第2話:銀老と幕の内弁当
その女子生徒の顔は、うっとりとしていた。
現在の時刻は昼の十二時半。保健室の先生は今日も職員会議に出ているらしい。怪我人も病人も出ることなく、この空間には僕ともう一人の少女しかしかない。
僕は食事にこだわりはないので、今週は安価で手軽なパンで済ませるつもりだ。余ったお金はお小遣いにしていいって母さんが言ってたし。
向かいにいるクラスメートは対照的な考えの持ち主らしい。食欲も、性欲も。
飯野さん。
この春、同じクラスになった地味な印象の女の子。ショートカットの髪こそ赤みがかった茶色で目立ちやすいが、体格は小柄でクラス内の発言力も弱い。僕は昨日、この大人しそうな少女の重大な秘密を知ってしまった。
飯野さんは、ごはんに性的欲求を抱いてしまうらしい。
「素材のままなら何とも思わないんだけどね」と飯野さんは語る。
料理や食べ物として認識した瞬間、目の前の食事を擬人化してしまうようだ。食物を使用した性行為に興奮する
つまり彼女にとって食事とは、性行為そのものといっても過言ではない。
今日の飯野さんの昼食は幕の内弁当。白胡麻のかかったライスのお供として並んでいるのは、筑前煮、厚焼き玉子、高菜の漬物、そして焼き鮭だ。
「はうんっ……」
昨日と同じように、白胡麻ごはんを少しずつつまんでは身体をビクビクと震わせる。この光景にもようやく慣れてきた。
「……飯野さんって、家でもそうなの?」
セッ……食事の最中に話しかけていいものかと逡巡したが、意を決して質問する。
「うち、両親が共働きだから」
紙パックのお茶をストローで吸いながら答える飯野さんは、少し寂しそうだった。
……うん、つまり家での食事は大抵一人で、普段もそうだってことだよね。
「休みの日はテーブルにお金が置いてあるから、コンビニでお弁当買ったり出前とったりすることが多いかな。今週は昼食用に2,000円もらったよ」
飯野さんが今食べているコンビニの幕の内弁当は498円。それと校内の自販機で買った紙パックのお茶が80円。昨日のレンチンごはんが家から持参したものなら、残金は1,422円。残り三日なら、まあ足りるだろう。
「昨日はやっぱり、節約でレトルトにしたの?」
「ううん、ごはんはオーソドックスの代表格っていうか、ほら、いきなりハードなのは身体がもたないし」
笑顔で答えているが、さっぱり理解不能だ。
でも、食事について語る飯野さんは生き生きとしていた。教室でもこんな風にしていたら、もっと親しみやすいのに。
「さて」と仰々しくつぶやいた飯野さんの目つきが変わる。ついにおかずに手を伸ばすようだ。
彼女の言い方を借りるなら、「ここから先は、昨日より踏み込んだ関係」といったところだろうか。
まずはメインの焼き鮭から。真ん中に割りばしを入れ、それをさらに半分にほぐす。小さなピンク色の身を純白のごはんに敷き、口の中へ。
「……」
もくもくと咀嚼する音だけが保健室に響く。
次は筑前煮のタケノコをチョイスする。こちらは単体で。
「……」
飯野さんは無言を貫いている。昨日みたいにもっと喘いだり悶えたりするかと身構えていたから、意外だ。
「幕の内弁当はね、【
「は?」
「銀髪のおじいさんのこと。私はそう呼んでる。文豪みたいなトンビマントを羽織って、いつも落ち着いていて。銀縁眼鏡で、目が切れ長で、髪はオールバックだからどことなく近づきがたい雰囲気なんだけど、表情はいつも穏やかなの。触れる時はいつも優しくて、柔らかくて。ごはん単体とはまた違った種類の安心感があるんだよ」
飯野さんは当たり前の道理を説明するかのような口調で、訥々と言う。
うん、さっぱりわからない。
昨日は飯野さんの背後に一瞬、擬人化したパックごはんの彼が見えたような気がしたが、冷静に考えればありえない話だ。きっと状況に戸惑うあまり、僕の心が幻を生み出してしまったのだろう。
ひとたび結論が出れば、謎の緊張感もほぐれるというものだ。僕は安心してメロンパンの包みを開ける。
「……ふうっ」
「ん?」
心なしか、飯野さんの顔が赤くなっているような。
「……んっ、ふっ、ふぅっ、ん」
気のせいじゃない。
箸を進めるたびに、飯野さんが荒ぶっていく。
「あっ、あっ!」
大きめの鮭を含むと同時に、ついに情欲が発露した。
どうして。さっきは落ち着くって言ってたのに。
「そう……銀老はね、若い男の子みたいにがっつかないの。一口め二口めでいきなり攻めてくるんじゃなくて、むしろ前戯にしっかり時間をかけるんだよ」
「……」
「肉のような力強さも、揚げ物のような暴力性もない。野菜や魚中心の優しい薄味。それこそが幕の内弁当の醍醐味。最初は物足りないと感じても、いつの間にか舌が馴染んで虜にされてしまうの。気付いた頃には身体が言うことをきかなくなってて、銀老のなすがまま」
「……つまり、スロースターターってこと?」
返事はなかった。
代わりに、トンビマントを羽織った銀髪オールバックの老人が、飯野さんを後ろから両腕で包み込んでいた。銀縁眼鏡の奥の瞳こそ優しい色をしているが、その手つきは年齢を感じさせない力強さで、中学二年生の少女が抵抗できるはずもなかった。
小刻みに跳ねる飯野さんを間近に、僕は心をかき乱されていた。
食べ始めたばかりのメロンパンを持ったまま、唖然と見つめることしかできない。
薄味のシイタケや厚焼き玉子で油断させたところに、塩気の強い鮭が飯野さんの口内を貪っていく。
「ふうっ……お粗末様でした」
幕の内弁当を完食した飯野さんの双眸にハートが浮かんでいたのは、気のせいじゃないと思う。
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