第三話

「アンタ、二週間以上も行方不明だったのよ!」


ベッドで母親に抱きしめられて、両親と祖父母の泣き顔を見た。


それはあまりに現実感がない光景だったから。

ろくに働かない頭で、両親二人ともに仕事休ませて迷惑かけたな、と。そんなことを考えていた。


「どこ探しても見つからなくて……。アンタ、どこ行って、何してたの!?」


分からなかった。

記憶は靄がかかったように曖昧だった。


「ごめん。何も思い出せない……」


きっと何か大きな出来事があったのだ。だけどそれは濃い霧の奥に隠されてしまっていて。

記憶ごと感情が消えてしまったみたいに、胸の中が空っぽで心が動かなかった。


「……海斗くんも混乱しているみたいなので、いったん皆さんは病室から出ましょうか」


「はい……」


「海斗。とりあえず無事で良かった。あとで話は聞くから、今はゆっくりしてなさい」


医者らしき人物に促され、両親と祖父母が部屋を出た。


「海斗くん。きみの体だけど」


「……はい」


「体力は多少落ちているかもしれないけれど、大きな外傷は特にないね。記憶障害になるような脳の怪我もなし」


「そうですか」


なら、なぜ記憶は抜けているのか。


そう訝しむけれど。

俺にとっては医者というものは何かを解決してくれるものではないことを思い出して、口をつぐむ。


「まあ、思春期だから色々あるだろうけどさ。落ち着いたら親御さんを安心させてあげなさい。

それまではテレビでも見てればいいから」


リモコンを操作してテレビをつけて、医者は病室から出ていった。


年代物の分厚いテレビが騒ぎだす。

うるさいな、と。主電源を落としてやろうと身を起こして。

それを目にした。


「--高校! --! 速い速い! 三人抜き! 男子メドレーリレー、最終日は大きな波乱が巻き起こりました!」


日本高等学校選手権水泳競技大会。

通称、インハイ。


去年、出場した大会を思い出す。


期待の新星などと持てはやされて調子に乗って。期待に応えるためだなんて空回りして。

結局オーバーワークで先輩たちの夢もぶち壊した、馬鹿な自分を思い出す。


右腕を上に真っ直ぐ伸ばす。痛みが俺を襲ってくると思ったから。


だけど。


右腕をいくら伸ばしても。右肩をいくら全力で回しても。

痛みが襲うことはなかった。


瞬間、感情が溢れた。

それはなぜか喜びではなく寂しさで。


予想外の感情に耐えきれなくて、思わず自分の肩を抱きしめる。

強く、強く握りしめても痛みは走らない。直接確かめようと寝間着の中に手を入れて。


がさり、と。硬くて乾いた何かに触れた。

それは指の先ほどの大きさで、かたちは丸。

近くを撫ぜれば少し離れたところにもう一つ、同じような感触があった。


かさぶただ。

右肩に口付けられて、噛み付かれた痕の。


陽子。

陽子、陽子、陽子。


指先で触れるたびに鋭い痛みが走る。

陽子の口づけを思い出す。


記憶の霞が晴れていく。


ともに泳いだ記憶。あの日溺れたときに助けられたこと。夢で見た龍。毎晩、混濁した意識の中で、望みの対価として陽子に生をさしだしたこと。


望みを叶えてもらうたびに、繋がるたびに。

ただ、ともにいる時間の果てに。

知っていったあの人は、心の中にどうしようもなく溢れていた。


そして最後の言葉を思い出す。


『わたしも、わたしを頑張るから』


陽子は龍だった。

そして今、また天に挑もうとしている。

俺の命はそのために必要だったはずなのに。

なのに、俺の命も枯らさず、痛みすら消して五体満足に解放して。

足りないはずの力で、一人で空に行こうとしている。


そうしたら、どうなるのか。


ベッドから飛び起きて駆け出した。

寝間着を着たまま、病院のスリッパを履いて島を走った。

夢で見た記憶。陽子が落ちる際に見た島の形を頼りに、あの神社と浜辺を目指してく。


体が軽かった。

枯れかけた命で無理矢理に動いていたときよりずっと。


医者の態度の理由も分かる。ただの家出扱いだったのだろう。何しろ行方不明だったはずのガキがピンシャンしているのだから。


だけど、それは。

陽子が俺に命を返したということだ。


焦燥と衝動が命じるままに走り続けて神社に辿り着く。

石階段を一段飛ばしで駆け上がり、裏の鳥居を抜けて。


たどり着いた浜辺は、そこだけ別世界のような嵐に包まれていた。


空には黒い雲が垂れ込めて、大粒の雨が叩きつけるように降っている。

反対に海面からはごうごうと逆巻く渦が立ち上っていた。

それはまるで水でできた龍のようで。

その先端は崖よりも遥かに高い位置にあった。


その、龍の頭にあたるところ。遥か高く雲と海の間に、陽子はいた。


目が離せずに息を呑む。


大丈夫なのか。杞憂だったのか。俺を生かしてもまだ足りたのか。


けれど、世界はそんなに優しくなくて。


ほどけていく。立ち昇る渦の海面近く。雨が当たるたびに削れて抉れていく。


駆け出した。

坂を滑り落ちて、砂を蹴る。

そして。


陽子の体が傾いた。

崩れた水の龍とともに落ちていく。海の中へ吸い込まれる。


波は高く、荒れ果てたまま。

陽子はまるで水面に浮いた落ち葉みたいに、ただただ翻弄されている。


あのときとは違う。

流れるように潜水に繋げたらしきあの日とは。


着の身着のままで飛び込んだ。

そのまま、陽子を目指し水をかく。


濡れた服が重い。

泳ぎは理想的なフォームからかけ離れて、前に進むだけで精一杯だ。

体を水平にすることすら出来ずに、手と足を無茶苦茶に動かしていく。


だけど。

それがなんだと言うのか。


右肩に痛みを走らせずに体は確かに動く。

それだけで十分だった。

陽子のもとに行く理由も。陽子のもとに行くために必要な泳ぎとしても。


僅かずつ進んでいって。

そして崖の下にたどり着く。


陽子。

陽子は目を閉じたまま、青白い顔をしていた。

小さく開いた口から水が容赦なく入り込んでいく。


抱き寄せて、背負いこむ。

陽子に酸素が必要かどうかは分からない。それでも、このままの格好で放っておくことなどできるわけなかった。


陽子は軽かった。

背負っても体がほとんど沈まないほどに。

肩口から前に通した陽子の両腕を右手で押さえ、残る左手で水をかく。


体勢は更に崩れ、半ば波に流されるようにしながら、岩場にだけは叩きつけられないように両足で水を蹴り続けた。


どれくらい泳いでいただろうか。

息も絶え絶えになったところで、やっと。

足裏が砂を捉えた。


少しずつ水から上がっていって、少しずつ陽子の体重を感じていく。

けれどその体は冷たくて。


「陽子。陽子っ!」


砂浜に横たえて呼びかけても、応えはない。

陽子は息をしていなかった。


人なら。相手が人ならば心肺蘇生を試みるべきだ。けれど、陽子はそうではなくて。

別の。失われた力を満たすものが必要だった。


自分の舌の端を噛んで血を出した。口づけて、唾液とともに流し込む。


舌同士を絡ませて、陽子の唾液に命を混ぜて送り込み、彼女の糧となるようただ祈った。


続けて。続けて。

酸欠でぼうっとしていく。

陽子はよく長いこと口づけをできたな、なんて別れたときのことを思い出した。


そのとき。

強く舌を吸われた。

貪るように血と命を求められて。


がくっと。肩から背中にかけて重いものがのしかかったみたいな圧迫感に襲われる。

倦怠感は加速度的に増していき、意識も白く濁っていって。


だけど意識は手放すまい。


そう心に決めて目を見開いた。

捧げるために、与えるためにここにいるのだから。

意識がとんで、陽子が助からないなんてことは万が一にも嫌だった。


そしてひときわ、強く求められる。

逆らわず、差し出して。


ぱちり、と。陽子の目が開いた。

視線が交わされて、口をゆっくりと離す。


何を言うべきか迷って。


「おはよう。陽子」


いつもの台詞を口にした。


陽子は驚いたように目を丸くして。


「……ばか」


とだけ囁いた。


-◆-


体育座りで海を眺めた。

ざざーん、ざざーんと波の音が繰り返して。

まるで、ゆりかごのような時間を二人で過ごした。


「俺じゃあ望みの代わりになれないか」


ぽつり呟いた言葉に驚いたのは自分自身だった。その感情の出所を自覚して。


俺は。

陽子が傷つくことより、陽子が一人でいることより。俺が陽子のそばにいれないことが、どうしようもなく嫌だったから。


ここに、来たのだ。


「楽しかったんだ。遊んだこともそうだけど、速く泳ぐことだって。

義務感と焦りに埋め尽くされた俺に、陽子、きみが。楽しさを思い出させてくれた」


だから。

なにをしても。どれほどのことをしても。

陽子が一緒じゃないと、意味がない。


「一緒にいたいんだ。

夢も、命も。きみのためなら全部、何一つだって惜しくはない」


瞳を見つめて、心の全てを真っ直ぐにぶつけた。

だから。


「……ね。勝負しようか。いつもみたいにさ」


視線を海に戻されて、こちらを見ずに告げられた言葉は、きっと俺の願いに対する陽子の答えだった。


「海斗が勝ったら、海斗が望むようにしてあげる。……あたしが勝ったら」


「勝ったら?」


「あたしの好きにする」


瞳の奥が光った気がした。

それは縦に細められていて、龍の瞳孔じみている。


ごくりと喉が鳴った。


もし敗れたならば。

今度こそ、記憶は粉々に破壊されて陽子を思い出せることはないだろう。


そんな有無を言わせない圧力があった。

だから。


「わかった。全力で」


「うん。全力で」


陽子から返された命の、その半分。陽子に与えた残り。

その全てで、きみに挑むと陽子に告げた。


-◆-


「「ていくゆあまーく・テイクユアマーク」」


「「ごーっ! ・ ゴーッ!」」


合図とともに走り出す。

水面が腰に来るまで駆けきって、飛び込みの要領で体を水に包ませる。


陽子とタイミングはほぼ同時。勝負はここからだ。


間髪入れずにクロールの体勢に整える。


そして。

全身が水を捉えた。

両腕のストロークとともに両足のビートを刻む。


右の掌と足が寸分違わないタイミングで水を捕まえて。

水を引く、蹴るの二つの動きが連動し、一気に後ろへ水を送る。

右の掌が脇腹を通過していく最中、左足で水を捉えなおす。

水を押す力を妨害しないよう気持ち抑え目に水を蹴り、体を前に進ませる。

片腕のストロークの最後。右手が水面から上がる瞬間に再び右足で水を捉えて。

右手を前に戻しながら、右足で水を蹴った。


反対側も自然に。体はイメージについていく。


自分の中にくすぶり続けていた最速のイメージが、今。

実体を伴ってここにあった。


折り返し地点にたどり着く。

そこは思っていたよりずっと近く、体はまだまだ動く実感があった。


加速する。

限界の想像を超えて、ストロークのテンポが増していく。

全身の筋肉が主張するままに、捉える水を増していく。


もっと速くなれる。俺は。


もっと。

もっと、もっと、もっと。

速くなりたい。


心も体も加速していって。


ずしゃり、と手が砂に埋まった。

浜辺に打ち上げられるように、ゴールしていた。


興奮は急激に冷やされて、ゆっくりと立ち上がる。

見渡しても、浜辺には立っている人はなく。

沖の方。

この場所と折り返し地点、その真ん中あたりに陽子が泳いでいるのが見えた。


-◆-


自然に。

いつもそうしていたように。


浜岸にたどり着いた陽子の手を取り、波が届かないところまで二人で歩いた。

手頃なところに腰掛けて、波が打ち寄せる様子をただ眺める。


文句が付けられないほどに勝っていた。


だから俺が望むようにできる。

そういう約束だった。


「……捨てられないよね? 夢は、さ」


隣で囁かれた言葉はどうしようもなく真実だった。

さっきの泳ぎの最中。陽子のことも競争のことも、全てを忘れた時間は確かにあって。

夢は、喜びは。確かに消せないほどに胸の中にあった。

いくら隠しても、しまっていても。たちまちに燃え上がる熱量を持って、そこにあった。


「素直だね、きみは。素直で、真っ直ぐだ。

そんなきみがいると知っているから、あたしも空を泳ぐ夢を思い出す」


でも、だけど。それでも。


「きみが好きだ。陽子」


この気持ちだって本当なんだ。


「あたしもきみが好きだよ。海斗。

もしあたしが勝ったら、今度は手放さずに何もかも忘れて溶け合いたいと思うくらいに。好き、だった」


そっと口づけられて。

触れただけの唇は、けれど燃えるように熱く。

少しだけ塩の味がした。


今までのどんなキスより、淡く柔らかなものだったのに、ずっとずっと。

離れていく唇は胸を強く、強く締め付けた。


「さよなら。きみはきみを頑張って」


微笑んで。立ち上がって駆けて、海の中に消えていく。

陽子はもう、こちらを振り向かなかった。


それが、どうしても耐えられない。


死ぬことより、泳げないことより、一緒にいられないことより。

このまま寂しそうな笑顔をした彼女をここに残していくなんて結末が、どうしようもなく耐えられなかった。


だったら、何をすべきか。


思い起こす。

初めて出会った日。遊んだ日々。今日の出来事。


考える。

俺が俺のまま、夢を叶える俺でいながら、陽子が空に行くために出来ること。


あがる水しぶき。立ち昇る龍。

崖。


ふ、と。

思いつきは唐突に。けれど何か確信めいた閃きをもって脳裏に閃いた。


砂浜を全力で駆け抜ける。


荒唐無稽で、上手くいく保証なんてかけらもない。

だけどこの俺が全力で出来ることがあった。


崖上に辿り着く。そこは海面から想像していたよりずっと高かった。


「陽子ーっ! 好きだーっ!」


叫んだ。せめて合図となるように。


水面に向かった声は吸い込まれて消えていく。さよならをしたから、陽子はもう答えない。


だけど。


後ずさる。助走をつけるために。

ぐん、ぐんと。駆けて。大地を蹴って、ふわり浮いて。


「飛べーっ!陽子ーっ!」


叫んだ。落下する質量は陽子に捧げる俺の全て。

水面に体を叩きつけ、全力で陽子にタッチを繋ぐ。上がる水しぶきによって、しずくを空へ。


痛みが遅いかかる。押しのけながら、体は水に包まれて。

けれど沈んでいくのはわずかな時間だけだった。


周りごと、渦を巻いた水流に押し上げられる。

体はいつのまにか水面の上。


渦。俺の周りを囲んだ水の龍は水しぶきを足掛かりにずっと上に伸びていく。


きっと。遥か天の彼方まで。


だって。


空には太陽があると分かるのだ。

ずっと重く垂れ込んでいた雨雲は、立ち昇る龍に吹き飛ばされて。


ほどけて、散らばる水の欠片は陽光できらめいたから。


陽子はきっと空に戻って。

望みを叶えたのだと、わかった。

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