実存主義の恋
ツチノコ
恋は実存
女の子に告白された。
これは僕史上初めてのことで、もちろん「ちょっと気になってるからさ、あたしら付き合わない?」と言われた時は、ドキドキして有頂天になって、その場で「いいよ」と答えた。けれど、その夜一人で冷静に彼女のことを考えてみると、僕は彼女を愛せるのか不安になる。彼女に問題があるという訳ではなく、相手云々と言う前に、今の僕は、他人を愛せる人間ではないと思っているからである。僕は自分のことしか考えられない狭量な人間で、フリーターで経済力もないし、学もない。自信がないから活力もなく、日々生きていくだけでしんどいし、自分のことで手いっぱいなのだ。僕は、今まで彼女ができたことないし、友達もいないに等しい人間で、それは人付き合いを疲れるものと考えているからであった。そう思うのは、自分の自由が奪われている感覚があるからである。
僕は他人の評価をものすごく気にする性質で、少しでも他人からの評価を落とさぬよう、知人の前では仮面を被るのが常であり、それがひどく気を病むのだ。相手のために自分を殺しているようで、疲労がピークに達すると、僕は彼らを筋違いにも恨むのだ。気を遣い、疲れ、恨み、自己嫌悪に陥る。僕にとって人付き合いなど、この繰り返しである。こんな僕が、人を心から愛せるはずがない。人を愛するということは、自己犠牲の精神がないといけないと思う。僕みたいな人間が人を愛せる時、それは相手より優位に立ち、異論も反論も許さない、正に支配している状態の時ではないだろうか。
たとえば、僕のアルバイト先に、仕事に関して右も左も分からない後輩が入った時がそうで、僕は自然と慈愛に満ち、彼らに優しく出来て、世話を焼く。失敗すればフォローをし、こちらから積極的に話しもかける。僕が人を愛しているというのは、こういう時しか見られないのである。だから、プライベートでは風采が上がらない僕に支配できる人などいなくて、嫌でも仮面を被るから、疲労して嫌気がさすだろうなと分かっていて、それでも彼女を愛することなどできるものだろうか。そもそも、男性にとって女性を愛するということは、性欲から発するもので、彼女じゃなくても別によくて、僕はたまたま告白してくれた彼女に、性交のチャンスを見出したから付き合うことをその場で選んだのではないだろうか。こんなことを考えてしまう時点で、僕には恋愛をする資格などないのかもしれない。
答えが分からない問いに一人で悩んでいても、いつの間にか泥沼に嵌って同じ結論を行ったり来たりして苦しむのが常の僕は、唯一、素で相談できる母親に電話をかける。女性関連の悩みなので、僕は母親に期待する。
「もしもし」
「もしもし、今大丈夫?」
「いいよ、どうしたの?」
「実はさ、バイト先の女の子に告白されたんだ」
「へー。で、どうするのよ、あんたは?」
「いや、付き合っていいのか分からなくてさ。俺って将来性ないじゃん?」
「そう思うなら、付き合ってちゃんと定職につけばいいじゃない」
「いやー、アルバイトだけでもしんどいのにどこかで正社員なんて無理だよ、まだ」
「まだって、いつになったら出来るのよ。いい?そういうのは追い込まれないと出来ないものよ。その女の子?と付き合って、結婚したいと思ったり子供を産みたいと思ったら、何が何でもお金を稼いで安定した生活を送る為に、働かなくてはいけなくなるの。そう、自覚するのよ。それには、ちゃんとしたところで正社員として働かないといけないと思えるのよ。あんたがその子と付き合う気があるのなら、これはチャンスよ」
「でも、そうしたら自分のやりたい事も出来なくなるし、不自由になるくない?」
「はあー。あんたって何でこうも私の言う事が届かないのかしら。あんたの好きにしたら?」
僕は母親との電話を打ちきる。母親と僕はまったく違う生き方をしている人間で、母親が今の僕の年齢の頃は、すでに僕を女手一つで育てていた。母親からしたら、僕がなぜこうも頑張らないのか理解出来ないのであろう。素で相談できるといっても、いつも意見は食い違うので、僕はその度に、母親に応えられない自分が嫌いになるし、そんな自分を肯定化して守る為、僕を理解してくれない母親を憎む。だからいつも後悔する。今回もそうだった。でも、母親の意見は蔑ろにしていいほど軽いものではなく、ある種真実を帯びている含蓄のある言葉なので、僕は無視せず考慮する。もしかしたら、僕は変われるかもしれない。恋愛をしたことがないのだ。こればっかりは付き合ってみないと分からない。
彼女は僕と同い年で、勤め始めたのも同時期だった。けれど、僕はアルバイトで、彼女は正社員としてである。彼女はいつ見ても、明るさが内から弾けており、どんな人と話す時も笑顔で、いろいろな人と仲良くやっているように見えた。これまで居酒屋でアルバイトをしていたということもあって、要領が良く、仕事の覚えも早くて職場にすぐに馴染んでいたのだが、女性とは恐いもので、完璧に思える彼女だが、裏では彼女を非難する人(女性)はいて、そんな彼女も表面上は気付いてないように振る舞って仲良くやっているように見えても、やっぱり気付いていて、裏ではその人を密かに糾弾しているのである。人見知りで、自分からは基本、人に話しかけず、人間関係を極力さけている僕がこんな裏側をしれたのは、彼女が僕に愚痴ってくれたからである。彼女は僕にも分け隔てなく話しかけてくれ、僕たちはよく喫煙所でタバコを吸いながら、職場のことやプライベートのことを語り合った。彼女は、同い年で地味な僕に遠慮をすることがないようで、これまでの男性遍歴だったり、世間に疎い僕の偏見に凝り固まった考えを真っ向から否定してきたりとしたが、それがかえって僕の気を軽くさせたのは言うまでもない。けれど、外面用の仮面は外せないし、軽くなったと言っても、すこしばかり、他の女性と話す時よりもというまでだけれども。だけど、彼女は僕をいいと思ってくれていたのだ。
付き合うと決まった僕たちだが、すぐにこれといって変わることはなく、彼女は告白前と何ら変わらない。やはり、慣れているのだ。僕の方はすごく緊張するせいで、今の彼女といると今までより余計疲れるだけだった。なんか付き合う前の方が、もっと自然に振るまえた気がして、本当に付き合って良かったのかな?と思えてくる。僕は余計受け身になってしまい、情けないことに自分からどこかに誘うなんてことは出来なかった。けれど、ようやく僕たちの関係が動き出す。初デートだ。今度、休みを合わせて一緒にどこかに行こうよ、と彼女が提案してくれる。僕は藁にもすがる気持ちでそれに乗る。正直彼女とどう接していいか分からなくなっていたのだ。
「どこか行きたいところある?」
「私、動物園に行きたいの!!」
動物園かあ・・・。子連れの家族が行くイメージしかなかったので、そこに行きたいとは意外である。確かに、茶髪で化粧をしているが、幼さなく見える部分もある彼女には、似合っているのかなあ。でも、それってつくられた偽物のイノセンスじゃないのかなあ・・・。僕は本当に人を素直に愛せない人間である。自分が愛せるように相手を貶すなんて、最低だ。
初デート当日。まず、女性のビジュアルや雰囲気は、仕事とプライベートでまったく違うということに驚かされる。職場で見慣れていたはずの彼女も、髪型を変え、服装を変え、化粧を変え、まるで別人のようであった。確かに顔の形も表情も変わらなくて、彼女は彼女なのだが、職場では見たことのない違う一面に、僕は揺さぶられ、彼女を可愛いと思った瞬間、不思議なことに幸福感を得た。
つまり、目の前の彼女は、すでに僕にとっては特別な存在となっていたのだ。
彼女は今日、僕の為に休みを取ってくれて、貴重な時間を割き、オシャレをして僕に会いに来てくれた。それは、彼女の中には彼女を突き動かす僕がいるということで、彼女越しに僕は、彼女の中の僕を見る。彼女の目に写る僕は、今までとは違う僕だけれど、彼女に好かれているであろう僕が誇らしかった。そこで気付くのだ。
僕の自意識というものは、僕の中にあるのではなく、外にあるのだと。
例えば、今、僕の足元には石がある。石があると認識している僕がいる。けれど、石がなくなれば、石があると認識している僕もいなくなる。だから、この場合、こう考えられないだろうか。石の中に僕がいるのだと。石という「もの」に、僕の、石があると感じる自意識があって、それは、僕の中にあるのではない。そうだとすれば、今周りすべてにある、木、アスファルト、雲、太陽、風、すべての観測できる「もの」に、僕の自意識、僕の存在があると言えて、それを見て感じて、僕は自分を認識しているのだ。僕の周りから、全てのものがなくなったとき、僕は僕を見失うはずなのだ。
僕は母親に自由を訴えた。もし、彼女を愛することが出来たとしても、それは僕の自由を縛るものになるのではないかと思っていたのだ。見当違いであった。なぜ、自由を求めるのか。それは自分という存在を拡張したいという欲求からではないか。自分の意思を、世界に認めさせるためではないか。さきほど思いついた、自意識というものが、自分の内にあるのではなく外にあるとしたら。他人を含めた「もの」という存在にしか、自分がいないのだとしたら。そうだとしたら、他人を愛するということは、他人の中の自分を大きく強固にすることと同義になる。他人を愛せれば愛せるほど、相手の中に存在する僕は、認められ信頼され大きくなる。それを観測して初めて、僕は喜びと充足感と自信をもって、自由になれるのだ。それの一つの方法として異性を愛すれば、その人と恋人となれ、家族となり、子を為し、その子がまた子を産んで、と愛せる存在がどんどん増えていき、僕という存在は彼らの中で育まれ、僕はあらゆる場所と時に、存在し続けられる。相手に愛されることこそ、本当の自由ではないだろうか。
入園した僕たちは、普段実際に見られない動物たちがいる非日常空間を、共に楽しみ、感動を分かち合った。僕の感動は、動物たちがいて、彼女がいて、僕以外のものから成り立っているのだ。僕の中に、感動する僕がいるのではない。
動物を見て思う。彼らは子孫を残すためだけに、喰らい喰らわれる弱肉強食の世界を生き抜いている。他のことはしない。なぜなら、動物は自由を履き違えないからで、本能的に自由とは何かを知っているのだ。
僕も彼らのように、したたかに生きようではないか。
そのためには、まず恋をすることである。
実存主義の恋 ツチノコ @tsuchinoko_desu
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