降りると、両手を広げ、二人を止めた。
「フフフ」と地の底から湧き起こるような笑い声がすると、緑の魔人がすくっ、と立ち上がる。先ほど声を聞いたときほど、腰にくるものはないが、それでも、クララは足が萎えるのを感じた。
緑の魔人は、右肩から矢を引き抜くと―血が吹き出るかと思ったが、実際には、緑色に発光する、ドロリとした液体が流れ出た―ぽいっ、と地面に投げ捨てる。
そして、首を二、三回横に振ると、激しい勢いでその場で地団駄を踏んだ。
皆、後ずさる。
クララまで、けっこう距離があるが、クララもその場で後ずさった。
「フフフ」
地団駄を止めずに笑い声が聞こえる。その声はだんだん大きくなり、「フフフ」という笑い声から、「ハハハハハ」という哄笑に変わった。
唐突に笑い声が止み、緑の魔人が一際大きく足を振り上げ、地面に振り落とした。
と、爆転するようにそのまま後方に跳びあがり、吸い込まれるように森の方の闇へと消えていった。
後には、静寂だけが残った。
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