追憶
増田朋美
第一章
追憶
第一章
今日は特に寒く、みんな冬の恰好、つまりマフラーとかストールをつけて、外を出歩いていた。この頃晴れた日はものすごく暑いのに、雨が降ると極度に寒くなる日が続いている。そんなに寒くても、元気な人は、平気な顔をして出かけたがるから、マフラーやストールを忘れていくという忘れ物が、駅やバス停では多発している。大体の人は、忘れた人を責めてバカにする。まあそうだったとしても、そんなことを気にしないで多くの人は生きているが、しかし中ではそれに耐えられず、鬱になったり、結果、死に至る人もいる。
その日、浜島咲は、バスに乗って富士駅へ向かっていた。ちょうど苑子さんと打ち合わせをして別れ、その帰りだった。バスの中の人たちは、なんだか疲れ切って、なんで自分だけがこんな目にア合わなければならないんだろうという、被害者意識であふれている。そんな顔をしている人は、咲は嫌いだった。だから、そういう人たちの顔は見たくなくて、いつも下を向いていた。
不意に、自分が誰かに見られているような気がした。誰だろうと思って、座席のほうを見ると、ひとりの和服姿の女性が、自分の顔を見てにこりと微笑んだのである。あれ、この人誰だっけと咲が一生懸命思い出そうとしていると、
「思い出していただけないみたいですね。大学時代、フルートのはまじと呼ばれていた、浜島さんでいらっしゃいますよね。」
と、その女性はそう声をかけてきた。
「あ、あ、いや、その、確かにあたしは、浜島咲ですけど、そのあたしをどうして知っているんですか?」
咲がそう言うと、
「思い出していただけませんか?私、大学で声楽専攻だった、富子です。」
という彼女。
「とみこ、、、。」
咲が一生懸命思い出そうとしていると、
「もう忘れちゃったんですか?私、上浜富子ですよ。まあ確かに、大学を卒業してから、何十年もたってますからね。かなりむかしの話だから、忘れちゃいましたか。」
と、彼女は言った。上浜と聞いて咲はやっと、ああ、あの声楽専攻の、上浜富子さんか、とやっと思い出すことができた。
「ああ、ああ、上浜さんだったんですね。ごめんなさい、やっと思い出すことができました。」
「嫌ねえ。まあでもやっと思い出していただけたからよかったわ。」
「ごめんなさいね。あたし、最近物忘れが激しくなっちゃって。正直困ってますわ。上浜さんこそ、あたしのことをよくわかってくださいましたね。」
「咲ちゃんは、あんまりあの頃と変わっていらっしゃらないから。」
二人は、中年のおばさんらしい形式的な挨拶を交わして、にこやかに笑いあった。
「しかし、上浜さん。」
と、咲は言う。
「しかし、どうしたの?」
「い、いやあね。そんな江戸褄なんか着て、いったいどうしたのかと思って。誰かの結婚式にでも出たんですか?」
と、咲は今まで感じていた疑問を言ってみた。
「あら、私が着物を着て、まずかったかしら?それに、これは江戸褄じゃなくて、訪問着よ。私はまだ、独身だから、江戸褄という着物は、着られないわよ。」
と、富子はにこやかに笑った。着物の色が黒だったので、咲は黒留袖と勘違いしてしまったのであるが、富子はそんなことも知らないのというような、表情ではなかったので安心した。
「ああ、ごめんなさい。上浜さんが訪問着着るなんて、一寸意外だったわ。」
「まあ、気にしないでよ。着なきゃいけない事情もあるのよ。それより、咲ちゃんはどこで降りるの?」
不意に富子が聞いた。
「ええ、この後は駅前で降りて、自宅へ帰るバスに乗り換えるわ。」
と、咲がその通りに言うと、
「カフェにでも寄っていかない?なんだかまだ、身の上話、したりないし。」
と、富子は言うのだった。咲も富子のあまりの変わりぶりに驚いたので、身の上話を聞きたくなってしまった。咲は笑顔でOKサインをした。
しかし、富子さんも、こんなに上手に着物を着こなせるようになるなんて、本当に意外だった。大学時代の彼女は、着物なんかまるで縁のないような人だったのに。人って、本当に、ほんの些細なことで、変わってしまうんだなあと咲は思った。
富士駅の前でバスは止まった。二人はバスを降りて、駅の近くにあるカフェに向かった。カフェはちょうど食事時でなかったため、空いていた。そこはちょうどいいと思った。富子と咲は、ウエイトレスの案内で、一番端の席にすわった。ウエイトレスが注文を聞くと、二人はとりあえずコーヒーを頼んでおいた。
「しっかし、意外だったわ。上浜さんが着物を着て、出歩くなんて。」
咲が改めてそう言うと、富子は、
「そんなに不思議かしら?」
とにこやかに笑った。
「ええ、びっくりしたわよ。正直に言ったら、上浜さんが着物なんて。大学時代の事を考えると。」
「まあ、確かにそう思われても仕方ないかもしれないわね。」
富子は、ウエイトレスがもってきたコーヒーを飲んで、ふうと息を吐いた。咲が覚えている彼女は、
軽い感じの学生で、化粧も派手で、何だか娼婦みたいな恰好をしていた大学生だった。まあ、今時の大学は、そういう感じの服装で、当たり前という時代なのだが、、、。
「まあ色々あってね。大学を出た後すぐ、小規模な劇団に入ったのよ。でも、なんだか人間関係がうまくいかなくて、長続きしなくてね。」
と、富子はまたコーヒーを口にしてそういった。
「其れでね、私、劇団をやめて、それからなんだかエアポケットに入った見たいに、何もしたくなくなっちゃってね。五年くらい、学校にも、会社にもいかないで過ごしてた。いわゆる引きこもりだったのよ。家族には、早く働け働けと急かされて、余計に精神がおかしくなっちゃったわ。大人のくせにって思うかもしれないけど、あたしは何もできなかったのよ。大学時代、何も勉強しなかったことを後悔してね、自殺を図ったことだってあったわ。」
そういう富子さんは、根っからのチャラい人ではないんだなと咲は思った。
「其れでね、何回か精神科に入院したりしたの。でも、三回目に入院した時にね、あれが運命の分かれ道だったのよね。其れで隣の部屋に入院していた人が、お箏教室の家元である、花村義久先生だったわけ。そこですぐに仲良くなって、退院したらすぐに、花村先生の下に駆け込んで、弟子入りさせてもらったのよ。そして、師範免許もらって、今は、小さいながらもお箏の教室をやらせてもらっているわけ。そういう訳でお稽古には着物で出ているの。だから今は、着物は大事な仕事着よ。これでお分かりになりました?私が、着物で出歩いてるの。」
「ま、まあ、上浜さんがお箏の教室?」
咲はびっくりして、そんなことを言ってしまった。
「ええ、今は、花村会の一員にさせてもらってるわ。そりゃ、洋楽関係に就職した人だったら、たいした幸せじゃないというのかもしれないけど、あたしは今は幸せよ。あたし、歌が得意だったからね、歌のある古典箏曲もすぐに覚えることが出来たわ。人生は無駄なことはないっていうけど本当ね。声楽、真面目じゃなかったけど、一応習ってたから、高音だってすぐに出せるから。ピアノに比べたら、お箏は難しい技術もいらないし。だからあたしは、初めから、お箏を弾く運命だったんだって、自分で感づいているのよ。音大に行ったのは、ちょっと寄り道したような、そんな感じね。」
そう語る富子に、咲はちょっとうらやましく思った。
「そうなの。上浜さんは、お箏で生計を立ててるのね。お箏と言えば流派があるでしょ。なんの流派なのよ?」
咲が聞くと、富子さんは、
「はい、山田流よ。」
と、にこやかに答えた。
「山田流!じゃあ、人数が足りなくて、ポップミュージックとか、クラシックを編曲したりとか、そういうこともするの?」
「いいえ、そんなものはしないわよ。花村会は、古典を売り物にしてるから。」
咲が聞くと、富子さんはそう答えた。咲は余計にびっくりしてしまって、
「だって、山田は教材の入手が大変じゃないの。古典なんて、あの何とか堂という出版社が、倒産しちゃって、教材の入手ができないって聞くわよ。」
と、山田流の現実を言ってみた。
「そうなのよね。それはうちでも重大な問題よ。山田は古典を入手できないって、バカにされれるのはしょっちゅうよ。でも、花村先生は、古典の本を、正確に言えば巻物みたいなものを持っているんだけど、それを書き写して使用する許可をしてくれているから、あんまり心配してないわ。花村先生も、昔のお師匠さんみたいに、頭ごなしに叱るような教え方をするようなタイプの人ではないし。だから、あたしたちは其れでよいことにしてるわ。」
と、富子さんはにこやかに言う。しっかり対策を取っているのか。
「そうかあ、そんな風にちゃんと工夫をしているのね。あたし達の教室ではね、もう古典なんて、捨てることにしちゃった。たまにやりたい人も出るけどさ、もう手に入らないんだし。わざわざ苦労させる必要だってないと思って。」
咲は思わず、自分の事を、話してしまった。
「あら、咲ちゃんもやってるの?お箏に関わっているのかしら?」
と、こちらも意外そうな顔をして、富子さんが言う。咲はこの際だからと、自分の現在の事、つまり下村苑子という邦楽の先生と一緒に、お箏教室をやっていて、自分は、尺八奏者の代わりに、フルートで参加しているという事を話した。
「へえ、咲ちゃんも邦楽に関わる仕事に就いたのね。それじゃあ、咲ちゃんとあたしは、敵同士という事になっちゃうわね。」
と、富子さんは、なるほどという顔をした。
「敵同士?何よ其れ。だって、あたしたちは戦争をしているわけでも無いじゃないの。」
咲が思わずそう聞くと、
「戦争をしているわけじゃないけど、うちの花村先生は、下村苑子先生の事を嫌ってるの。ああいう人は、邦楽をぶち壊しにしてるって。古典こそ、次世代に必ず生き残るための、素晴らしい音楽にならなければいけないって、花村先生は主張して。」
富子はそういうが、その顔は笑っていた。
「じゃあ、あたしと会ったことはまずかったの?」
「いいえ、咲ちゃんはただのお手伝い何だから、そのまま続けていてくれればいいの。あたしみたいに、箏の弾き手になった人は、ちゃんと、邦楽に関わる人間として、一生懸命邦楽をやっていかなきゃいけないけどさ。」
咲がそういうと、富子は優しい顔をしていった。
「よかった。ちょっと安心したわ。」
咲はちょっとため息をついた。
「ねえ咲ちゃんさ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど?」
富子は、咲に聞いた。
「咲ちゃんさ、一個だけでいいから、守りたいもの持ってる?」
「ええ?そんなこと言われても、、、。」
いきなりそんなこと言われて、返答に困ってしまう咲であったが、
「あたしは、ちゃんとあるんだ。それはね、あたしが守りたいものなんて、本当にちっちゃいものかも知れないけど、でも、あたしは、それをちゃんとやって、生きていこうと思ってる。」
富子は、シッカリと、自信をもっていった。
「上浜さん、具体的に何よ?よくわからないわ。」
咲が聞いてみると、
「ええ、花村先生と、古典箏曲。あたし、頭は悪いけど、ここだけはちゃんとしようと思う。若いころ、根無し草だったから、もうその罰もしっかり受けたし、これからはちゃんと生きていくことにする。」
富子は即答した。
「古典箏曲を守るの?」
思わず聞いてしまう咲であったが、富子はええ、と意思を曲げなかった。
「そうよ。だってあたしは古典箏曲に拾ってもらったようなものだし、それがなかったら、ただの田舎の、何にもなれない、社会的には愛されない、地球のごみにしかなれなかったもの。」
「そうかあ、そんなことを堂々と言えるなんて、上浜さんはすごいと思うわ。あたし、尊敬するし、心から応援するわよ。」
咲はにこやかに笑って、富子にそういった。
「上浜さんはよかったわね。そんないい出会いに恵まれて。うらやましいわ。」
「咲ちゃんも、守りたいものとか、守りたい人とか、そういうモノを、早く見つけるといいわよ。それがあると、本当に人生観が変わるから。」
富子は穏やかに言う。その口調も、大学時代の彼女とはぜんぜん違っていた。そうかあ、と咲も考え直して、あたしもそういう出会いが欲しいなと、ため息をついた。
「じゃあ、私、もう帰るわ。また明日はお箏のお稽古があるの。練習しなくちゃ。」
と、富子は椅子か立ち上がった。
「先に帰るけど、今日は咲ちゃんにわざわざ来てもらったんだし、お礼を兼ねて、支払いはしとくわ。咲ちゃんは、ゆっくりしていってね。」
富子は、そういって伝票を持ち、レジへむかって歩いて行った。
「上浜さんかあ。」
咲は人間というものは、変わろうと思えば変われるんだなあと思った。だって、大学の時の上浜富子さんは、勉強も何もかもただやらされていると主張して、何もかもくそくらえのような感じの人だった。とても将来に向けて一生懸命という人ではなかった。宿題もやらないで遊んでばかりいて、誰に対しても反抗的な人で、よくそれではだめだ、勉強しろと、大学の教授たちに叱られてばかりの人だったのである。
「そんな人が、あんなふうに、一生懸命な人になっちゃうなんて、信じられないわ。」
一体どんなことがきっかけで、富子さんはそういう生き方に変わってしまったのか、そこが不思議で仕方なかった。出来る事なら、彼女の生き方を変えてしまった花村義久という人に会ってみたいなあという、気持ちにならないでもなかった。一体その人はどんな人物なのだろうか。
そしてその数日後の事である。
「何々、バラ公園に女性の遺体が発見されたって?」
警視の華岡は、頭をかじりながら、刑事課の部下に言った。
「はい、そうなんですよ、警視。被害者の女性は、藤川節子さん。バラ公園の近くで、和楽器の箏の教室をやっていました。年齢は、47歳。中年の女性ですね。」
と、部下はとりあえず事件の概要を言う。
「で、遺体はどこに?」
華岡が聞くと、
「はい、死因を調べるため、司法解剖にもっていきました。」
と、別の部下が答えた。
「警視。とりあえず、処置は終わりました。」
と、汗を拭き拭き、監察医の山田先生が、刑事課に入ってきた。丁度、解剖が終わったところらしい。
「えーとですね。死因は、毒物を飲まされたことによる中毒死です。彼女の自宅には、テーブルに湯飲みが置いてありましたので、それに混入されていた可能性があります。死亡推定時刻は、昨日の夜18時あたりだと思われます。ですので、彼女は、殺害された後、バラ公園に運ばれた可能性があります。」
と、山田先生は、こう述べた。部下たちも華岡も、それを各自のノートにしっかりとメモを取っている。
「という事は、殺害と、死体遺棄を、同じ人物がしたのではなく、別の人物だった可能性もありますね。」
一人の部下が言った。
「じゃあ、その藤川さんが、誰かともめていたとか、近所とトラブルがあったとか、そういうことは?」
「ええ、お箏教室では、特に問題はない、有能な師範だった様です。生徒さんからの評判は上々で、生徒さんの中には、恨みそうな人間はおりません。ですが。」
華岡が聞くと、部下の一人が、そういうことを言った。
「ですが?」
「ええ、ただ、これはどういっていいのかわかりませんが、藤川さんが所属している箏曲の会の家元と、軋轢があったという事がうわさされています。何でも、藤川さんは、家元と、教室で使用する曲をめぐって、かなり対立していたようですので。」
部下が言うと華岡は、なんだか単純な事件だなと、腕組みをしていった。
「ええ、確かに家元が、藤川さんを邪魔だと思って殺害したというのなら、単純な事件ですよ。しかし、家元は現在富士市から離れて療養中ですし、そういう訳ですから、殺害はできません。」
「じゃあ、誰か、家元に近い人物がいたという事だろうか?」
「ええ、今、師範名簿を入手して、師範の中で、藤川さんの下へ行った人物がいないか、調べているんですけどね。警視、またぼけちゃったんですか?」
部下は、華岡を呆れた顔で見た。
「すまんすまん。俺は、大きな事件が多すぎて、忘れるのに本当に苦労しているんだ。忘れようと思ってたら、また大きな事件が降りかかる。」
華岡がそういうと、部下たちも、山田先生も、あーあという顔をする。
「もう、一つ一つの事件を大切にしろって言ったのはどこの誰ですか。警視でしょ。」
ノンキャリアの老刑事が、ちょっとあきれた顔で華岡を見た。
「まあいい。で、今のところ、師範名簿に載っている弟子たちの中で、藤川とトラブルになったものがいたら、すぐ教えてくれ。」
華岡がそういうと、
「ええ、そうですね。今、何人かの師範を調べているのですが、何しろ、十人以上いるわけですから、なかなかデータ化するのも難しいんですけどね。」
と、部下の刑事たちは言った。確かに、花村から師範免許をもらったものは、富士市だけではなく、都内や、他の県にもいるので、調べるのは大変である。
「ええ、まあ、遠方に住んでいるものは、明らかに藤川さんを殺害するということはできませんから、其れは除外します。ですが、一人だけ、アリバイが確定していないものがいましてね。その名前はえーと。」
部下の刑事たちは、頭をかじった。
そしてその翌日の事、何となく、テレビをつけた浜島咲は、目の玉をぶっつけられたような衝撃を受けた。
「今日未明、富士市のバラ公園で、女性の遺体が発見された事件で、女性と関りがあった、箏曲家の女が逮捕されました。女の名は、同じく箏曲家として活動している、上浜富子、、、。」
思わず咲はテレビのリモコンを落とした。あれだけ明るそうに話していた富子さんが、まさか容疑者になってしまうとは、、、。
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