海が太陽のきらり

さいか

第一話

止まる。

ゴーグル越しに視界へ入った会場のライトは乱反射していて、やけにギラギラして見えた。

そいつらは斜めに傾いた十字の群れのようで、まるで大量のバッテンが俺に向けられているみたいだ。

そこから逃げたくて体をよじる。顔を下に向けて腕を前に出せば、腹から後ろが少し浮く。そうやって身体は染み付いたクロールの姿勢をとっていた。

監督の叫び声も応援席の悲鳴も、水中に顔を沈めれば最早何も聞こえない。

左腕を回して水をかいた。両足で強く水を蹴る。加速する身体はそのままに。

右腕を、回して。


痛みが。


-◆-


暇な夏休み、というのは初めての経験だった。この時期に島へ帰省するのも小学生以来だろうか。昔は神社でセミを捕まえていた気もするけれど、今はそんな気にもなりはしない。


うらさびれた神社は訪れる人もあまりいないのだろう。管理人もいるのかどうか。

元々は鮮やかな赤だったであろう建物も色が落ちてしまっているし、金ぴかに輝いていたはずの鈴もくすんで鈍い光を放っていた。


終わったもの。


否が応にも、神社の姿と今の自分を重ねてしまう。それでも。


垂れ下がる縄を引いて鈴を鳴らし、五円玉を賽銭箱に投げ入れた。

二礼二拍手そのあとに。


潮見海斗です。東京都江東区在住の17歳で、高校に通ってます。

昨年の8月に行われた水泳大会で右肩を故障しました。それ以外、原因不明の痛みが取れません。

どうか。どうか。痛みを無くして、また全力で泳げるようにしてください。

お願いします。お願いします。


名前と住所、最後に願いを頭の中で呟いて。すっ、と手を下ろして一礼をした。


どこかへ行くたびに繰り返してきた神社へのお参り。

その度になんともならずに落ち込んだけど。まだ、どうにかならないか、と。淡い希望にすがっている。


社の裏手にまわると、御神木みたいなでかい木が生えていた。

体重をその木に預け、ゆっくりと右手を上げる。

肩の高さ。頭の上。もう少し。もう少し。

ぎしり。

腕がまっすぐ上に向く、そのわずか前に頭の中から軋むような音がした。そこから先には腕を上げられない。


やっぱり、だめか。

空振りにため息をつく。


分かっては、いた。神頼みで治るならば、神社はこんなに寂れてはいないだろう。

だらん、と右腕を下ろす。釣られて足元を見れば、じっとりと滲んだ脂汗が鼻先からしたたり落ちていて、地面が黒く濁っていた。


何をしてるんだ、俺は。部活も何もかもから逃げ出して。

無駄な希望にすがって、何か意味があることをしたかのように汗を流すのか。


情けなさの結晶を見たくなくて顔を上げる。

その最中さなか


「何だ? あれ……」


御神木を挟んで社の反対側、柵が途切れた場所があった。


よくよく近づいてみれば、そこは下り坂になっていて、道中には鳥居が何本も立っている。

それはまるで隠されている道のようで、ご利益がある場所に続いているようにも見えて。


「……どうせ、暇だしな」


誰に聞かせるでもない言い訳を呟いていた。


-◆-


そうやって下っていって。

ざぁ、と音を立てて周りの木が揺れた。右の方から風が吹いたのだ。思わず目を閉じると、塩気の混じったような匂いが鼻をくすぐった。


「おお……」


瞼を開いてそちらを見ると思わず声が漏れた。そこはもう木がなく開けきっていて、その先には海が見えたから。

海面は薄緑がかった青をしていて、綺麗だと素直に思う。神社の裏道から行けるのだから、ここは特別な場所かもしれない。

入り江になっているせいか、波も殆ど凪いでいる。


「ん……?」


入り江の対岸。水面から突き出した崖の上。水面からかなり高いその場所で、何かが動いた。


人だ。

身長の半分ほどまで伸びた髪を伴ったその人は、こちらのことなど意にも介さないように、ゆっくりと歩いていく。

そしてそのまま崖の先っぽまで進み、ふ……と。その先まで足を踏み出した。

空中で留まったように感じたのは一瞬だ。当然のようにその姿はぐらりと傾いて。

ばっしゃああぁんっ! と、離れたここまで響くくらいの音とともに水しぶきが上がった。

それから。凍りついた時間が流れて、海面が再び凪いでも。

それでも、落ちた人はそこから顔を出さなかった。


「--ッ!」


駆け出した。

土の上を滑りながら坂を下っていく。


「邪魔!」


砂地に足を取られかけて、靴を脱いだ。ついでにシャツとズボンも投げ捨てる。


そのまま駆けて。ざぶん、と。

足が水を踏んだ。


怖い。けど。


「ふーっ」


大丈夫だ。足がつく。風呂に入るのと大して変わらない。


ざぶん。ざぶん。

膝下に。腰のあたりに。

一歩進むたびにどんどんと水面が高くなる。


ざぶん。ざぶん。

肩口まで水に浸かった。それでも、人が落ちた場所にはまだ遠い。


怖い。怖い。怖い。

この先に進むなら泳がなくてはいけない。

それが怖くて仕方ない。


綺麗だと確かに感じたはずの水面みなもに煌めく陽光が、あのときのギラついたライトとダブって仕方ない 。だらんと垂らした右腕にも理由不明な痛みが走っている。

誰もいないのに。ここには叫び声を上げる監督も悲鳴を叫ぶ観客もいないのに。


誰もいない。俺がタッチいのちを繋げなければ、そこで終わり。


そう思い至り、今日一番の恐怖が体に満ちて。


気づけば砂を蹴っていた。

体を水平にすることすら出来ずに、犬かきの真似事みたく手と足を無茶苦茶に動かす。

泳ぎとも言えない情けない有様で、それでも体を僅かずつ進ませる。

そして。

ぎしり、と。右肩を思い切り使った訳でもないのに痛みが走った。

右腕が止まる。バランスが崩れる。崩れた体勢では浮力を稼げずに。


沈んでいく。もがくたびに水を飲んで、どうしようもなく水面が遠ざかる。


泳げないまま、タッチを繋ぐことができないまま。こんな風に死ぬのか。


悔しさと息苦しさが満ちる。それもやがて意識とともに薄れていって。

瞼が開いているのか閉まっているか。現実なのか夢なのか。生きているのか死んでいるのか。

何も分からないその中で。


「ねえ。望みのために全てを捨てられる?」


いつの間にか目の前にいた少女に、そう問いかけられていた。

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