第五章
第五章
その日も、浜島咲と杉ちゃんは、小山に居る花村義久の下を訪れた。看護師に案内されて部屋に行くと、花村はやはり寝たままだった。
「やっほ、今日も寒いなあ。あれえ、今日も横になったまま?」
「ええ、もうちょっと我慢すれば、起きてもよいといわれました。それまでの辛抱かなと思って、頑張っております。」
杉ちゃんがそうからかい半分でいうと、花村はにこやかに答えた。
「おう、それはよかったね。お前さんがよくなってくれれば、こっちもうれしいというものだ。うん、それは良かった。じゃあ、起き上がれるのを、楽しみに待ってらあ。」
いつの間にか杉ちゃんと花村さんは、すっかりお友達になって、にこやかに話していた。
「ええ、まあ。ありがとうございます。早く、良くなって、また自宅に帰れる日を楽しみにしています。」
「じゃあ、良くなったら家元業へ戻るのか。お弟子さんたちに、お箏おしえてさあ。きっと、すごいの弾いてんだろう?小督とか、長恨歌とか、そういうやつか。」
杉ちゃんと、花村さんは、そんな会話をしていた。そういう曲のタイトルを言われても、内容のよくわからない咲であったが、とりあえず、大曲なんだろうと思った。
「急かさないでくださいよ。少しづつ慣れていこうって、お医者さんも言っていました。出ても、暫くは、寝たり起きたりの生活になるようです。急に外へ出ると、また再発の恐れが出てくるからって。其れは、一番よくないって、言われてますから。」
「そうなのね。」
杉三はカラカラと笑った。それにつられて花村さんも、横になったまま、笑顔になったようであったが、
「其れよりも。」
と、花村さんはまた悲しい顔をした。それを見て、咲も心配そうな顔になった。
「どうしたんですか?」
思わず咲が聞くと、
「ええ、なんだかうちの社中も、もう終いなのかなって、思ってしまいました。親しかったお弟子さんたちが次々に脱退して、師範格の人も、次々に花村会から離れて行ってしまうようです。最近、そういう連絡をもらうんですよ。それに、病院まで面会に来て、顔を合わせることもしないで、ラインなんかで形式的な挨拶をしてしまう人ばかりで。なんだか寂しいですね。」
と、花村さんは言った。なんともむなしい話だった。事件のせいで、お弟子さんたちが次々に出て行ってしまうのは確かにつらいところである。
「そうなのねエ。まあ、仕方ないこっちゃな。誰だって、安全第一で生きているからな。脱退者がでちゃうのは、仕方ないよ。」
杉ちゃん、ずいぶん冷たい事言うのね、と、咲は杉ちゃんの方を見た。
「誰だって、みんな自分のためだけに生きているさ。社中のために生きているのは、お前さんだけだよ。まず、それをわきまえなくっちゃな。」
杉ちゃん、そんなすごいこと言って。そんな冷たいこと言ったら怒られるわよ。と、咲は思ったが、花村さんは、杉ちゃんに何も言わなかった。
「そうですね。それで当たり前ですよね。もう、当たり前の事なのに、なんでこんなにつらいんだろう。」
と、ちょっとべそをかくような顔をしてそういう花村さんに、
「花村先生は悪くありませんよ。悪いのは、誰かわからないけど、少なくとも先生が悪いわけじゃありません。誰が悪いなんて、決めつけることはできなくても、おかしくなってしまうことは結構あるんです。あたしも、そういう時期ありましたから。」
と、咲はそう言ってあげた。確かに人間であれば、誰のせいでもないけれど、わるいことに直面してしまうことは結構ある。それを誰のせいとか、いろんな説が飛び出すが、結局誰でもなくて、一人で耐えなければならない、という事もよくある事なのだ。
「大丈夫だよ。そういう時はな、素直にだめなものはだめだと表現すれば、それでいいのさ。つらいときは黙ってちゃいけないよ。誰かにうちあけなくちゃね。そこを間違えるから、犯罪というものが起こるんだ。」
と、杉ちゃんが言う。其れはどこか、異様な響きがあった。
「そうですか。では、あの、上浜さんの事件もそうだったんでしょうか。」
と、花村さんが言った。杉ちゃんはどんな答えをだすんだろう。と、咲は思わず身構える。
「そうさ。上浜さんだって、古典箏曲の事とか誰か語り合える奴がいてくれれば、また違ったと思うよ。解決しなくても、語り合える誰かがいてくれれば、何十年も我慢できるという例は、結構あるぜ。例えば、ひどい上司がいても、語り合える誰かがいたおかげで、ずっと勤められたとか。」
杉ちゃんはにこやかに笑って、そう答えた。そうですか、そういう人がいれば、と花村さんは、なにか考えているようだ。
「単に家元と弟子っていう関係では今はやっていけないんですよ。古き良き時代じゃないからね。そこを勘違いしちゃいけませんなあ。」
杉ちゃんは、にこやかに笑った。
「そうですね。」
花村は、ふっとため息をつく。
「まあ、これに懲りて二度としないことだ。其れしかないじゃないか。それを踏まえて新しい社中を作っていくこと。まあ、でも、それができるようになるために、今はもうちょっと体をよくしないとな。先ずは、自分の体の事を、心配しろ。もうちょっと、我慢すれば、起きてもいいって言われたんだろ。それでよいと思えよ。そうして少しづつ、外の世界に戻っていくことだな。」
医者に何回も同じセリフを言われていると思われるが、ここで初めて、花村さんは、そうですね、と納得してくれたようだ。どうしてなのだろう。医者に言われると、早く何とかならないかと、じれったくて仕方ないのに、杉ちゃんのような親友に言われると、人間納得するものらしい。そういう関係に慣れるまでが大変だが、杉ちゃんという人は、文字が読み書きできない代わりに、そういう風に納得させられる才能を持っているらしいのである。
「いいわね、杉ちゃん。」
思わず咲はそう言ってしまった。
「あたしも、そうやって、仲良くできる親友がいたらいいのに。」
「そんなもん、答えは簡単だ。ほしけりゃ作ればいいだけの話さ。そして、作ったら思いっきり大切にしてやること。そうすれば人間一人で生きてはいけないって、よくわかるからよ。」
と、杉ちゃんはにこやかに言うが、それは非常に難しい話でもあった。
「そうかあ、あたしも一助けをたくさんすれば、そういう風になれるかしら。」
と、咲が聞くと、
「おう、なれるとも。でも、その時注意することがあって、人間は自分のものと勘違いしないことだな。必ず、相手にも意思があると思う事だな。というか、そこがコツだよ。ははは。」
と、杉ちゃんは答えた。それを花村さんが、うれしそうな顔をして、にこやかに眺めていた。咲もいいなあ、杉ちゃんみたいに明るかったらと思う。杉ちゃんがバカは明るいと笑っていると、同時に看護師がやってきて、今日のタイムリミットはここまでだと告げたが、それさえも今回は笑い飛ばすことができたのでよかった。
「じゃあ、僕たち、帰るけど、絶対に無理はしないでくれよ。次に会いに来るときは、起きられるといいよね。」
「はい、決していたしません。」
こうして笑いあう二人を、咲はうらやましい顔で見つめていた。
「また来るからな。よろしくな。」
「はい、こちらこそ。」
変な顔をしている看護師をしり目に、杉三と花村は、そんなことを言いあっていた。
「浜島さんも、いつもありがとうございます。杉ちゃん、連れてきてくださって、本当に感謝しています。」
不意に、花村さんにそういわれて、咲はちょっと、照れくさくなった。同時に、上浜さんはこういう人がいてくれるだろうかと思った。いや、いないだろう。だって、あんな事件を起こすんだから。きっと一人で思い詰めて、それで事件を起こしたに違いない。確かにしたことは悪いかもしれないけど、上浜さんはきっと孤独だったのだ。それを咎めてくれる人もいなかったのだろう。若しかしたら、あの、バスの中で再会した時、上浜さんは、それをしてほしくて、あたしに声をかけてきたんじゃないかしら。咲は、このやり取りを見て、そう思ってしまった。
翌日、咲は、警察署へ行っても、通してもらえないだろうな、会うのは無理と言われて当たり前だろうなと思いながらも、上浜富子に会いに行ってみることにした。上浜さんは、きっと警察署の中で、寂しい思いをしているだろうから。
「あの、すみません。上浜富子さんは、ここにいらっしゃいますでしょうか。ちょっとお会いしたいのですが。」
と、咲はとりあえず警察署の受付に聞いてみた。
「ええと、御宅様はどちら様でしょうか?」
「ええ、上浜富子さんと、大学時代に同級生だった、浜島咲と言います。」
受付にそういわれて、咲はしっかりと答える。
「あの、すみません、血縁者でない方はちょっと、」
と、戸惑っている受付。なんだか咲に対して、どうしてよいかわからないという感じの様子だった。これではやっぱり追い出されるかなあと咲は思ったが、ちょうどそこへ華岡警視がやってきて、咲をとおしてやれといった。
「ありがとうございます、華岡さん。お通ししてくださって。」
「いや、誰かに接見してもらわないと、上浜富子が、本当の事を言ってくれないだろうと、思うからですよ。」
廊下を歩きながら、咲がそういうと、華岡はそういうことを言った。
「本当の事を言わない?どういうことですか?」
咲がそう聞き返すと、
「ええ、上浜がですね、藤川さんを殺害したということは確かなんですが、問題はその後でしてね。そのあと、誰が、藤川節子さんの遺体を、バラ公園に運んだのか、が、全く分からない。」
と、華岡は言った。そうなると、上浜さんの単独行動ではなく、誰かほかの者がいたという事だろうか?
「じゃあ、あの事件は、一から十まで、上浜富子さんの犯行ではなく、ほかに誰かがいたという事でしょうか?」
咲が思わずそう聞くと、
「ええ、それに、上浜の供述は、ちぐはぐなところが多すぎて、彼女本人の意識にある事とは、また違うんだと思われます。ですから、俺たちは、上浜が単独で事件を起こしたのではなく、誰かもう一人、いたのではないかと推測しています。しかし、それが誰なのか、上浜が全く話さないので。」
華岡は、がりがりと頭をかじった。
「じゃあ、上浜さんの単独ではないというのであればもしかしたら、」
罪が軽くなる、のだろうか。
「とにかくですね、俺たちがいくら取り調べをしても、彼女は自分の犯行だと言って、本当の事を言ってくれません。ですから、あなたが、彼女に、そうするように、説得していただきたい。」
華岡はそう言って、咲を接見室へ通した。
「上浜、今日は特別だ。大学の同級生で、浜島咲さんという人が来てくれた。」
華岡がそういうと、ガラス張りの向こう側に、少し疲れた顔をして、上浜富子がやってきた。隣には、もしもの時のために、婦人警官が座っていた。
「上浜さん。」
咲がそう呼びかけると、
「咲ちゃんお願い、すぐ帰って。大学時代の私じゃないのよ。」
富子は急いでそういうことを言った。
「大学時代の私じゃないって、上浜さんは一体何をやってきたのよ。」
咲がそう聞くと、上浜富子は少し間を開けて、
「あたしは、大学を出た後、劇団をやめて、お箏教室に入ったの。そこでだめな自分を変えるべく、一生懸命勉強したのよ。それで、お箏を教えるという仕事も与えられた。」
といった。その通りだと華岡も、咲の後ろで頷いている。
「そうよ。それで、良かったじゃないの。仕事も与えられて、それをやっていけばよかったじゃない。其れなのに、なんで、藤川さんという人を殺めたりしたのよ。」
咲はそう聞いてみた。
「仕方ないじゃないの。藤川さんは、古典を捨てて、くだらない音楽を中心にやっていくという、恐ろしい計画を立ててたのよ。古典を捨てたら、花村会は花村会ではなくなるわ。そのうち、花村先生が、お体が悪いことをいいことに、藤川さんのほうが、正当な家元と名乗り始めてしまって。藤川さんは、このままやっていったら、本当に、花村会をつぶしてしまうかもしれないでしょ。だから、そうするしかなかったの。あたしは、それしかできなかったのよ。だから咲ちゃん、あたしの事は、もう悪い奴だと思って、放っておいてよ。それでいいことにしてよ。悪いあたしさえいなかったら、花村会は安泰よ。あたしは、こんなに元気だし、ほかの人だって普通にやっていけるわ。咲ちゃん、もうそれで良いことにしてよ。あたしの事は、もう放っておいていいわ。それで良いじゃないの。あたしの事は、放っておいて。」
「そういう訳にはいかないんだ。お前はどうやって、藤川の遺体をバラ公園に運んだんだ?そこをはっきりしないと。」
華岡が長々と話し始める彼女に、窘めるように言った。
「だからそれは、わたしが背負って運びました。それで間違いありません。」
と、富子はすぐ言うが、華岡は首を横に振る。
「いや、お前さんにはどうしてもできそうにないぞ。そんな小柄な体なのに、70キロ近くあった藤川さんをどうやって運ぶんだ!」
確かに、上浜は小柄な女性だった。身長は五尺と、三寸程度だ。そんな女性が、70キロ近くある人間を運ぶなんてできるはずがない。できるのであれば、重量挙げの選手とか、そういう人でないとできないだろう。
「絶対に別の人物が運んだんだ。それができるのは、お前じゃない。それが誰なのか、シッカリ話をしろ。」
と、華岡が言うと、
「もう、なんで私の供述を受理しないんですか!早く事件を片付けてしまいたいんじゃないんですか!」
と、富子は怒りを表した。婦人警官が、彼女の体を抑えて、逆上しないようにした。
「いや、警察というのはな、楽をしたいと思い続けている奴らは居ないんだよ。ちゃんと、真実を話して、真実を得るまでは、次の段階へ進めない。」
華岡は、一寸説教をするように言った。
「そうよ。ちゃんと真実を話して。それをしっかりつかんでから、次のステップへ進むようにできているのよ。」
咲も彼女にエールを送るように言った。
「そうして何になるの!」
富子は咲に言った。
「そうして何か得することでもあるのかしら。何か利益を得る事になるのかしら?真実を話せば、うちの社中の分裂は止められるの?うちの社中が、下らない音楽しかやらない社中に変わってもいいの?それを阻止するには、そうしようとする人を消すしかないのよ!」
と、富子は必死で言う。ちょっと取り乱しているようであった。
「でも、、藤川さんを殺めて本当に良かったの?そんなことをして、花村先生は、お弟子さんたちが出て行ってしまった事を嘆いていらしたわよ。本当にそれでよかったといえるの?」
咲は富子にそういったが、富子はぎろっとした目で、彼女をにらみつけた。
「仕方ないじゃないの。逆をいえば、そういうことをして、邪魔な人を追い出す作戦でもあったのよ。そうしなければ、古典箏曲は守れないじゃないの。藤川さんを消して、それにまとわりついていた人が出て行ってくれたことで、本当に古典をやりたい人だけが残ってくれるじゃないの!」
「正義じみたことを言わないでよ!それをすることはいけないことじゃないの!人を殺めるよりも、何か別のやり方で、和解する方法はなかったの?話し合って、平和的に解決するとか、そういうことはできなかったの?だって、花村先生は、皆さんが出て行って、とても寂しそうな感じだったわよ。たくさんの人が脱退して、それは悲しいって。」
咲がそういうと、富子はそんなことはないという顔をした。
「話し合い?そんなことしたって、解決できる問題ではないわよ。そんなことで解決できる人だったら、とっくにしてるわよ。話し合い何て、いくら求めたってできる相手じゃないのよ!」
「でも、そうはいっても、人を殺めるという事はしないで、」
と咲は、語勢を強くして言ったが、それではいつまでも平行線という感じの空気になってしまった。
「あーあ、今日はだめか、、、。」
華岡がそんなことを言っている。
「あたしは、いくら何でも上浜さんが、そんなことをする人だとは思わなかったわ。」
「思わなくたって良いわ。あたしは、鬼になったのよ。古典箏曲を守るためには、そうするしかなかったの。其れしかなかったのよ。あたしには、それしかできなかったのよ。」
と、主張している彼女に、咲は、目の前にいる人が、本当に上浜富子なのか、わからなくなってしまったのだった。
「今回の事は、あたしがすべてやりました。毒を用意して、藤川を殺害し、遺体をバラ公園まで背負って運んだ。結果として、藤川を支持している人は、花村会から出て行ってくれた。それでよいじゃないの。そして、あたしは、罰せられればそれでいい。もう其れで良いことにしてください。加害者はあたしだけで、あたしが、犯罪者として、裁判にかけられて、刑務所に行けばそれでいい。其れで良いでしょうが。そうしてよ。そのほうが警察だって、楽になれるんじゃないの?犯人ももう捕まっているのに、事件を長引かせるのは、あなたたちの方じゃありませんか!」
「上浜さん。そんなことで、あたし、花村先生が喜んでいらっしゃるとは思えない。あたし、花村先生にあったけど、先生は社中がつぶれてしまったと言って、悲しんでいらしたわよ。あなたがそういうことをしたおかげで。其れでよかったと思う?本当に社中をよくしたと思う?」
咲は、富子にそういうことを言った。富子は何か考えるような、素振りをした。婦人警官も、華岡も、咲のいう通りだよなあという顔つきをしていた。
「上浜さん、もう一回考え直して。あなたは決して社中のために、良いことをしたわけじゃないのよ。」
華岡たちの後押しもあり、咲はもう一回そういうことを言った。
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