第二話

浜辺を歩いていく。

どうしてこうしているのか。頭の中は霞がかかったように曖昧だ。

しばらく歩いていると、陽子がぽつんと一人で立っていた。


陽子は島に来てから出会った女の子、のはずだ。


「おはよう。海斗」


挨拶に応えるようにシャツをずらして肩を出す。

陽子はごく自然に近づいて、かぷりと。俺の肩に口を付けた。

軽く鋭い痛みがあって、すぅっと。頭の中のもやが晴れていく。


「おはよう、陽子」


挨拶に満足したのか。陽子はつつ、と離れて一回転。向かい直って問いかけてきた。


「どうする? 泳ぎたい?」


泳ぐ。その行為には何故か恐怖を覚えた。ずっと昔は楽しんでいたような気がするのだけど。


「まだ怖い? じゃあ浜辺で遊ぼうか」


何がいいかなー、と視線を上に泳がせる陽子に、申し訳なく思う。

目の前にはこんなに綺麗な海が凪いでいて、泳ぐと本当に気持ち良さそうなのに。


「よし、じゃあ鬼ごっこしよ! いーち、にーい、さーん……」


太陽みたいな笑顔を向けられて、思わず呆気に取られてしまう。

改めて見てみれば、長い黒髪が白い襦袢に映えていて、とても綺麗だった。

ゆっくりと時間を数える仕草は少し幼くてみえて、なんだかちょっとあべこべだ。


「きゅー、じゅーっ!

……もー、ちゃんと逃げなよー。はい、捕まえた」


とん、と。柔らかな指先でシャツ越しに胸元を触れられる。


「ちゃんと10数えてから追いかけるんだよ!」


駆けていく。こちらが動かないことなど毛ほども考えてないみたいに。


その背中を目掛けて少しずつ加速する。タッチには応えるべきだと、なんとなく思ったから。


砂地に足を取られるけれど、それは相手も同じ。リズムよく呼吸を整えて本気を出せば、ちょっとずつ陽子のリードは削れていった。


「は、はやーいっ!」


迫る気配を察したのか叫ばれれた。狩猟本能じみた感情が加速する。

そのまま背中に手を伸ばし。


「っとう!」


後ろに目でも付いてるかのようにしゃがまれて躱された。

勢いあまってつんのめる。その隙に陽子は反転しながら逃げていった。


「ふっふー! 鬼さんこちらー!」


ばしゃばしゃと。海岸沿いを水を踏みしめて挑発するように遠ざかる。


……。


「待てやおらーっ!」


「きゃーっ!」


そうやって、二人で馬鹿みたいに音を立てながら駆けていく。


陽子は水のあるところで動くのが得意だった。足首が浸かる程度の深さでは俺の方が速かったけれど、膝もとの深さでは同じくらい。

腹が浸かるまで深くなれば、陽子の速さは圧倒的だった。飛び跳ねながら、手で水をかいて加速して手がつけられない。


ぜえぜぇと肩で息を吐く。


「もうへばっちゃうのー?」


余裕で逃げ切れると判断したのか、陽子がざばざばと水をかき分けて近づいてきた。


それは流石に悔しくて。

跳ねて、飛びかかる。


「わっ、わわっ!」


僅か。指先が襦袢に掠る間際まで迫ったけれど、後ろに飛んで避けられた。


体は空振りのまま、水面にダイブする。

顔と体は水中に沈んでいき、そして。


体は水平になっていた。

それが、妙に馴染む。


……何が怖かったんだろう。

体はこんなにも水を喜んでいて、全力で前にいこうと誘ってきてるのに。


赴くまま。右肩を回して水をかく。全身は一気に加速して。


とん、と。

陽子に追いついていた。


-◆-


そうやって日が暮れるまで泳いで遊んだ。

海はもうオレンジ色に染まり、小さく揺れる太陽がきらめいている。


「今日は楽しかった?」


「ああ、すごく楽しかった」


「泳げて、満足した?」


どきりとした。

波の音が響いていて、まだ海はそこにあったから。


「泳げて楽しかった。

今日はもう遅いから。これ以上は明日にするよ」


足りないというのは何だか申し訳ない気がして、曖昧に言葉を濁した。

シャツをずらして肩を出す。


「そっか。じゃあ、また明日」


陽子はごく自然に近づいて、かぷりと俺の肩に口を付けた。

軽く痛みがあって、すぅっと意識がぼやけていく。


そして、その夜。

龍の夢を見た。


-◆-


毎日を繰り返す。


朝、陽子の口付けを受けて意識が晴れると、夕方まで思い切り海で遊んだ。


陽子は泳ぐことも得意で、沖の方まで競争すると勝率は半々くらいだった。お互い結構ムキになるタチで、一日中競争していた日もあるくらいだ。


いつのまにか自然に、競争で負けた方が食べ物の調達や料理をすることになった。


海に潜れば、色とりどりの魚やちょっとグロい貝が取れて。特に抉れたように水深が深くなっている入り江の先の崖下では、でかい鯛みたいな魚も取れた。

だから林の枯れ枝を集めて火を起こすだけで、新鮮な海の幸が食べ放題だった。


夕方、陽子は俺の右肩に口付ける。

なぜ朝と夕方そうするのか。疑問はときどき湧くけれど、曖昧な意識とともにそれは消えていって。


そしてまた、今日も龍の夢を見る。


-◆-


龍。遥か天にあって空を泳いでいたもの。

けれど夢の中の龍は今、海の中にいた。


空から落ちたのだ。

心が望むまま、体が赴くままに速く、速く。

音さえも置き去りにして空を泳ぎ続けた龍は、ある日突然。

その大願に器が耐えきれなくなって、この島に落ちた。


山を削り、浜を作り、崖を抉り尽くしてようやく龍は止まったけれど。その身に刻まれた傷は、飛び立つ力を完全に奪っていた。


それでも龍は空を目指す。

人の願いを叶えた対価の供物で傷を癒し、力を溜めて何度も何度も空を目指す。

そして、そのたびに落ちて傷を増す。


繰り返す。繰り返す。


そうした飛翔がおおよそ百を超えたとき。

龍は人から姿を消して、空を諦めた。


それからずっと。時は加速して流れていった。朝と夜。春と夏、秋と冬が空の模様を変えながら、龍には何の変化ももたらさずに過ぎていく。


崖の上から見る空は遠く。龍はもう立ち昇らなかった。


-◆-


陽子の口づけを肩に受け、意識がはっきりと戻ってくる。


今日は何日だろうか。いつもは気にならない日付が妙に気になった。

なぜだか、無性に泳ぎたい気分が溢れてくる。


「今日も競争する?」


「いや、今日は……。もしよかったら、タイム測ってくれないかな」


「タイム?」


「えっと、いつもの競争コースを泳ぐからさ。行って帰るまでの時間、数えてて欲しいんだ」


流石にダメだろうか。陽子にとっては完全につまらないだろうし。


「……良いよ。数えててあげる」


けれど返ってきた反応は、予想に反して優しい笑顔だった。


「それじゃあ、いつやる?」


できれば今すぐ。でもその前に。


「準備運動したら始めたい」


「それじゃあ、それは一緒にやろっか!」


トントン拍子で進んでいく。

最近は妙に体がだるく、水をかくのにも力が入りづらい。せめて柔軟だけはしっかりとしておかないと。


基礎的な屈伸などを、二人で順番に声を出しながらこなしていく。

手を引っ張り合い、背中を合わせて伸ばし合う。

ぐるぐると肩を回して、そのスピードを競い合えば、いつのまにか二人で笑っていた。


そうやって準備運動を終わらせて。

そして、位置につく。


「よーい、どんっ!」


合図とともに走り出す。

すぐさま水は深くなって、体は浮遊感に包まれる。顔を下に向けて腕を前に出せば、いつものクロールの体勢になっていた。


腿に力を込めて水を蹴る。

手の平で水を捉えて体を前に。役目を終えた腕は、肘を最初に水から抜いて、指先でまっすぐ空を切る。両手はそれらを半周ずらしてリズムよく、テンポよく。


繰り返すたびに前へ行く。

泳ぐこと。慣れた動きの繰り返しが、本当に楽しくて仕方ない。


もっと速く、もっと先へ。

心が望むまま、体が赴くままに速く、先へ先へと泳いでいって。


突如、崩れた。

イメージと動きが離れていく。


重さに耐えかねた両手は水を逃し、酸素を求める頭が息継ぎのたびに姿勢を乱していく。


俺の泳ぎはこんなものだったろうか。もっと、もっと。速く行けると体と心は叫んでいるのに。


それでも、何とかもがくように体を前に進ませて。


結局。ひどくもどかしい気持ちのままに泳ぎ切り、砂浜に打ち上げられたみたいに倒れこんだ。


ぜいぜいと息を吐く。

その横に、陽子が座り込んだ。


「……お疲れさま。よんひゃくじゅうなな、だったよ」


417秒。

おおよそ100mの往復でかかったタイムとしては話にもならない。


その、誰と比べる訳でもないタイムを聞いた悔しさで、思い知る。

楽しいだけでは満足できなくて。思うがままの泳ぎじゃなければ満たされない、なんて。

ひどく傲慢で強欲な願いが、俺の真ん中にあるものだった。


「これからどうしたい?

……崖の反対側とか行ってなかったよね。あっちにも綺麗な魚がいるんだよ」


気を遣われて、優しい言葉をかけられて。


それは。きっと楽しいと思う。

魚が海の中できらきらと輝くのも、貝が殻をパタパタと動かして泳ぐのも。楽しいことは全部、陽子が教えてくれたから。


だけど。


「ごめん。今日は……」


ずっと、ずっと。速く、速く。

全力で泳ぎたかった。


「そっか。……良いよ。気の済むまで付き合ってあげる」


-◆-


それから太陽が暮れ始めるまで、ずっと。

休憩と昼食を挟みながら泳ぎ続けた。


「ッ、ハァッ、ハァッ」


「よんひゃくさんじゅうに、だったよ」


432秒。

延々と繰り返して、付き合わせて。

結局、満足なタイムが出ることはなかった。

実力が急に変わることなんてあるはずないのだから、当たり前の結果だけれど。

それでも、どうしようもなく不甲斐なくて悔しかった。


もう一度。もう一度、泳ごう。

全身に乳酸が溜まって痛いけれど。疲労感は体を重くするけれど。

この衝動に勝るものではないのだから。


肘をつき、力を込める。

上半身は僅かに浮き上がって。

どしゃり、と。

耐えきれずに砂浜の上で潰れて伏した。


……顔が濡れていて良かった。

半泣きでも、陽子にバレないだろうから。


けれど。


「海斗は凄いね」


予想外に褒められて驚いて。

体ごと、声の主を見上げてしまう。


顔の真上には、座ってこちらを見下ろす陽子の顔があった。

横から夕陽に照らされて、薄くオレンジに色づいている。


黒く深く艶めく瞳。細いまつげ。

すらっと小さく伸びた鼻。

ぷっくりと柔らかく主張するくちびる。


そのどれもが、綺麗だった。


「きみはいつだって自分のあり方を忘れない。わたしはそんなきみを尊敬する」


どきり、と心臓が強く跳ねた。

感情が、物理的な影響を伴って俺の心を占めていく。


初めてだった。

真っ直ぐ見つめる瞳で射抜かれたのは。


初めてだった。

諦めが悪くて繰り返すだけの俺を尊敬するなんて言われたのは。


初めてだった。

速い以外の泳ぎが楽しいだなんて思ったのは。


だから、こんな風に。

心臓の鼓動が速くなって、視線を外せなくなるなんて。

初めて、だった。


波の音だけが静かに響いている。

きみが好きだと伝えたい衝動と、交わした視線を繋いでいたい感情がせめぎ合う。


それでも時間は流れていって。

夕陽が沈んでいく。今日の終わりが近づいてくる。


陽子が俺の隣に座りなおした。顔を正面から見つめ合う形になる。


それで、この時間は終わりなのだと理解した。そういうルールだったから。

差し出すように頭を逸らし、肩を向ける。


だけど。


「海斗。きみはきみのままでいてね」


陽子は俺の肩に口付けない。噛みつかない。

代わりの言葉はまるで別れの言葉じみていて。


「陽子、俺は--」


くちゅっ、と。

伝えるべき言葉が分からないまま開いた口は、陽子の口で塞がれた。


そのまま、何かが口の中に入ってくる。

暴れ回られて、かされた。

抵抗なんて出来ずに、する気もなくて。

ただ、目をつむった陽子だけに意識の全てが向いていた。


そうやって絡み合う。口の中は自分と相手の境界すら分からなくなっていき。

ごくん、と。

何かを飲み込んだ。


陽子が離れる。

口の端から細く水の糸を垂れ下げて。


「さよなら。頑張ってね。……わたしも、わたしを頑張るから」


熱に浮かされて言葉の意味すら分からないまま。意識は蕩けるままにどんどん深くに沈んでいって。


目覚めたとき。

体は病院のベッドの上だった。

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