3-5

 事務所へ着くなり、汗が気持ち悪いからと早速部屋へ戻った美夜。

 俺もシャワーを浴びようとふらふらの体に鞭打とうとし、そこでふと気づいた。


(そういえば、神崎がいるんだった)


 さすがにシャワーを借りる為だけに部屋に戻るっていうのも気が引ける。所員である以前に、依頼主だしな。神崎が事務所にいる時に借りることになってはいるものの、わざわざ追い出すのもなんだ。

 そう慮り、手近にあった新聞紙を畳んで、団扇代わりにして扇ぎながら逡巡していると――、突然携帯が着信を告げた。

 ワンピースのポケットから取り出し、メールボックスを開き確認する。美夜からだった。


『レイちゃん一緒にシャワー浴びよ』ハートの絵文字でデコられた短文に、俺は『入るかバカ』とだけ打ち返し送信した。

 まあ、適当にタオルで拭いておけばいいだろう。そう思ったのだが。やっぱり拭いただけでは不快感はぬぐい切れず。

 結局、美夜に頼み込む形でシャワーを借りる羽目になったのだ。

 ちなみに、浴びたばかりだというのに一緒に浴室へ入ろうとした美夜は、丁重に脱衣所から放り出して鍵をかけておいた。だから安心してシャワーを使うことが出来た。

『こんなことなら鍵変えとくんだったぁ!』とは閉め出された美夜の戯言。扉の外で頭を抱えているのが容易に想像できた。



 シャワー後。すっかり男の自分を取り戻した俺は、誰も居ない事務所のソファで涼んでいる。

 珍しいことに、麗華は出かけているらしい。恭介もいない。美夜は部屋でごろごろしていたため、ここに来るのはもう少し後だろう。

 誰もいない事務所で、こっそりとハーゲンダッツを食べる。なんとも贅沢なひと時だ。

 アンティーク時計の針音のみに耳を傾け、チョコレート味に舌鼓。ほろりとした苦さに甘味がオブラートに包まれ、舌の上で溶け合い絡まっていく実に大人味なチョコアイスだ。

 今日一日の疲れが吹き飛ぶようだった。

 が、そんな安息は扉が開く音によって早くも霧散した。


「あら、もう着替えてたの。残念だわ」

「開口一番それかよ」


 麗華は有名ブランドの袋を手提げ、自分の机まで来るとそれを放り投げた。つばの広い黒い帽子を脱ぎながら、


「そんなことより、ずいぶんと早かったのね。尾行は上手くいったの?」

「………………」


 口を噤んでいることに察したのか。

 麗華は「あら、そう」とさほど気にも留めてなさそうに呟く。


「ところであたしのアイスは?」

「冷凍庫ん中」


 と伝えると、軽い足取りで給湯室へ入っていった。麗華が戻ってきたタイミングで、帰り道に気になっていたことを訊ねる。


「姉さん、体に出来た傷痕ってさ、今も残ってたりする?」


 麗華はスプーンで掬ったアイスを口に入れ、しばし甘さとほろ苦さを堪能してから口を開く。


「……ん。なに藪から棒に? あんたはあたしを突っついて蛇でも出したいわけ? マジシャンじゃないんだけど」

「いや、真面目な質問なんだけど」


 そう告げると、質問の意図を測りかねるように小首を傾げた。ふざけていないことが表情から伝わったのだろう、小さく吐息をつきながらも「そりゃあるわよ」と答えた。


「ていうか、原因はどうあれ、大なり小なり一切ない方がおかしいでしょ」


 子供の頃に転んでついた傷痕が、肘の辺りに今も薄っすらと残っている。麗華はそう教えてくれた。


「でもそれがどうかしたの?」


 怪訝な表情で見てくる麗華に、いや、と首を振り、じゃあと次の疑問を重ねる。


「――靴擦れの傷ってさ、一日二日程度で消えたりするものなのか?」

「なに、靴擦れしたの?」

「俺じゃなくて美夜がだけど」


 そう答えると、麗華はなるほどと何か満足げに首肯した。


「傷の程度にも因るでしょうね。ちょっと擦れたくらいならすぐに消えるかもしれないけど。ああ、それでも数日かかるか……。皮がめくれてるならけっこう時間はかかると思うわ」

「血が出てる場合は?」

「常識的に考えても一日二日じゃ傷痕は消えないでしょ。傷すら塞がらないわよ」


 呆れたようなその一言に、心の内側で疼いていた違和感は不信感へと変わった。


「……だよな」

「それにしても、そんなにも美夜のことを心配するなんて。やっぱりね……」


 んふふ。と何か愉快気に笑う。

 どうやら美夜の心配をしていると思っているらしい。確かに美夜の傷も心配ではある。けど、無理をさせなかったからか酷いことにならずに済んでいるため、傷痕の心配はしていない。

 あまり思い返したくもないことではあるが……。

 綺麗な肌だと言ったが美夜にも確かに傷痕はある。昔、実父に酒瓶で殴られた際に出来た傷が、腰の辺りに残っているのだ。目を凝らさなければ分からないものではあるけど、美夜にとっては呪いのようなものだ。記憶から消し去りたい過去なのに、傷痕を見るたびそれを嫌でも思い出す。

 別に全てを打ち明ける必要はない、そう断ったのだが。俺には全部知ってもらいたいから。一年前にそう言って傷痕のことを教えてくれたのだ。

 けど、美夜に真実を話していない傷痕が、しっかりと目に見える形で俺にも残っている。これは俺にとっての呪いだ。


「……人間誰しも、言いたくないことの一つや二つあるものよ。打ち明けられたから打ち明けなければならない、そんなことはないわ。話したければ話せばいいし、言いたくないなら口を噤めばいい。話さないからといって、そんなことであの子は零司を責めたりしないわよ」


 あの時神崎に言った言葉。そう、麗華からの受け売りだ。

 まるで思っていることを読んだような彼女の声に顔を上げる。そこで俺は初めて、今の今まで傷痕のある右脇腹を見ていたことに気づいた。


「いや、別に――」額と背中が少しひんやりとする。どうやら汗をかいていたようだ。

「あんたが話す気がないことをあたしの口から漏らすつもりもないから、安心しなさい」

「そこの心配はしてないよ」


 そう? と微笑みながらアイスを口に運ぶ麗華。

「チョコ味も美味しいわね」なんて言いながら嬉しそうに食べ進めている姿を見て、彼女が姉になってくれて良かったと改めて実感した。

 今度、抹茶味を買ってこようと思う。


「そういえばさ、恭介はどうしたんだ?」


 話題を変えるため無難なことを訊ねる。


「あれ、言ってなかった? 恭介の依頼も今日なのよ」


 依頼というと例のセレブ妻の荷物持ち、か。

 夫が神崎グループの一会社にて筆頭株主になっているというあれだ。なにか『ブリード』に関する情報を得られればいいのだが……。



 恭介待ち。嫌な響きだが仕方ないことに閉口し、待つこと数時間。

 美夜は明日、朝早いからといって先に部屋に戻っていった。

 待ち人が帰ってきたのは、夜も十一時近くになってのことだ。いつものように「ただいま」もなく無言で帰社した恭介。

 俺は出迎え今の気持ちを慮り、ポンポンと肩を叩いてやる。


「……いきなりなんだ、気持ちが悪いぞ」

「恭介、頑張ったな」


 情報のために身を捧げる見上げた根性に、普段は決して言わない労いの言葉が自然に零れた。


「……ああ、なるほど。お前は何か勘違いしているようだな」


 シニカルな笑みを浮かべて吐いた言葉に引っかかり、首を傾げてしまう。


「前にも言ったが、あんな女いくら金を積まれたところで抱く気はない。情報を聞き出しあの女がシャワーを浴びている隙に、酒に睡眠薬を盛り飲ませて帰ってきたんだ」


 なんだ、そういうことか。帰りが遅かったから、交換条件でも飲まされて相手してたのかと邪推してしまった。――ん? いま情報を聞き出しって言ったか……?


「ブリードについて何か分かったの?」

「ああ」


 麗華に頷き、先刻聞きかじったことを恭介は語った。

 神崎グループは一般向けな株主総会の他、定例で特定の筆頭株主のみを集めた総会を執り行っているらしい。裏ルートで捌く目的で開発した医薬品や健康食品などを限定的にではあるが、試供品として配ってお披露目し品質を見極めてもらう場として機能している。

 そこには配偶者も呼ばれることがあるらしく、件のセレブ妻も呼ばれた。美容にいいものであるとかは、男性よりも女性の方が造詣が深いことからも理解は出来るが……話を戻そう。

 そこで供された物の中に、『Blood Beach』、通称『ブリード』と呼ばれるサプリメントがあったらしい。紅い粉末状の物が入ったカプセルで、ディスプレイに映し出された商品説明には、自然治癒能力の向上であったり傷痕が消える文言が記されていたそうだ。


「どうにも胡散臭い謳い文句だな。それに血塗れの砂浜って……」

「だが効果はあったらしい。別にあの女を信じているわけじゃないが、約一週間ほどで以前あった傷痕が消えたと証言していた。実際に出回っているものは、効果の現れる時間をわざと遅延させて売っているらしいが」


 その言を受けて引っかかりを覚える。


「でもおかしいな」


 何がだ? そう問うてくる恭介に続けた。


「効果はあった、んだよな。ならどうしてもっと世間で話題にならないんだ? 女ってのはお喋りな生き物だろ。覿面で話題性十分な商品なんだ、普通は他人に教えたくなるものなんじゃないのか」


 もっともな物言いに、ふむと顎に手を当てると恭介は訳知り顔を浮かべて返す。


「裏ルートで捌くと言っただろう。これらの商品の利益は、筆頭株主らで等分されるそうだ」


 もちろん――と前置き、神崎が五割持っていくらしいがと付け加える。

 話によると、筆頭株主らが開発費を出し合っているらしい。裏のルートは海外にも伸びているため、配当金は相当額だそうだ。

 要するに、自分たちだけで甘い蜜を独占したいということか。裏で流すということはそれなりに危険なものを扱っているわけで。口走ってリスクを負い、余計な火の粉が降りかかることを危惧しているのだろう。

 中にはこっそり横流ししようとする奴がいないとも限らないが。神崎を追っていたあの黒服たちや帯刀を思い返すと、下手なことをすれば消される可能性もなくはなさそうだ。

 人の口に戸は立てられないとは言うが、命を捨ててまで不利益に繋がるようなことを口外する馬鹿はいない。自然、皆口を閉ざして秘匿する。


「やっぱり、ただのサプリってわけじゃなさそうだな」

「裏でってことも輪をかけて気になるわね」


 表には出せない理由があるのか。それとも単純に裏の方が高値で売り捌けるからか。

 どちらにせよ怪しいことに変わりはない。それに恭介の情報で、間違いなく薬の類が関係していることは分かったのだ。少し悔しいが一歩前進だといっていい。

 悔しさが滲んでいたのか。そんな俺の顔を見て、「どうしたの」――と麗華が問うてくる。


「いや、なんでもない」


 そう答え、やっぱり……と、睡眠回数を増やすかどうかを本気で考え始めたのだった。

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