第二章
第二章
どうしても腑に落ちないところがあった。あんなふうに、自分の事を明るそうに話していた上浜さんが、どういう訳で、藤川節子さんを殺害するに至ったのか。どうしてそうなってしまったんだろう。
自分が、もし刑事だったら、そういう権限で、手あたり次第に調べるんだが、、、。そういうことはできなかった。
せめて、彼女と話だけでもさせてもらえないだろうか。と、思うのだが、そういうことはできないんだっけと、考え直した。
その日、お稽古に出ても、なにか上の空だった。苑子さんから、咲さん今日はどうしたの?何て聞かれてしまうほどであった。
とりあえず最後の生徒さん迄やり続けたが、なんだか、その時何をしていたのか、忘れてしまって、後で聞かれても答えが出ないような、そんな気がしてしまう。
「今日はここまででいいわ。明日こそ、ちゃんとやってきてね。」
と、苑子さんに言われて、咲は、やっと解放された。
楽器を片付けて、咲は、直ぐに家に帰る、という気にはなれなかった。どうせ独り者であるし、どんな風に時間を使ってもいいのであるが、独り者であるからこそ、家の中で一人でのんびりと、という気にはならなかった。そういうときって、人間は、誰かに話をしないと、だめなようにできているらしい。誰かとおしゃべりしたいなというか。独り者の人間だと、そういう相手が見つかりにくいというのが、少し寂しいところでもあった。
しかたなく、また駅へ向かうバスに乗って、のろのろと走るバスの車窓から、富士市ののどかな風景を静かに眺めて、バスの旅を楽しんだ。
バスは、富士駅の北口の前で止まる。咲は、どうせ時間はたくさんあるので、近くの本屋でも依っていくか、と本屋さんに向かって歩き出した。
「おい、お前さん。」
と、声がした。咲が振り向くと、杉三がいた。
「よ、元気か。確か、浜島、、、。すまんねエ、僕、顔は覚えているんだが、すぐに名前を忘れちゃうのよ。」
「そうね。すぐにそうやって忘れることができれば、そのほうが楽よ。あたしなんて、忘れたいことだらけなのに、忘れられないで困ってるんだから。ちなみに私の名前は浜島咲。」
と、咲は、杉三に行った。
「あ、失礼しました。浜島さんね。一体どうしたんだよ。そんな悩んでいるような顔でさ。」
「あら、あたしが悩んでいるように見えたかしら?」
杉三が、にこやかな顔をしてそういうので、咲は見栄を張って、そんなことを言った。
「当たり前だい。僕、文字読めない分、そういう事は読めるんだ。まあ、バカの一つ覚えって事かなあ。そういう事だと思ってくれ。」
「そうね、杉ちゃんの言う通りかもしれない。普通の人には見えない何かが、杉ちゃんにはあるのかもしれない。」
咲は、杉三の話に、もう本当のことを話した方がいいかなあと思った。
「杉ちゃんさ、ちょっと、カフェに入ろうか。こんなところで話してたら、変な奴だと思われるわ。」
そういって、杉ちゃんを、先日のカフェに案内した。そこは上浜富子さんと、かつて一緒に行った場所だ。店員が、もしかしたら自分の事を覚えているかなと、ちょっと不安になったが、その店員は幸か不幸か、出勤していなかったのでほっとする。
「で、なんの用なんだよ。僕に用があるって。」
「杉ちゃんなら、聞いてくれるかなと思ったんだけどね。あたし、どうしても納得できないことがあるのよ。ほら、杉ちゃんも知らない?此間、中年の女性が、バラ公園で殺害された事件。」
杉三はちょっと首をかしげる。
「知らないの?杉ちゃん。」
「すまんな、僕の家、テレビがないし、新聞も雑誌も何もかも読めないからさ。それで、何も入ってこないのさ。」
杉三は、頭をかじった。ある意味そういうところが、うらやましかった。そうして何も入ってこない環境は、かえって気が楽かもしれない。嫌なニュースや、情報が、全く入ってこないんだもの。ただ嬉しいという事だけ記憶していればいいのだから。忘れようとして努力しても、文字のせいでそれができない自分たちよりも、よっぽど楽しいところに住んでいる。
「羨ましいわね。杉ちゃんは。で、あたしの話聞いてくれるかな。」
と、咲は、杉ちゃんに打ち明けることにした。
「あのね、この間、バラ公園で、殺人事件があったの。被害者は、藤川節子さんという、お箏奏者の人で。その容疑者として、上浜富子っていう女性が捕まったんだけど。」
「うん、その事件の概要は、大体知っているよ。華岡さんが、うちへ来て、思いっきり事件について愚痴言っていたからな。」
咲は、杉ちゃんの思いがけない反応に、おどろいてしまった。どうしてそれを知っているんだろう。
「ああ、華岡さんというのは、蘭の親友で、小学校で同じクラスだったんだって。富士市の警察で警視をしているらしい。蘭は、僕の親友だ。」
何となくだけど、蘭の事も咲は思い出すことができた。確か、わたしがこっちで生活するきっかけを作ってくれた人だ。わたしが、富士市で生活するようになったのは、あの人が、水穂さんを何とかしてくれと、わたしを呼び出したんだっけ。
「そうなのね、蘭さんのような職種の人に、警察で警視をしている人が、友達なんて、珍しいわね。」
と、咲は、杉ちゃんに言った。
「まあ、蘭も悪い奴ではないからね。それよりそこは置いといてさ、その事件の事で何か困ったことでもあったの?」
杉ちゃんに聞かれて、咲は、もうざっくばらんに言ってしまった方がいいなと思った。杉ちゃんだからこそ、こういう話ができるという話はなくもない。
「だからね。その上浜さんの事なの。杉ちゃんには、すぐに言えるから、すぐに話すわよ。あのね、こんなこと、思っちゃいけないのかもしれないけど、あたし、上浜さんが犯人だって、どうしても思えないのよね。此間、上浜さんに会ったけれど、そういう事とはまるで縁のない世界に住んでいるような人だったもの。なんだか、今までの上浜さんとは、全部違って、前向きに明るく、古典箏曲を守るために一生懸命やっている、という感じだったもの。そういう彼女が、殺人なんかするのかなあ。どうしても納得できないわ。」
咲がそう話すと、杉ちゃんもこう話した。
「そうだね。華岡さんが昨日、なんだかああだこうだとぶちまけて言ったが、それに近い内容でもあるな。」
という事は、杉ちゃんも知っているんだろうか。
「だって、華岡さんが言ってたもん。あんな真面目な女性が、殺人を犯す世の中になってしまったのかってな。まあ、彼女は、とにかくね、自分がやったとは言っているんだが、その決定的な証拠らしきものがないんだって。それでは、上浜さんを逮捕できないってさ。指紋は出ないし、藤川さんの家に強盗が入ったとか、そんな形跡も見当たらないって。上浜さんは、単に、藤川さんがあまりにも師匠の花村さんから可愛がられていたせいで、それに嫉妬してやったと供述しているらしいけどね。」
杉ちゃんもそういった。こういう人が話している言葉をすぐに記憶できてしまうというのは、杉ちゃん特有の能力である。
「そうよねえ。むしろ、花村さんの事を尊敬して、古典の箏曲を一生懸命これからもやっていきたいっていう感じだったわ。あたしね、彼女の過去を少し知ってるんだけどね。彼女、あんまり世の中を真剣に生きていこうっていう人じゃなかったわ。だって、その証拠に真面目に勉強しろしろって、大学の教授から、しょっちゅう叱られてたわ。最も、こういう学生は、今はほとんどの大学に必ずいるけど。」
「まあ、東大くらいじゃないの、そういうやつが誰もいないところって。」
杉三は、水をずるっとすすって、そういうことを言った。
「其れはそうね。まあ、あたしがそういう人の存在を気にしすぎたのかもしれないけどね。それはいいわ。そういう女性だったのよね。彼女。その人が、お箏という楽器に出会って、すっかり人生観が変わってしまったみたいに、真面目になって、一生懸命古典箏曲を何とかしようと努力してさ、逆に応援してやりたいな、なんていう気持ちにもなったわ。」
と、咲は言った。
「そういう訳だから、彼女がそういうことをしたとは思えないのよねえ。」
「じゃ、ちょっと僕たちで調べてみる?」
不意に杉ちゃんがそういうことを言う。
「調べてみるって、杉ちゃん。」
「だって、華岡さんが、ずいぶん深刻そうな顔を仕手さ、あの女は絶対なにか隠していて、それをかばうようなことをしているんだって、言うからさ。もう一回、僕たちが調べてみないか?このままだと、上浜って人が、本当に悪い奴になってしまうぞ。警察とか、そういうところは、テレビで見るほどのカッコいいところではないし、すぐに、なんとかしてしまおうとしてしまう所だからな。僕が、華岡さんの知り合いだって、話をすれば、誰か教えてくれるんじゃないかな?」
杉三はそんなことを言った。つまり杉ちゃんも、そういうことを、感じていたんだなという事がわかった。なので、こういう時は杉ちゃんと、一緒に何かしたほうがいいという気がした。どうせ、今言った自分の思いをくちになんかしたら、犯罪者をかばうなんてなんという悪い奴だという答えしか、返ってこないだろうから。
「まあ、とりあえず、もう一回事件の概要を言いましょうか。殺されたのは、えーと、藤川節子さん。職業は、お箏教室の講師ね。凶器は、あたしニュースで見たんだけど、毒物によるものらしい。今、容疑者として当たっているのが、上浜富子さん。二人の共通点は、同じ花村義久先生の一門であること。」
咲は、警察官になった気分で、そういうことを述べた。
「で、華岡さんに話を聞いたのだが、その花村義久先生は、胸部疾患で小山町の病院で療養しているらしいよ。えーと確か、病院は、酒井病院という、、、。」
杉ちゃんすごい。その記憶に間違いなければ、花村先生は、そこにいるという事である。
「ちょっとどこにあるか調べてみるわ。」
と、咲は、鞄の中からタブレットを取り出して、検索欄に酒井病院と打ってみた。
「あらあ、ずいぶん山のほうにある病院じゃないの。静岡県と言っても、かなり北の方だわ。御殿場よりさらに上の小山町というところにあるわ。」
「なるほど、自然がいっぱいあらあ、療養には、向いているところだぜ。」
杉三は、腕組をした。
「警察は、まず第一容疑者として、花村義久先生を疑ったようだが、確かに、花村先生は、その酒井病院から脱走することはできないし、それに、体のわるいやつが、人を殺せる体力がないって、すぐ却下された。そうこうしているうちに、上浜富子さんという人が自分がやったと自首してきたんだって。これが華岡さんが話してくれた事件の概要なんだけどね。」
「なるほど。どうして花村先生が、藤川さんを殺害しようと思ったと言えるのかしらね。」
そこで杉三は、うーんと言った。そのあたりはまだ、公開されていないのだろうか。それとも、捜査が進んでいないという事だろうか。
「それでは、上浜さんと、藤川さんの間で、トラブルがあったという事なのかなあ、、、。でも、でもよ。彼女のように、古典箏曲に真剣に取り組みたいと言っていた子がよ。上の師匠さんたちにバカにされたりとか、傷つけられることはするかな?あたし、もっと可愛がられると思ったんだけどなあ。」
咲は、余計にわからないという顔をした。
「其れじゃあ、本人に話を聞いてみようぜ。何か指導の仕方でもめていたとか、そういうことを、聞いてみよう。」
杉ちゃんは、いきなりそういうことを言うので、咲もびっくりする。
「でも杉ちゃん、あたしたちは何も接点がないわ。」
「華岡さんの知り合いだって言えばとおしてくれるんじゃないかな。多分それで行けちゃうと思うんだよね。」
杉ちゃんは突拍子もないことを言った。
「とにかく本人に話を聞いてみよう。それが一番いいよ。」
「会わせてもらえるかしらね。」
咲はそこがちょっと不安だったが、杉ちゃんはもう意思を固めてしまったらしい。杉ちゃんという人は、一度決めると、横車を押してでも、実行させてしまう人であることは、咲も知っていた。
「それでは、明日ちょっと、寸又峡に行ってみよう。」
「わかった。あたしも行ってみる。」
咲は、杉ちゃんに同意してみることにした。
その翌日。杉三と咲は、富士駅で待ち合わせて、二人で電車に乗り沼津駅に向かう。そこから御殿場線に乗車して、駿河小山駅で降りた。周りには、そこで降りそうな客もなく、駅に出たのは、杉三たちだけだった。
二人は、駿河小山駅で降りると、駅前で眠そうに待機していたタクシーに乗り込んで、タクシーに酒井病院に言ってくれるように頼む。タクシーの運転手は、珍しいところに行きますなと言ったが、そんなことは平気だった。とりあえず、行ってくれと頼むと、タクシーは重い腰を上げて、走り出した。
「はい、つきましたよ。ここです。」
運転手は、ひとつの建物のような場所で、タクシーを止める。
「ほえ。随分古ぼけた建物だな。」
杉三がそういうと、咲もさすがにここはという感じの顔した。何だか、古い学校の校舎をそのまま改造したような建物であった。でも確かに木の看板があって、しっかりと毛筆で、「酒井病院」と書いてあった。
「よし、入ってみよう。」
杉三が、正面玄関から、中に入った。今時珍しく、自動ドアではなかった。いちいち、ドアをよいしょと開けなければならなかった。
「ちょっと怖いくらいね。」
咲はちょっとたじろいでしまうが、
「まあいい、ちょっと聞いてみよう。」
杉三は、すぐ近くにあった受付に行って、眠そうな顔をしているおばさんに、
「あの。僕たち、花村義久先生に会いに来たんですがね。」
と、言ってみる。すると、おばさんは、はあ、という顔でふたりを見た。
「あんたさんたち、会いに来たの?」
「はい。そうだけど、いけないの?」
そういう聞き方はするのかと思われるが、これが杉ちゃんのやりかたであった。
「いいえ、きっと花村さんも、よろこんでいると思いますよ。ここに来てる人は、みんな浦島太郎みたいな顔してますから。誰かに見舞いに来てもらうなんてほとんどないんですよ。先生方は、見舞いに来てほしいみたいですけどね。」
と、受付はそういうことを言った。咲はその意味がよく分からなかったが、杉三は分かってしまったらしい。
「浦島太郎って言ったってさ、乙姫様のごちそうもないんだろ。ただ悪いことをしないように、良いもの与えて閉じ込めとくだけさ。それを吉とみるか凶とみるかは、一般のやつらがすることだよ。」
そういってからからと杉ちゃんは笑った。
「じゃあ、花村さんという人はどこにいるんだ?ちょっと顔を合わせてもいいか、教えてくれ。そうしたら、ちょっとはいらしてもらおうぜ。」
「はいはい。えーと、エレベーターで、三階に行ってください。そこから入ってすぐのところです。」
「おう、わかったよ。ありがとうな。たまにはこうして見舞いに来る奴がいるってことは忘れないでくれよ、おばちゃん。」
杉三はそういって、エレベーターと書いてある方へ向かっていった。咲も急いでそれについていった。
本当に古ぼけたエレベーターに乗って、杉三と咲は三階に行った。エレベーターは、本当にただのはこという感じがして、なんだか乗りにくいエレベーターだった。
「えーと、あ、書いてある。花村義久ってたぶんここね。」
咲が、一番近くにあった個室の表札を指さして言う。
「よし。入るぞ。花村さん!」
杉三は、えへんと咳ばらいをして、入り口のドアを開けた。花村がベッドの上に座って、なにか書いていた。
「花村さん。花村義久さんでよろしいでしょうか。」
花村は、水穂さんと同様で、痩せて窶れていた。やっぱり、どこか弱い人、という印象を与える人であった。だけど、大きな丸い目は、黒く美しく、そこだけは正常なんだなという事も示していた。
「あの。」
杉三は、もう一回挨拶する。
「あのな、正直に、言わせてもらうが、この人は、お前さんのお弟子さんの一人である、上浜富子さんの、同級生なんだ。ほら、お前さんも知ってるよな。上浜さんが、藤川という人を、殺めたという話。それで、こいつはどうしてもお前さんに聞きたいことがあるんだって。ちょっと答えてやってもらえないかなあ。」
杉ちゃん、もうちょっと、声のキーを抑えてしゃべってくれないかなと咲は思った。杉ちゃんの言い方は、どうしてもやくざの言い方に見えてしまうので。
「ほら、用件は言ったから、お前さんの言いたいことを、ちゃんと言ってみな。」
と杉三が咲に目くばせする。
「あ、は、はい。」
とは言ったものの、偉い先生を目の当たりにして、咲も、すぐに言いたいことを言ってみろと言われてもしっかり言えなかったのであった。そういうところは杉ちゃんのように、人を選ばずずけずけと言えるような能力はない。
「あの。花村先生。あたしは、上浜と大学で同級生だったのですが、、、。」
「バーカ!そうじゃなくて、ちゃんと要件を言えよ。僕らはそのために来たんだろ。」
杉ちゃんがそういうので咲は、さらに困って、一生懸命言いたいことを思い出そうとしていると、
「いいえ、悪いのは、わたしの方ですから。どうぞ、おしかりたいことは言ってくださって結構ですよ。」
と、急に花村が言ったので、さらに面食らってしまう。
「悪いのはお前さんの方って、じゃあ、お前さんがどんな悪いことをしたんだよ。」
杉三がそういうと、
「ええ、彼女は、一生懸命やってくれておりました。悪いのは、むしろ藤川の方だったのではないかと。彼女ほど、古典にまじめに取り組んでくれている人は滅多にいませんでしたよ。」
と、花村は答えた。それもまた妙だなと咲は思った。つまり、藤川のほうが悪人という事になると、また話が違ってくる。
「それでは、一体、、、。」
咲が聞くと、花村は、お話いたしましょうと言って、杉三たちにこう語り始めた。
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