8.38.誘拐
サレッタナ王国の王子の自室。
暖炉で薪が割れる音が部屋に響くほどに静かである。
部屋は暖かくなり、分厚い上着ももう服かけに掛けてある。
絶対に暖炉の火を絶やすまいと、多くの薪が積み重ねられており、もう十分だろうとも思える量があるのにも拘らず、使用人が更に薪を運んできていた。
豪華なベッドで眠るのは、黒い短髪の男性。
名前を零漸。
クライス・ウェイタルナ・スニッパーが親友と言い張る人物である。
「……早く目を覚ますのだ……零漸……」
クライスは彼の目覚めを、あれからずっと待っていた。
父親であるクラウスから何度か注意をされてしまったが、そんなことはどうでもいい程に、クライスは心配であったのだ。
鳳炎は休眠状態であると言っていたが、それがいつまで続くかもわからない。
外は次第に雪が解けてきており、ようやく春の兆しが見え始めてきたところではあるが、まだまだ気温は低かった。
一度目が覚めた時は本当に嬉しかったのだが、鳳炎が書庫を借りるときにまた眠りに落ちてしまった。
また目覚めないものかと期待していたのではあるが、あれ以降は起きる素振りすら見せていない。
寝返りすらもうっていないのだ。
だが体は不思議と温かく、息もちゃんとしている。
その確認だけが、今零漸は生きてくれていると教えてくれていた。
ここ暫くは何にもやる気が出ない。
零漸との約束は未だに果たされないのだ。
あの時の彼の登場がどれだけ印象的だったかなど、言うまでもない。
そして、零漸だけが初めてクライスに“指摘”をしてくれた。
誰もが同じような笑みを浮かべて同じことしか言わない。
だが当時はそれで気分が良かった。
だから変わる気もなかったし、何かを教わろうなどという気も起きなかった。
それを変えてくれたのは零漸だ。
父上のように、騎士団長のようにかっこよくなろうと、自分なりのかっこいい姿を演じ続けた。
だがそれは演技であり、振舞ではない。
零漸と初めて会ったあの夜、彼はそう教えてくれた。
『いいっすか? かっこいい動きっていうのは、意識している内は絶対にできないっす』
『意識せずにするとよいのだな?』
『ですけど、クライスはそのかっこいい動きを知っているっすか?』
『うぐ……』
『じゃあまずはそれを勉強するっすよ。まずはマント無しで』
『なんだとぉう!?』
それを思い出して、少し笑ってしまった。
零漸と喋っていたのは二、三日程度。
本当に短い日数だけでしか話をしていないというのに、彼のいない世界はどうしようもなく静かであった。
冬が終われば、起きるのだろうか。
それが本当かどうかも、分からなくなってきていた。
これ程にまで寒い季節が嫌いになったことは今までに一度もないだろう。
大きなため息をつきながら、クライスはベッドに顔を突っ伏する。
顔を上げたら手が動いていたりして。
そんな風に思って見上げてみるが、動きは一切なかった。
コンコンッ。
ノックの後、返事を待たずに男性が入ってくる。
もうクライスが返事を返さないのは知っているからだ。
「王子、お食事が……」
「いらない」
「……ハァ……。お体に障ります。零漸様が起きた時、貴方様が痩せていたら悲しみますよ」
「……」
クライスはそれを聞いて、手を執事のバスティに差し出す。
彼はそれを見てほっとし、運んできた食事を部屋の中に入れた。
(零漸様は、一体何処まで王子を悲しませるのか……)
食事のための準備を整えながら、バスティはそう考える。
王子がこの部屋から一歩も動かなくなるほどに、彼は王子を大きく変えた。
こんなにまで誰かに執着している人間など、この歳まで生きてきたバスティですら見たことがない。
彼は何を持っているのか。
それが純粋に気になっていた。
目を覚まさなければ、分かることも少ないだろうが。
「どうぞ」
「……ありがとう」
「私にお礼の言葉など不要ですよ」
「だが零漸は、誰にでもお礼は言えるようにならないと駄目って言ってたのだぞ」
「そうでございますか」
王族がそんなに物腰が低くてどうするのか。
人の上に立つ立場として、その辺は零漸にも教えておかなければとバスティは考える。
起きた後の方が、今の何倍も大変そうだ。
「ん?」
王子が食事をしているのを見ていると、ふと腹部に違和感を覚える。
なんだと思って見てみると、そこからは銀色に輝くナイフが腹から突き出していた。
ナイフに付着している血が、自分のものだと教えてくれている。
一拍おいて腹部に激痛が走る。
そのナイフはすぐに抜かれ、バスティは前のめりに倒れてしまう。
「……えっ? バスティ……?」
「はぁ~い、準備完了~。んー、声出せないのが悲しいわー。もっと大声で喜びたいよね」
彼女は頭には二本の小さな角が生えており、随分と黒い格好をしていた。
元より黒い肌の彼女に、その服はあまり似合わない。
どこが肌で何処が服なのか、一度見ただけではわからないだろう。
だが、唯一首元だけは白いスカーフをしているので、顔の位置は誰でもすぐに理解することができる。
すると、部屋の中にぞろぞろとローブを着た人間が入ってくる。
ローブにはどこかの国の紋章が刻まれており、サレッタナ王国の兵士ではないことは分かった。
「ば、バルパン王国の紋章……!」
「あら、なんだお利こうさんじゃ~ん。引きこもりの坊やかと思ったけど、そうじゃないみたいね」
彼女が小さく指を鳴らした瞬間、入って来たローブの人間たちはクライスを拘束する。
小さな体で抵抗する事などできず、簡単に捕まってしまった。
暴れるがいとも簡単に担がれてしまい、何処かへと運ばれる。
そんな中でも、クライスは零漸の方を気にかけていた。
だが最後に首に強い衝撃を喰らって視界が暗転し始める。
その中で最後に見たものは、ローブの人間が零漸に何かの魔法を使っているところ。
最後に聞いたのは……。
「利用しちゃいましょう」
悪魔の女性の、そんな声だった。
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