5-3

 翌日。

 最近朝が早い麗華に、神崎が来たらしばらくして退室してくれるよう断りを入れた。

 麗華はその理由まで問うてくることはなかった。ただ「分かったわ」と頷いて、新しいタバコの封を開けたのだ。

 そんなやり取りがされていたことなんて露ほども知らない神崎が、事務所に書類整理に来たのは九時五分前。時間までにはきっちり出社してくる姿が健気でもあり、義理堅さを感じさせた。


「おはようございます」


 まるで普段と変わらなそうに見える神崎に、「おはよう」といつも通り挨拶を返した俺と麗華。

 麗華と俺にコーヒーを淹れた神崎は、そのまま書類整理の仕事を始めた。俺は受けた依頼書を確認するフリをして、なんとか時間を潰す。

 朝の情報番組を少しだけ視聴していた麗華は、気づいたように席を立つと、


「あたしはちょっと用事があるから外出るけど、後のこと二人に頼んでいいかしら?」


 手はず通りに席を空けてくれた。

 ついでに、神崎が仕事を追えて早々に帰らないような一言も付け加えて。


「あ、はい、分かりました」

「零司も、しっかりやりなさい」

「分かってるよ、いってらっしゃい」

「ええ、行ってきます」


 鍵を机に置くと、バッグを携えた麗華は一人事務所を出ていった。

 振り返りざまに見せた表情は、何かを憂慮しているように眉をひそませた、寂しげなものだった。

 事務所に残った俺と神崎。

 特に会話をすることもなく、気まずい沈黙の中流れるのはニュース番組だ。世間の時事ネタを飽きもせずに垂れ流している。

 なにか話そうと思い、


「――そういえば、ここ最近騒がせてた連続怪死事件の報道、されなくなったよな」


 咄嗟に口を突いて出てきたのは、核心にも迫ろうかというシリアスな話題だった。

 振るネタをマズったかと思いはしたが。

 現に、ひと月足らずで六人も犠牲者を出していたのに、美夜が連れ去られた辺りからこっち、報道がパタリと止んだのは事実だ。気にならないという方が嘘だろう。

 ネタ振りにも別段おかしな挙動は取っていなかったと思うし、大丈夫だと思う。

 内心ヒヤヒヤしながらも、神崎の顔色を窺ってみる。

 書類の収められたファイルを胸に抱き、こちらをじっと見返す彼女と目が合った。

 怪しまれたかと思い一瞬心臓が跳ねたが、


「……そうですね。平和が戻って、都民は安心でしょうね」


 まるで他人事のように、神崎は関心がない素振りをして作業に戻る。

 やはり、堅牢な壁を崩すのは容易いことじゃない。

 切り出そうにもなかなか話しが出来ないまま、そして昼になった。

 昼食は出前を取り、神崎と事務所で食べた。寿司桶に盛られた色とりどりの寿司ネタを前に、神崎は珍しそうな顔をして覗き込んでいた。どうやら寿司を食べたことがないらしい。

 ひとしきり眺めた後――俺が食べ始めたのに合わせ「い、いただきます」と遠慮気味に手を合わせて、寿司を口にした。

「美味しいっ」と目を輝かせて感激する様子は、いつか赤面した時のように年相応に見えた。

 お嬢様は特に甘ダレの穴子がお気に召したようだ。俺の分を分けてやると、素直に「ありがとうございます」と礼を述べた。

 食事中は停戦しているみたいな空気感に、少し安堵している自分がいる。

 けれど、話さなければならない。たとえそれが、神崎にとって残酷な事実を突きつけることになったとしても。

 ……昼飯を食べ終わったら話そう――。


 楽しそうに食事をする神崎に、負い目を感じつつもした決意も空しく、無為に過ぎ去った数時間。

 声をかけるタイミングはいくらでもあった。分からないことを訊ねてきた時にでも、無理やりに持って行くことも出来ただろう。

 けれどそんなチャンスをことごとく棒に振った。

 その間、麗華からのメールが何度も届いた、「話はどうなったの?」

 返信の文句は変わらない、「まだ話せてない」だ。

 自分が情けなくなってくる。こうしてソファから、神崎の後姿をチラチラと見ることしか出来ないなんて。

 そんな折。


「――麗華さん、帰り遅いですね」


 突然かけられた言葉に、「ぅえ?」と上ずった変な声が出る。

 気づけば事務所がオレンジに燃えていた。すでに世界は黄昏ていて、事務所の窓が綺麗な夕映えを切り取っている。


「もうこんな時間なのか」


 それを自覚した途端に、自身のヘタレさに泣きたくなってきた。こんなにも意気地がなかったのかと。

 肩を落として頭に手をやり、ため息を一つ。

 ふとそこで、気になることがあった。


「つうか……神崎がこんな時間まで残ってるなんて珍しいな」

「もう忘れたんですか? 後のことは二人に頼むと言われたことを、」


 麗華の言葉を律儀に守ろうとしてるのか。やっぱり真面目だとわずかに笑みをこぼすと、


「それに、なにか話したいことがあるようですし……」


 その一言に、俺は弾かれたように神崎を見た。

 ファイルを棚に戻し、こちらへ向き直った神崎は、どこか困ったような戸惑っているような顔をして見返してきた。


「……どうしてそう思うんだ?」

「私のことをあれだけチラチラ見ていれば、嫌でも気づきます」


 やっぱり態度で丸わかりか。まるで成長しない自分に嫌気がさし、頭を垂れる。

 小さくため息をつきながら、神崎は応接ソファの俺の対面に座した。

 居ずまいを正すと、それで――と前置き、


「私になにか用ですか?」


 感情の伴っていない事務的な声に驚き、俺は顔を上げさせられた。

 意識して彼女の目を見やる。

 なるほどと、あの時麗華が言っていた言葉そのものであることをようやく識った。

 瞳の奥が伽藍洞で、闇い。

 なにも見通せない真っ暗な部屋、そんな印象を受ける。

 恐怖を感じるモノじゃなく、冷たいんだ。凍えてしまうほどの、寂しい景色。そこに一人、膝を抱えて蹲る神崎の姿が投影された。

 そんな部屋に、もう一つ闇を放り込むような真似をしようとしていることへ、躊躇いが生まれた。本当に話していいのだろうか、話すべきなのかと。

 神崎がひた隠しにしてきたことだ。きっと誰にも知られたくない事実だろう。

 知られたくない過去は俺にだってある。麗華しか知らない、俺の真実だ。

 右の脇腹に触れた途端に思い出された過去の映像を、消し去るように俺は強く瞼を閉じた。

 知られたくない過去はもちろんある。けれど、麗華に話して良かったと思える部分も確かにあるんだ。誰かに知ってもらい、赦してもらえたことに安心を覚えた。

 神崎にそれが当てはまるかは分からない。だけど、一人で背負いこんで孤独でいるよりもきっと。解ってやれる人間が聞いてやるだけでも、重荷が軽くなることもあるかもしれない。

 助けてあげなさいと言われた、俺にしか出来ないことだからと。

 頭に浮かんだ麗華の顔に頷き返し、小さくだが力強く拳を握り、俺は決意を固めた。


「――神崎に聞きたいんだけどさ。昨日の夜、どうしてた?」

「昨夜、ですか? 部屋でテレビを見ていましたよ。すみません、いつまでもお部屋をお借りしていて」

「番組は?」

「? ニュースですけど」


 無難だな。下手に番組名を口にするよりも賢い選択だ。バラエティなんかだと、突っ込まれた質問をされたらボロが出やすい。けどニュースなら新聞の番組欄からも内容を想像しづらい。中身を聞かれたとしても、時事ネタを二、三適当に話せば問題ないだろう。どこも報道している内容は似たり寄ったりだからだ。

 これで動揺するかと思ったけど、別段挙動に怪しさは感じない。受け答えも、嘘を感じさせるものじゃない。

 けど、それが嘘であることは解ってる。俺が自分の部屋に入った深夜二時過ぎ、神崎の姿はどこにもなかったのだから。


「でも、それがどうかしたんですか?」

「……本当に部屋にいたのか?」

「いました。そこを疑われる意味が分かりません」

「嘘だな」


 切って捨てると、不快そうにムッと眉根を寄せて神崎が睨みを利かせてきた。

 わずかに闇い部屋が揺らいだ気がする。


「……どうしてそんなことが言えるんですか?」

「深夜二時過ぎ。ふと気がかりを覚えて部屋に行ったら、お前の姿がなかったからだよ」

「入ったんですか……、…………」


 口元に手を当て、信じられないといった顔をして呟く神崎。途中飲み込みはしたが、続くはずだった言葉はきっとこうだ『断りなく』

 間借りさせてもらっている身として、口には出来なかったんだろう。

 だから俺もあえて、自分の部屋だからとは言わなかった。


「どこに出かけてたんだ、あんな時間に?」

「………………」


 だんまり、か。


「匿えって言っていた割に、不用心なんじゃないのか?」


 依頼内容を出せばなにか反応があるかもと期待したが、やはり神崎は口を割らない。

 沈黙は肯定を意味することもあるということを、失念しているようだ。

 気持ちを切り替えるために細く、そして長く息を吐く。

 ここから先は俺のこと、そして神崎の核心を突く話だ。

 昼に淹れたまま放置してあった冷たいコーヒーで喉を湿らせ、口火を切った。


「神崎には話してなかったけどさ、俺には夢を見るっていう特殊な力があるんだ」

「……夢? 寝ている時のですか? そんなの私だって見ますけど」


 ようやくまともに口を利いてくれたと思ったら、馬鹿にするなというニュアンスだ。

 俺、嫌われてるのかな。苦笑い、わずかに肩を竦めて続けた。


「その夢だけど、そうじゃない。俺のは予知夢とか過去夢とか、そういう類のユメだ。知らない土地の見ず知らずの人の未来を見たり、過去を見たりする。例えば事件とか、事故とか。何度か警察に情報提供して、解決できた件もあるんだ」


 ふうん、と関心があるのかないのか、よく分からない相槌を打つ神崎。とりあえず話を聞いてくれることに胸を撫で下ろす。


「それで、その夢が私にどう関係あるんですか?」


 なかなか言い出しづらく二の足を踏んでいた話題を、神崎から促してくれた。

 なるべく普段通りを心がけながら、神崎の瞳を見返して言った。


「昨夜その夢を見たんだ。予知夢だった。神崎と、神崎にそっくりな銀髪赤眼の女が公園で話してる夢だ。深夜に目覚めた俺は、気になって自分の部屋に戻った。そしたらお前はいなかった」


 まるで痛みを抱えるように体を抱くと、神崎は目を逸らして表情を曇らせた。

 その姿は言い知れぬ恐怖に怯えているようにも見えた。


「それは、夢の話でしょう? 現実じゃなくて、夢の中の出来事ですよね。それに、深夜の話でしたら、屋上に星を見に行ってたんです」

「本当にただの夢ってだけなら、笑い話にも出来たのかもしれないな。けど俺は現実に、その銀髪の女を真昼の公園で見てるんだ」


 屋上の鍵は麗華が管理してる。嘘には触れず事実を口にすると、神崎がわずかに息を呑んだ。俺はその音を聞き逃さなかった。畳みかけるようで心が痛む、けれど構わず続けた。


「それだけじゃない。お前と出会う前も、廃街のランドタワー屋上にいたそいつを夢に見てる。都内ホテルの上階で血液らしきモノを飲んでる姿もだ。あの女は一体、なんだ?」


 やわらかく問いかけると、神崎は体を震わせていた。エアコンは二十七度設定だが、寒いわけではないだろう。怖れなのか不安なのかは分からない。突き付けられた事実に、神崎は口を噤んだまま何も語ろうとはしない。

 落ち着いて話してくれるまで待とう――。

 そう思い待つこと一時間。落陽は間もなく完全に沈むだろう逢魔が時。

 一向に口を開こうとしない神崎渚砂。

 俺は一旦ブラインドを下げに立ち、事務所に電気を付けた。その足で自分のと神崎のカップを持って給湯室へ。洗った後、それぞれのカップにコーヒーを淹れて応接ソファに戻る。

 神崎の前にカップを置いても、礼はなかった。

 しばらく待っても何も話してはくれない。気まずいからか逃げるのが嫌だからか、神崎は席を立とうともしない。梃子でも動かなさそうな雰囲気だ。

 アンティーク時計の針音と呼吸音だけが一定のリズムを刻む。そんな重い沈黙の根競べに、先に音を上げたのは俺の方だ。

 小さく息をつき、「――ちょっとした昔話を聞いてくれるか?」と切り出した。

 逸らしていた目だけをこちらに戻し、うんともすんとも言わず気まずげな視線を投げてくる。

 聞いてくれるなら、それでいい。


「まず、そうだな。俺と麗華は血が繋がっていないんだ」

「……本当の姉弟じゃ、ない?」


 話が逸れたことに安心したのか、神崎はなんだかんだで反応してくれた。

 それに頷いて答える。


「異母姉弟とか、従姉弟とかってわけでもない。正真正銘、赤の他人だ」


 自分の過去をこれから話そうとしている。過去を知る人間を増やそうとしている。知られたくはない過去なのに。けれど、構うものか。

 神崎の暗い部屋に、小さな明かりでも灯してやれるのなら。


「俺は八歳の頃に、両親に捨てられたんだ――」

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