5-2

 夢に見られることを、期待してなかったわけじゃない――。

 眠りが浅くなることも厭わずに、俺は日に何度も寝入った。時に睡眠薬まで服用して。

 エントランスじゃ扇風機しかなく暑さで寝苦しいため、麗華に事務所をしばらく閉めてくれるよう頼み、ソファベッドを借りてまで。

 それでも無情に日は過ぎて、五日を跨ごうとしていた。

 この日、寝ることにも疲れた俺は、久しぶりにエントランスの自分のベッドで休んでいた。目隠しにパーティションで区切られた、四角いプライベート空間。

 真白い天井、纏わりつく夏の暑さ。汗ばむ肌を撫でる扇風機の温い風、少し埃っぽい空気のにおい。首振り音に耳を傾け、外で騒ぐセミの鳴き声から逃避するように目を瞑る。

 気怠さに身を任せていたら、今まで感じていた現実が溶け、うとうとといつの間にか非現実のそれへと俺は誘われていた。そう、念願だった夢をようやく見られたのだ――。



 白黒の世界。

 過去夢の中に身を置く俺は、どこかの豪邸の一室で、少女が一人の女性と遊んでいる光景を見ていた。おままごとのようなセットが並んでいるが、刃物を模したものだけはどこにも見当たらない。


『――渚砂、今度からは怪我をしないように、ちゃんと気をつけなきゃダメよ』


 渚砂、ということは神崎の母親か。今の神崎にその面影を見ることが出来るほど、目鼻立ちの整った綺麗な人だ。

 それと、少女の名を知って驚いたことがもう一つある。この世界の中で、神崎の髪の色が白いことだ。神崎の髪は歩行者天国で出会った頃から黒だったはず。白いということは、色素の薄い髪色ということ。直近で見覚えがあるといえば、銀髪だが……。はっきりとした色の断定は過去夢では難しいところが欠点だな。

 どうやら神崎が怪我を負ったようで。母親は心配そうな眼差しと、どこか憂慮を孕んでいるような表情で娘の髪を優しく撫でていた。

 神崎は申し訳なさそうに眉尻を下げながら、母親の顔を上目で見つめる。


『ごめんなさい、お母さま』

『別にあなたが謝ることじゃないわ。あんなところにペティナイフを置いていた使用人が悪いのだし。あなたも注意はすべきだったけど。でも、遊びたい時は今度から必ず私と、ね。ちゃんと約束出来るかしら?』

『はい。遊びたい時は、お母さまにちゃんとお声をかけます。約束します』

『いい子ね。絶対に約束よ』


 そう言って神崎の手をとった母親が、労わるように人差し指を撫でた。おそらく怪我をした指なのだろうが、そこに絆創膏などはなく。ただ、剥がした跡のような線が薄っすらと残っているだけだった。


『あの人にだけは、このことを知られてはいけないのだから……』


 最後にそう小さく呟いた母親の目つきは、どこかにいる「あの人」を強く睨むように鋭く細められていた――。



 霧が晴れるように景色がサァ――と転換する。

 今度は小学校の低学年くらいだろうか? 少し大きくなった神崎が自室らしき部屋で一人、クラシックを流しながら、なぜか耳を塞いで机に突っ伏している場面だ。窓から陽は差していないため夜だろうと思われる。

 やはりここでも神崎の髪は白い。

 しかしなぜ音楽を聴きながら耳を塞いでいるのだろう……。耳が痛むのか、それともなにか耳を塞ぎたくなるようなことから遮断しているのか。

 俺は耳を澄ませるようにして環境音へ意識を集中させる。

 すると、部屋の外から激しく言い争う声が聞こえてきた。


『あなたは――をなんだと思っ――ですか! ――あの子のことが大切――ですか!』

『世の中金だ。渚砂が――はいくらでも――入るだろうからな。――価値としては唯一無――点では、もちろん大切――いる』

『私が言っているのはそんなことじゃなくてッ!!』


 その時、突然――バン! と神崎の部屋の扉が叩かれた。小さな神崎もビクッと体を震わせ、竦むように体を縮める。

 クラシック音楽のせいで会話が少々聞き取りづらかったが、ちょうど再生が終わったようで。母親の激昂がより響いた。同時に神崎の部屋の空気が一変し、緊張と恐怖とで張り詰めたのが感じられる。

 岳人と母親の口論の理由はなんとなくだが察せられた。金が絡むことに神崎が関わっているらしい。それを母親が窘めている状況だろう。


『あの子の人としての幸せを、あなたは一度でも考えたことがありますか!』

『この屋敷にいればこそ幸せだろう、それ以外になにがある。籠の鳥は大人しくしていればいい』


 決然とした岳人の言葉に、母親は口を閉ざした。しばらくの沈黙の後、重い息を吐いた母親が静かに告げる。


『あなたの考えは分かりました。私とは決して相容れないようですね。だったら渚砂は私が守ります。これ以上、あなたのモルモットになんかさせません』


 踵を返したようで、苛立つように鳴らしたヒールの音が徐々に離れていく。


『お前に力などない。どうするつもりだ、詩織』

『私に力がなくても、公に訴えればどうとでもなります。あなたの研究を警察に届けますので覚悟だけはしておいてください』

『そうなればお前もただでは済まないだろうがな』

『私は覚悟の上です。あの子があなたとここに居続けるよりはよほどいい!』


 決別の言葉を吐き捨てた母親は、それを最後にどこかへ行ってしまった。

 一人残されたであろう岳人は、なにかぶつぶつと呟いた後――『……俺だ。やはり無駄だったな。ああ、警察に届けるとまでのたまっていたが、まあアレは本気だろう。仕方ない……ふん、構わん。あとのことは頼んだぞ、甲斐谷』

 言動から察するに不穏な用事を頼み、母親とは逆方向へと歩きその場を後にした。



 それからも、まるで走馬灯のように景色が切り替わる。

 詩織に対しての先の岳人の言動。まさかなと思っていたが、それは想像通り最悪の形となったようだ。神崎の年齢は先ほどの夢の内容とほぼ変わらない、ということはあれからまもなくしてそれは起きたのだろう。

 机の上の母親の写真を見つめ、神崎が泣いていた。その背中を背後からじっと見ていたのは、岳人の側近の帯刀だった。

 一見そこになんの感情もなさそうに見える。だが、真一文字に結んでいる口元が少しだけ震えているようにも見えた。こいつの立ち位置がいまいち読みづらい。なにを考えているのか分からないところは恭介に通じるものがある。


 しかしあの時神崎が言っていた、「私に母はいませんから」という言葉。続けて「別に気にしてない」と告げた後の、テレビに映る岳人を見ていた冷たい瞳。

 いまにして思うと、すでに心を氷漬けにし親への感情を捨て去っていたのかもしれない。

 母親の死を知り泣いていた少女が、気にしていないと断じるまでになるのに、どれだけ辛い思いを重ねればいいのだろう。喜楽の感情で上書き出来ていたようにはとても思えない。

 麗華が前に言っていた。神崎の瞳の奥が闇いと。

 母親がいなくなってからのいままでの人生、岳人に言われるままずっと生きてきたのだとしたら、あまりにも救いがない。

 悲しみに濡れる涙声を耳奥に残響させ、やり場のない感情を残したまま、やがてモノトーンの世界は剥がれていった。



 そうして舞台はカラーに移り行く。いつか猫と戯れる、神崎に似た銀髪の女と初めて遭遇した、あの公園へと。

 過去から現在へ移り変わるこのパターンは久しぶりだ。今までで二度ほど見たことがある。

 一つは自分のこと。そしてもう一つは、一人の人間が殺人を犯すまでになった経緯のような映像の断片だ。

 それが今になって、神崎に関して見られるとは思いもしなかった――。

 月明かりに照らされたまさにその場所で、神崎渚砂とその銀髪の女が二人、向かい合って何かを話している光景だった。


 映像に砂嵐のノイズがかかっている。だからこれは予知夢だ。

 遠からず近からぬ未来の出来事か。と思いながら二人の動向を眺めていると、突然銀髪の女が芝に倒れた。驚いた顔をして駆け寄る神崎。その手には、いつか夢に見た枯葉のように波打つナイフが握られていた。

 神崎はおもむろに、自身の左手首にナイフを宛がう。

(――やめろ!)

 俺は声も出せず、身動きすら出来ないことを分かっているが、声をかけずにはいられなかった。

 ナイフを持つ手を今にも引こうとしたその時――銀髪の女が咄嗟に神崎の手を掴む。その腕は、以前見た時よりも痩せていた。酷く不健康そうに。


 どうしてだか泣いている神崎に、その女は首を左右に振った後、やわらかく微笑み返した。いまにも枯れてしまいそうな、百合の花を連想させる儚い在り方だ。

 ここまで声は届いてこないが、そんな女の手を握りしめ、頬を涙で濡らしながら神崎は何度も同じ言葉を繰り返している。

 唇の動きからなんとなく察するに、『ごめん、ごめんね』

 その時、胸の内がざわりと騒いだ。言い知れぬ不安が全身を総毛立たせる。

 俺の不安が夢の中で現実となったのは、それから間もなくのことだ。

 神崎が生き写しのような女を抱きしめ、慟哭する姿を見てそれを直感した。

(……死んだ、のか――)

 そこで、まるで見届けた頃合いを計ったように視界が黒く欠けていく。



 遣る瀬無い感情を抱いたまま、俺は意識を現実に戻された。

 目を開けると、薄闇に曇る白天井。首を振るたびに軋むボロい扇風機が、これが現実だとはっきりと実感させる。いつの間にか夜も更けていたようだ。

 なんとはなしに傍らに目を向けるも、そこに美夜の姿はない。分かってはいたけれど……。

 少しぼんやりとした意識の中、ふと自分がきつく拳を握り込んでいることに気づいた。ゆっくりと拳を解くと、次第に胸中に渦を巻き出したのは不信と不安だ。

 ない交ぜになった感情に引き起こされるように跳ね起き、俺はエレベーターに駆け込んだ。

 時刻は深夜二時を過ぎている。こんな時間にエレベーターを使うことがまずないため、ゴウンという駆動音に少し不気味さを覚えた。魔物に食われ、その胎内に取り込まれたような感覚。

 たった三階分上がるだけなのに、その時間が酷く長く感じられる。

 これこそ、杞憂ならそれでいいことだ。


「……いてくれよ」


 焦燥感を打ち消すように、ポケットの中でスペアの鍵を強く握りしめた――。

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