第六章
第六章
「そうかしら。」
上浜富子は少し笑っていた。
「あたしはまず、社中のために、良いことをしたと思ってるわ。だって、古典を守るためだもの。こうなければ、お箏というものが、くだらないポピュラーソングとか、そういうモノしか演奏できない楽器と思われても仕方ないわよ。そうならないように、あたしは、止めたのよ。」
「でも、そのせいで、何人もの人がやめて行って、社中が、いわばつぶれてしまったじゃないの。それで本当に良いことをしたとは思えないわ。」
咲がもう一回同じ事をいうと、それでよいのよ。と、富子は笑っていた。
「花村先生も、ご自身の力不足だと言って、嘆いていらしたわ。上浜さんがそうなったのは、自分の責任だとおっしゃって、嘆いていらしたわ。」
「そんなこと、どうでもいいじゃない。あたしは、とにかく古典を守りたかったの。お箏の正統な曲を残しておきたかったのよ。」
富子はしまいにはポロリと涙をこぼした。
「もう少しましなことを言え。そういう事じゃなくて、共犯者が誰なのか。それがはっきりしなければ、俺たちも先へ進めない。」
いら立った華岡が、そういった。華岡にしてみれば、早くそっちを口にしてしまいたいというものだろうが。
「本当に上浜さんは、藤川さんの事を殺そうと思ったの?」
咲はそういう事を言ってみた。上浜富子は、ええ、と、自信たっぷりに答えた。
「其れは、古典箏曲のためなの?」
上浜富子はええ、と答えた。
「ねえ、咲ちゃん、あたしの事なんてどうでもいいじゃないの。あたしは殺人者よ。そんなあたしに、どうしてかまうわけ?」
「だって、上浜さんは、せっかく天職なるものを見つけて、あんなに嬉しそうにしていたのに、今の上浜さんは、それを、全部、放棄しているようにみえるわ。」
自虐的に言う富子に、咲は自分の思っていることを言った。
「上浜さん、あの日の事覚えてる?あれだけ楽しそうにしていたじゃないの。ほら、久しぶりに再会したあの日、あなた、本当にお箏をやることが楽しくて仕方ないって顔してた。そんな上浜さんがどうして殺人なんか。どうしてそんなこと。そんなことしたら、人生全部だめにしちゃって、もう、お箏の世界には、もどりたくても、戻れなくなるかも知れないじゃない。」
「其れで良いのよ。どうせ、わたしなんか、其れでしかないんだから。」
咲がそういうと、富子は意外なセリフを言った。
「どういう事?」
と、咲が聞くと、
「だってあたしは学校でも嫌われてきたもの。どうせ勉強もできなかったんだし、成績が良ければ可愛がってもらえるでしょうけど、あたしは、出来なかったのよ。其れは、成績の良い人の特権。悪い人は、一生、バカのレッテルを張られるだけよ。それで一生終わっちゃう。」
富子は吐き捨ているように言った。それを見て、彼女はそんなことで傷ついていたのかと、咲は初めて知った。彼女がそうなったなんて全く気が付かなかった。もしかしたら、上浜さん、そういう訳でちゃらちゃらした女性になったのだろうか。勉強ができなくてひどいことを平気で言われて、もう、世の中がどうでもよくなっていたのだろうか。
「ええ、そんなあたしを、花村先生が拾って下さって、あたしを本当にかわいがってくださって、あたしにお免状までくれて、だから、感謝してもしきれない。その気持ちを伝えるためには、こうするしかないと思ったのよ。」
つまりそういう事か。
「それにはね、花村先生に元気になってほしいという思いもあるの。先生は心臓がお悪いからね。そうなった原因は藤川にもあるのよ。藤川が社中を変えていかなきゃダメだって、あんまりいうから、先生は、社中から離れるしか方法がなくなっちゃったじゃないの!」
そうかそうか、それだけお箏への想いがあり、花村先生への想いがあるという事か。しかし、あれだけちゃらちゃらした人が、学生時代、そんなに傷ついていたとは思わなかった。その傷ついていることを、もうちょっと、表現してくれれば、周りの誰かが、手を打ってくれることもできたのではないだろうか。
すべてはもう遅い。咲はそう思った。
「だからもういいのよ。あたしには、愛してくれる家族もいない。いることは居るけど、あたしがあまりに成績が悪いから、みんなそっぽを向いちゃった。だから、もうあたしは、愛されることもないのよ。だから死ねたら本望よ。」
「上浜さん、花村先生はそういうことを望んでいらっしゃるかしら。」
不意に咲はそういうことを言った。
「あたしは、そうは思わないわ!」
咲はそこだけはきっぱりといった。
とりあえず華岡は、今回は共犯者の存在を突き止めるのは、あきらめた方がいいと判断した。婦人警官に手で合図して、もう、接見室から出すようにと告げる。婦人警官は、時間切れだと伝え、富子に部屋から出るように促した。富子は、素直にわかりましたと応じた。
「また来るわ。」
咲はそっと、上浜さんに言った。
ところがその数日後、刑事課に一本の電話がかかってきて、華岡は驚くほど驚いた。
「あの、すみません、実はどうしても刑事さんたちに用がありまして。」
と、電話の相手は、中年の女性であった。
「一体何なんですか。」
と華岡は応じた。
「ええ、私の息子の事なんですが、どうしても自首するんだと言ってきかないんです。私は、何かの間違いだとは思うのですが。」
と、中年の女性は、ひどく取り乱したような声で言っている。
「息子さんが何をしたというのでしょうか。」
「ええ、なんとも、上浜富子さんの事件に関わっているというんです。同期のお弟子さんである、藤川節子さんを殺害するのを手伝ったというんですよ。」
「どういうことだ!」
華岡は返答するより呆然としてしまった。
「ええ、息子がそういうんです。初めは私も信じられなかったのですが、息子は本当の事だと言い張るものですから、、、。」
と泣き泣きいう母親に、華岡は直ぐに連れてきてくださいといった。詳しい話は署のほうで伺います、と。
数分後、婦人警官に連れられて、一組の母子がやってきた。顔を見ると確かに母子なのだが、まるで立場が逆転したような顔をしている。母親は疲労困憊しているが、息子の方は全く平気という顔をしているのだ。
「森下と申します。私は、森下綾子で、息子は森下正彦と言います。」
と、華岡に向かって母親がそう自己紹介したため、名前は森下と判明する。華岡は、とりあえず、二人を面談室へ通した。
「えーと、森下正彦君と言ったね。年はいくつなのかな?」
華岡が聞くと、森下正彦は、18歳と静かに答えた。
「18歳、つまり、高校三年生か。何処の高校に言っているのかな?」
「吉永高校です。」
と、いう事は、成績はそこそこ良かったのだろう。頭の悪い子ではなかった。高校というのは、行ってみれば、関所を通る時の身分証明と近い、働きをするものでもあるから。
「で、初めから分かるように話してくれ。本当に、君が藤川節子さんの遺体を、バラ公園までもっていったのだろうか。」
「はい、持っていきました。」
華岡が聞くと、彼はすぐに答えた。
「どうしてそんなことをした?君は犯罪というものがどれだけ悪いことなのか、知っている年ごろだと思うんだが?」
「そうでしょうか。」
と、森下はすぐに反対した。
「藤川さんのような人を生かしていたら、古典箏曲がつぶれてしまうと愚痴を漏らしていたのは、上浜先生でした。だから、僕はその通りにしたんです。その何がいけないのでしょうか。だってそうしなければ、藤川先生を止めることが、出来ませんでしたよ。花村会が、くだらない音楽をやって、それだけで満足してしまう社中になってしまうのは、どうしてもいやだと言っていたのは上浜先生でしょう。僕はその、望みをかなえてあげたんですよ。」
「ちょっと待ってくれ。じゃあ、君は上浜先生に、お箏を習っていたという事か。」
と華岡は急いで聞いた。森下は、しずかに頷いて、こう語りだした。
「ええ、上浜先生は、音楽の授業で学校にお箏をおしえに来てくれていたんです。僕たちの学校は成績が良くないと、部活をやってはいけないものですから、音楽の授業はすごく良い息抜きでした。その中にお箏というものが入ってきて、すごく新鮮だった。其れから、週に一度上浜先生の下へ通う様になりました。先生は、僕のような頭の悪い、だめな学生でも、生徒の一人として、丁寧にお箏を教えてくださいました。古典箏曲を中心にやっていたから、僕の国語の成績も上がったのです。だから、そうしてくれた上浜先生が、悩んでいることを知って、僕は望みをかなえてやろうと思うようになりました。」
森下はそういうことを語り始めた。華岡はまたびっくりしてしまう。高校生がこういうことを、長々と語るのだから。
「そうか、でもかといって、人の命を奪うという事は、良いことだろうか。」
と、華岡は又聞いた。
「まあ、良くないのかも知れませんが、上浜先生の望みはこれでかなったわけだし、花村先生だって、良かったと思われるのではないでしょうか。だって、人間って、邪魔なものはどんどん捨てて成長していくものですからね。」
そう答える森下に、華岡は思わず、
「いや、人間はテレビゲームじゃないんだ。テレビゲームのキャラクターみたいに、リセットすればすぐに元に戻るというものではない。そのような軽いものではないんだよ!」
と、叱ってしまった。しかし、森下は冷静なままで、
「ええ、それは知っていますよ。よく偉い先生がそういいますよね。でも、本当にそうなのかと聞けば、そうではないのではないですか。だって学校では、何度も死ねといわれたと思いますか?お前たちは地球のゴミだとか、勉強ができない奴は、親御さんを苦しめる疫病神だとか、何回言われたと思いますか。そんな風に毎日毎日言われ続けて、とても僕たちは、大切にされているとは思えませんよ。だから、命が大切だなんて、正直わかりませんね。其れよりも、成績が良い人たちが勝手によい世の中を作ってくれれば、それでいいんですよ。それが今の時代なんじゃありませんかね。」
と、いうのであった。お母さんどうですか、と華岡が聞いてみると、母親は、すみません私がちゃんと育ててなかったばっかりに、と泣く泣く言うのみであった。どうしてこういういうことを言うのか、私も理解できません、自分は、命の大切さとかしっかり教えてきたつもりなのに、どうしてこうなってしまったのか、わかりません、と、ただただなくばかりであった。
「そういう事じゃないんですよ。育て方でご自身を責められても困ります。そうじゃなくて、本当に森下さんが遺体を遺棄したのかどうか、という事を話してもらわないと。」
と、華岡が母親をけん制して改めて聞くと、
「ええ、僕がやりました。これで良いじゃないですか。とにかく、其れで終わったことにしてください。僕の人生なんて、事件を起こそうが起こすまいが、碌なものにはなりませんよ。こういう形でピリオドを打てて、逆に良かった。それでいいんですから。だから早く、事件が解決してよかったと思ってくださいよ。」
と、冷静にそういう森下に、
「そ、そうなんだけどね。」
華岡は言葉に詰まった。
「君はまだ18歳だろ。可能性はまだまだあるじゃないか。それを殺人をしたという行為によって、君の持っている可能性が、全部失われるという事にもなるんだよ。それを後悔したりしないのか?」
「ええ、勿論です。僕は可能性もほしくないし、もう人生なんて生きていても、仕方ないと考えているので、最期に、こういう形で終われましたことを、感謝しているくらいですよ。」
隣にいた母親がわっと泣き出した。其れは確かに泣くだろうなと、華岡も思った。
「どんなことをしたと思っているのかとか、そういうお咎めもいりません。倫理的に悪いことであっても、社中にとって、邪魔な奴をやっつけることには成功したんですから。」
「なんでそんなに。」
華岡も思わず泣きたくなってしまうほどの、供述ぶりであった。
「今の事、ちゃんと忘れずに書いただろうな。」
隣にいる部下の刑事に聞いてみるが、華岡と同様、彼も呆然としてしまっているようで、口をあんぐり開けていた。今回の取り調べは、取調官二人とも、おどろいてしまうほどの、恐ろしいものであった様だ。
浜島咲は、いつも通りに苑子さんと一緒にお稽古をしていた。稽古が終了後、何気なくスマートフォンを見ると、華岡さんからメールが来ていることが分かった。なんだろうと思って、メールアプリを開いてみると、共犯者がわかったという内容であった。これを見た咲は、すぐにそっちへ行ってもいいかとメールしてみる。上浜さんの事が心配でならなかった。どうしたら、上浜さんが元の世界に戻ってきてくれるだろうか。数分後、華岡からぜひ来てやってくれというメールが届いたので、今日は何時ものバスではなく、別のバスへ乗っていく必要があるなと思い、急いでバス停へ向かった。
夜近くなって、浜島咲は警察署の前にいた。例の華岡警視が、すでに玄関のところで待っていて、今日は来てくれてありがとう、と咲を出迎えた。華岡はとりあえず、上浜に共犯者が現れたといったが、そうしたら彼女は大変に取り乱し、そのようなことはないと言って、泣きはらしたという。一体何なのかよくわからない、と、華岡は変な顔をしていた。
「とにかく、上浜富子に会ってください。浜島さんになら、本当のことを言うと思います。」
という華岡も、なにか神頼みをしているように見える。
「わかりました。」
とりあえず咲は接見室へ通される。ガラス越しに、婦人警官と一緒にやってきた上浜富子を見ると、少しやつれているように見える。
「咲ちゃん、どうしたの。もう終わったことじゃないの。今までのあたしとは、もう違うのよ。」
富子は、昨日よりちょっと取り乱した様子で、咲に言った。
「上浜さん、終わりじゃないわよ。ちゃんと真実を明らかにしなくちゃ。」
咲がそういうと、華岡はそうだそうだとばかりに、二回頷いた。
「共犯者が現れたそうね。華岡さんに聞いたわ。森下正彦さん。まだ十八歳だったそうね。その子が、藤川さんの遺体を、バラ公園にもっていったといっている。」
咲が華岡から聞いたことを繰り返すと、富子は、もう知られてしまったか、という悲しそうな顔をした。
「森下君には、ずっと同じ生活を続けているように、と言っておいたのに。」
と、泣き出す富子に、咲は、やっぱり犯人は、上浜富子さんだったんだな、と何となく思った。
「それじゃあ、藤川さんを殺害したのは。」
「ええ、あたしよ。遺体をバラ公園に遺棄したのは森下君で。」
「じゃあ、その日、いったい何があって、藤川を殺害するに至ったのか、隠さずに話してください。」
華岡が、富子にきっちりと言った。
「ええ、もう話さなければならないようですね。」
富子は、しずかに語り始めた。
「あの日は、ちょうど、花村先生のお宅で、師範級の人が集まって、社中の運営をする会議が行われておりました。その時に、藤川さんが、ディズニーメドレーの楽譜を持ってきてくれたんです。そうして、彼女は次の演奏会ではこれをやろうと、提案しました。」
なるほど、そこまでは花村先生の、話とほぼ同じだ。
「そうしたら、ほかの師範級の人たちもそう思っていた人がいたみたいで、もう古典はやめて、こういう曲にしなければ、お客が集まらないとか、そういうことを言い出したんです。花村先生は最後迄反対しました。でも、大多数の人がそう思っていたみたいでした。それで私、思ったんです。これでは、花村会が、花村会ではなくなってしまうって。古典が、どこかに行ってしまうって。それで、もうこれでは、藤川さんを消すしかないと思って。それで、私は、会議が終了後に藤川さんが飲んでいたお茶を、こっそり毒入りとすり替えて、、、。」
なるほど、そういう風にして、殺害に至ったのか。其れは理解できた。
「でも、私は、そのあとのことを考えてもいませんでした。藤川さんの遺体をどうするかまでは、わからなかったんです。そうしたらちょうど、お稽古場に忘れ物をして取りに来た、森下さんが、僕が何とかしますと言ってくれたんで、その通りにしました。森下さんは、そのまま、藤川さんの遺体を、バラ公園に運んだんだと思います。」
事件の全容か。そういうモノだったか。
「そのあと、森下さんから電話がかかってきて、バラ公園の土手から滑り落ちたという設定にしておいたから、と言われました。そしてあたしは、森下さんには、普段通りの生活に戻っていいといい、一人で藤川さんを殺害したことにしました。」
「そうか、それでお前はすぐに自首して、人生を終わりにしようと考えたわけか。」
華岡は、今の言葉を必ず記録しておくようにと、部下の刑事に言った。部下の刑事は、はいわかりました、と急いで鉛筆を持ち直し、記録ノートに書き込み始める。
「でも、あたしたちは、これでいいと思っています。藤川さんを殺害して、古典ではない、くだらない音楽に満足してしまう社中に変えようとしていたのを阻止したんですから。だって、このままどんどん古典がなくなったら、お箏はお箏でなくなってしまうのではないかと思います。」
そこだけはどうしても、こだわりとして残しておきたい部分のようだった。それでも、人を犠牲にした、というところは、やっぱりいけないのではないか、と咲は思う。
「森下くんは、あなたが、自分のことを必要としてくれたから、うれしかったんだって、そういっているの。なんであなたは、それを殺人を手伝わせることに使ったの?上浜さんだって、花村先生から、指導を受けて、これから立ち直っていこうと一度は思ったんでしょう?それなのになんで、先生を裏切るような真似を?」
「咲ちゃんは幸せね。あのね、もう一回言うけど、学校で失敗してしまうと、二度と立ち上がれないのよ。其れはあたしも、森下君も同じ。何か発言すると、洋楽の学校出てるくせにとか、頭の悪い学校しか行けなかったくせにとか、そういうことをいわれるの。だから、一生バカにされて生きていくしかないでしょう。」
咲がそういうと、上浜さんは静かに答えた。そういうところが、上浜さんは、やっぱり本当にちゃらちゃらした人間ではなく、ちゃんと、人生のことについて考えられる人間だったんだなと、改めて、彼女がされてきた境遇というか、人生のむなしさと無情を、咲は改めて感じさせられたのだった。
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