1日目 侵食
1-4「窓」
知っているかい?窓は希望のキワードなんだぜ。
<ファルス南方騎士団長オルベロス>
冷気、と言おうか、早春の風、と言おうか。
外気が肌をくすぐる気配で眼が醒めた。
空気の重さから言うと、まだ朝早い。
少し、湿った匂いがする。
春の風は好きだ。
希望の匂いがする。
クララは、ゆっくりと目を開いた。
正面奥の窓が開け放たれて、カーテンが微かに揺れている。
眩しくはない。
どうも、少し霧が出ているようだ。
自分が最後かな、と思い、上半身だけ寝床から起こして辺りを見渡すと、少し離れた場所で、少年―トーマ―が見事なまでに弛緩した顔で寝ている。
少年以外の皆は見当たらない。
静かに起き上がって、囲炉裏のある部屋を覗くと、囲炉裏の周りには、老魔導士が座っていた。
その向こうの窓際に、キーラと司書が立って、外を見ている。
司書は意外に身長がある。
アルミスと同じくらいか。
しかも、意外と髪も長い。
昨日は、図書館の制服の中にでもしまいこんでいたのだろう―気がつかなかったが―背中の中ほど辺りまである。
ダークグレイの髪の司書が右、艶のあるしっとりとしているが、どこか軽やかな紫の髪の司祭が左に立ち、窓から乳白色の世界を見ている様は、なかなか絵になる美しさだった。
クララは自分の髪を指先でつまむと、軽く溜息を吐いた。
昔軽やかなグリーンだった髪は、ここ数年で、急速に色濃くなってきている。
枝毛もひどいし、ひどくぱさつく。
もう一度、今度は鼻から溜息を吐くと、おはようございます、と言って、窓に向かって歩き出す。
老魔導士は、軽く頷いた。
キーラと、司書は―その順に―振り返って「おはよう」と言った。
二人が何を見ていたかは、大方予想がつく。
二人の丁度真ん中―窓の丁度真ん中―に辿り着くと、外を覗いた。
案の定、アルミスの朝の日課だった。
そろそろ終盤だ。
いいタイミングで起きたことになる。
少し離れて、アイリが贖罪の門の方を見ている。
霧は―重さを感じるほど―淀んでいる感じで蠢いている。
贖罪の門は、周囲の外壁は霧に覆われているが、門扉だけは、なぜかはっきりと見える。
まるで、乳白色の海に浮いているようだ。
クララは、ぞくっ、と悪寒がして、窓から離れ、囲炉裏の火にあたる。
この火も魔法で点けたのかな、などとぼんやり考えていると、入口から、アルミスとアイリが入ってきた。
気配を感じて振り向くと、トーマが片手で目をこすり、片手で背を掻きながら突っ立っていた。
全員揃った訳だ。
朝食な訳だ。
クララは自分がひどく空腹なことに気づいていた。
油断すれば、お腹の音が聞こえてしまう―乙女としては致命的だ―ほどに。
それを知ってか知らずか、朝食の用意は、ほとんどキーラとアイリがやってくれた。
クララは言われるままに、水を注いでまわっただけだった。
駄目な娘と思われるかなぁ、とも思ったが、まあ、挽回のチャンスはあるだろう、とも思ったので、気にしないことにした。
その間、アルミスと、老魔導士は、今日の予定について、なにか言い交している。
それに時折、司書が茶々を入れ、トーマがびっくりした様子で司書を見る。
ほどなくして、食事が始まった。
食べる時には、皆、あまり話さない。
食事に集中していたせいか、あっという間に食べ終わった。
「それじゃあ」とアルミスが言った。
「生憎の天候だが、一時間後に出発する」
そういえば、誰が仕切るか決まっていなかったような、と思い出したが、まあ、アルミスで問題ないのだろう。
皆銘々頷いている。
いや、独りだけ、横に首を振った。
司書だけが。
アルミスは怪訝そうな顔で、司書を見やる。
司書は澄ました顔で、「午後にしましょう。全てのパーティーが門を越えたころ、出発しましょう」と言った。
「なぜだ?」
アルミスが怪訝そうに聞いた。
「私は司書です。このパーティーに置ける、私の役目は、知っている限りの知識を使うことにある、そう、思っています。」
いつもの冗談ではなさそうだ。
いつになく真剣な面持ちは、聞く者に否定をさせない強さがあった。
「小出しにするわけではありませんが、侵食についてすべてをここで話すのは、時間が許さないでしょう。なので、都度つどになるとは思うのですが、私は侵食について、知っていることを、みなさんに伝えます。今は、門の入り方についてです。門自体は、持ってきている地図に載っている限り、5mほどの厚みがあり、500m続きます。これには、さほどの意味もありません。よくある国境の門より少し大きいという程度でしかない。問題は、間違いなく、門を抜けた先に、あるいは、もう途中かもしれませんが、闇に生きるモノ達が、待ち伏せている、ということです」
司書は続ける。
「今回の侵食が起きてから三か月。私は侵食に関するあらゆる書物を紐解きました。その内のひとつ、300年前の侵食に関する、『侵食にみる戦略指南』という書物に、門を抜けた先で、多くの屍が築かれた、という記述を見つけたのです」
みな押し黙って聞いている。
それぞれが、それぞれの思惑なり、実力なりで侵食に臨んだのであろうが、侵食について、それほど情報がないのも、また事実。
侵食を経験した人間など、もういないのだ。
「侵食は、みなさん御存じの通り、闇の世界の一部が、人間界に極めて大規模に出現することを言います。正確に言うと、闇の世界の空気が、なんらかの理由で我々の世界に漏れ出し、そのために、人間界の空気では生きられず、闇の世界の空気、細かい成分については、解明されていませんが、本来その空気でしか呼吸出来ない生き物群が、人間界に現れる、ことを言います。もちろん、小規模な漏れは、度々起こりますが、百年に一度、大規模な漏れ、すなわち侵食が起こるわけです」
司書は手元の珈琲をすする。
そして、続ける。
「侵食には拡大性があります。これは、闇の空気が、少しずつ広がっていくことを意味します。闇の空気は、比重というのでしょうか、それがとても重く、一瞬で拡散する性質のものではないことも意味します。一説によると、壁や、建物、城壁や、砦、家屋などを前にすると、途端に侵食の速度は落ちるらしい。さて、それでは、今回の侵食はどこまで進んでいるのか。我々の世界のどこまでが侵食されているのか。その境目、専門家は明暗境界線と呼びますが、それが今どの辺りかといいますと」司書がガサガサッと、音を立てて、ブリリアントパーク国一帯と、城塞都市ディスペック―地図の最下部辺りにある―周辺の地図を出した。そして、神魔器とされる巾着から、羽根付きのペンを取り出すと、ブリリアントパーク国の最深部、国都カシュワルク城から、等間隔に三本の線を引いた。
「正確な侵食の速さは、記録がないので分かりません。気温、湿度、建築物の数、風向き、そういうものにも左右されるので、必ずしも一定ではないらしいのです。ただ、様々な文献によると、細かい引用は差し控えますが、おそらく、最大で、一日2キロメートルほど進むようです。つまり」ペン先で地図のカシュワルク城を指す。「侵食についての第一報が、カシュワルクの城から発せられたのがおよそ三か月前」三本の線の内、カシュワルク城から一番近い線をなぞる。「一か月後が、ここ、カシュワルクから50キロメートル地点、ゴードン王の墓所」続いて三本線の真ん中をなぞる。「二か月後がここ。百日砦。カシュワルクから、100キロメートル地点です。」そして、最後に、三本目の線上、国境の門を指した。
「そして、今は三か月後。ここ、ニューフィールドの門。カシュワルクから150キロメートル地点に境界線がある、と思われます。カシュワルク城から門までは両脇を大きな山脈に囲まれているため、現時点で横に広がることはないでしょう」
贖罪の門はどこですか?とクララは聞いた。
皆―驚いたことに少年も―びっくりしたように、クララを見る。
この反応には慣れていた。
慣れても恥ずかしいことには変わりないが。
どうやら、無知ぶりを披露したらしい。
アイリが指を差しながら「あの門よ」と窓から見える―依然乳白色の海に浮いているようだ―と言った。
クララは、分かったふりをするべきかどうか迷ったが、思い切って、司書を見つめた。
司書は、軽く頷くとそれに応えた。
「違います、いえ、あってはいるのですが、クララ殿が聞きたい答えではないようです、アイリ殿。我々がずっと、ブリリアントパークと、ディスペックの国境の門、ニューフィールドの門を、ならわしに従って、贖罪の門と呼んでいたので、クララ殿は、あの門の名前が、贖罪の門だと思っていた、とこういうことですよね、クララ殿」
そう、その通りである。
クララは音がするほど、首を縦に振った。
「あの門は、はるか昔から、ニューフィールドの門です。但し、侵食の起きた国と、他の国との間にある門を、これまた昔から―なぜかは諸説ありますが―贖罪の門、と呼んでいるのです」
そのあたりは、今度ゆっくり、と司書は言って、話を元に戻した。
「それで、話を元に戻しますと、門を侵食が越えるのは、おそらく一週間はかかるでしょう。つまり、先ほども述べたように、侵食の最前線が、ここで停滞している状態です。さて、そこまではご理解いただいたとして、次に、なぜ時間をずらして門の内側へ向かうのか、ということですが」と言って、チラとアルミスを見る。
「危険だからだな」
アルミスが応えた。
話は、最初から変わっていないが、理解が変わったようだ。
嬉しそうに、司書が頷く。
「そうです。当然、闇に生きるモノ達も、この事実に気づいているはず。一般的に、闇の最前線には、闇のモノの中でも、下等な生き物が多い、とは言います。まあ、これは、闇の空気の濃度の問題ですが。しかし、停滞している状態では、そこそこ、知性なり、力を持ったモノも、すでに最前線に追い付いている可能性があるのです。そういうモノ達の中に、待ち伏せ、という概念を持った、あるいは、戦略を発揮できる知能を持っているモノがいたら…」今度は老魔導士を見る。
「門から入ってくる人間を、待ち伏せして根絶やしにしようとするだろうな」
微動だにせず、老魔導士が応えた。
またまた司書は嬉しそうだ。
「そうです。それに、停滞している、ということは、詰まっている状態とも考えられます。ですから、対侵食の心得、その一としては…」今度は少年を見る。
少年は、油断していたのか、固まったあと、左右を見渡した。
「いち早く入るか、今回のように、出遅れた時点、つまり門で侵食が停滞している時点では、一番最後、つまり、もう、全ての人間が門を越えた、と思わせたあとに門を通過する、のが良い、ということですね」
少年の代わりに、キーラが感心したように答えた。
司書は満足気に頷いた。
クララにも、話が掴めた。
そして、司書を見直した。
人は、話してみないと分からないものだ。
「どのくらい待って入ればいいんですか?」
アイリが司書に聞く。
「もう、残っているパーティーは我々だけです。最後のパーティーもさっき発ったのが見えました。おそらく、あちら側で待ち伏せしているとしても、少しずつ、門を通る人間が少なくなっているのに、気付いているでしょう。理性にしろ、本能にしろ。それに、戦闘も、門の辺りだけではなく、侵食のあちこちに広がっているはず。そう考えると、開き直って、夕方発っても良いかと思われます」
そう締めくくると、司書は全員を見渡して、ひとつ頷いた。
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