第四章 疑惑
4-1
幾度となく寝入ったことによる睡眠疲れが逆に功を奏したのか。俺は久しぶりに当たりを引いた。夢見ながら拳を握ったことは言うまでもない。これでようやく俺も役に立てる。
それは自分自身の存在意義と言っても過言ではないからだ。麗華の、姉さんの役に立つこと。麗華はそんなに気負わなくていいと言ってくれたが、そのくらいしか俺には恩を返す術がない。
だから、正直夢に見られたことが嬉しかった。
とはいうものの……。今回の映像は今までとは趣が違う。見える情景全てが白黒なのだ。
俺はすぐにこれが過去夢であると確信する。なぜなら、記憶の片隅のゴミ箱に捨てたはずの、過去の自分を夢に見る時と同じだからだ。
どこかの研究室らしき場所で、幾分か若い神崎岳人と白衣を着込んだ研究者と思しき男が話し込んでいる。肝心の神崎渚砂の姿は見当たらない。
視界に入る様々な機材の中で、炊飯ジャーのようなものと量りみたいなものが印象的だった。
何本もの試験管を前に二人、なにやら話をしてはいるが会話が聞こえてこない。
研究者らしき男は、底部に何かしらのもやもやとした物体が沈殿する、試験管の一つを手に取った。ピペットに液体を吸わせると、試験管の中に微量を注ぐ。
そしてしばらく揺らすと、物体は液体へ溶け出していき、沈殿物は消え完全に溶液と化す。
『――クロ…………確実…………させろ――お前…………約束して……』
何を話しているのか近付こうと思い足を動かそうにも、やはり自分の意思ではどうにもならない。まるでその場に縫い止められたように身動き出来なかった。
明晰夢なのだから多少融通が利いてもいいだろうに。定位置からしか観察出来ないことがこの上なくもどかしい。
定点観測装置かよッ! と苛立ちを募らせもがくも、しかし移動は叶わないのだ。
解っていることだから早々に諦め、少しでも何か情報を得ようと視覚聴覚を研ぎ澄ませて――
と、そこで視界が黒く塗りつぶされていくことに気づいた。
(くッ――もう時間かよ、早すぎるッ!)
睡眠回数過多による眠りの浅さ、その弊害。焦って回数を増やしたことが仇となったか。
(――待てッ)
なんとか掴もうとし腕を伸ばすが、その背には遠く届かない。闇色に侵食されていく世界の中、横顔を見せた岳人の口元に刻まれた厭らしい笑みだけが、眼裏に強く焼きついた。
『クク――この血…………利用…………渚砂…………』
鼓膜の奥に神崎の名をはっきりと残し、やがて意識は混濁していった――。
夢明けの頭痛なく跳ね起きた俺は、ベッドマットを強かに殴りつけた。
もう少し見ていられれば何か解ったかもしれない。後悔は先に立たないが、要領の悪さに自分自身を呪いたくなってきた。
「クソ」小さく吐き捨て額に手を当てる。頭を振ると、
「――レイちゃん?」
どこか遠慮気味な声がエントランスに響いた。それも至近距離から聞こえてくる。
振るった右手側には誰もいない。俺は左側へと視線を移した。そこにはナイトテーブルを背にして不安そうに眉を垂れ、ベッドの縁から顔を覗かせる美夜の姿があった。
「大、丈夫?」
「……なんでこんなところにいるんだよ」
「っ、心配だったから……」
焦燥から険のある言い方になってしまった。言葉を吐いてから後悔では遅い。
つくづく自分が嫌になる。なにも美夜に当たることはないのに……。
横目で様子を窺うと、叱られた子供みたいにしゅんとして俯いている。
悪かった――そう口にしようとしても、声になって出てくることはなかった。
気まずい沈黙が横たわる。シンとした音ですら俺を責め鼓膜に刺さるようだ。
重い静寂に耐え切れず、思わずリモコンに手を伸ばし扇風機を回した時、
「なにをそんなに、焦ってるの?」
廻り出す羽根と首振りの軋み。それらに紛れるくらい弱々しい声音は、けれど耳朶にはっきりと届いた。
「俺は、別に焦ってなんか……」
誤魔化そうとするも言葉に詰まる。傍目から見てもそう思われるほど、余裕がないことが分かりやすいくらい顔に出ていたのかもしれない。
「別にじゃない。レイちゃんここ最近おかしいよ。なんだか生き急いでる感じするもん」
「お前には関係ねえだろ。心配するようなことじゃねえよ」
急所を突くような指摘についムキになりそう反論するも――「あ、」
言った途端、眦に涙を浮かべる美夜と目が合い、言葉を飲み込む。
悲しい顔はさせたくない。泣き顔なんか見たくもない。悲しませないように、泣かせないように気をつけてきたのに。それすら忘却するほど自分が切羽詰っていることに今更気づいた。
ベッドシーツに視線を落とす。静かにだが深く息を吸い込み、長い溜息を吐く。
「……悪かったな」今度はしっかりと声に出た。「美夜の言うとおり、ちょっと焦ってるんだ」
ニュースでは血液を抜かれた死体が見つかったと未だに報道されている。初めてその事件が公になってから、これでもう五件目だ。
目撃者はおらず、現場に証拠らしきものも残されていない。世間では迷宮入りが囁かれ始めている。そして、その殺人犯と思しき女の容姿は神崎渚砂と酷似している……。
だからといって神崎には聞けない。いや、訊いても意味がないと言った方が正しいだろう。麗華に質されても口を割らなかった。あいつの意志は固い。見た目にそぐわず頑固なのだ。
けれど、神崎は間違いなく何かを識っている。このまま泣き寝入ることは許されない。だからなんとしても俺が手掛かりを掴んで、神崎に突き付ける。そして話を聞き出す。
しかし思い通りにいかない現状が、焦燥感に拍車をかけて苛立たせている。
そう、順序立てて内省してみると、幾分か苛立ちが引潮のように下がっていった。
「――俺だけ何の役にも立ってないんじゃないか、ってさ」
けれど、代わりに突き出てきたのは自嘲という岩礁だ。
意図して美夜の顔を見ると、眦に涙を溜めたまま、うんともすんとも言わずただ黙って聞いていた。ややあって目元を拭うと、そんなことない――そう言って俺の眼を見つめた。
「レイちゃんはいつも一生懸命だよ。忘れたの? レイちゃんの夢のおかげで、いくつも依頼が成功したこと。ありがとうって、たくさんの人に感謝されたこと」
思い出して――丁寧に言い置くように、それが大切なことであるように諭してくる。
「麗華ちゃんもキョウやんも。わたしだって……。みんなレイちゃんの力が必要なんだよ」
そう囁いて俺の手を握ってくる。真摯な眼差しに瞳の奥を覗き込まれ、面映い気持ちになった。同時に、必要とされていることに安堵と多幸感が胸に温かく広がっていく。
「……ありがとな、美夜。おかげで目が覚めたよ。弱音吐いてる場合じゃないよな」
ふとブラインドに目を遣ると、漏れてくる光は茜色を帯びていた。
これから暗い夜になるからか、それとも過去の光景を想起させるからか。あまり好きではなかったはずの夕映えを、何故だか穏やかな気持ちで見ていられる自分がいる。不思議だった。
「よぉーし! ポジティブ祝いに、わたしがオムライス作ってあげるっ」
快活に笑う美夜に手を引かれ、事務所へ。
期せずして、美夜特製オムライスを食する運びとなったのだ。
以前言っていた通り、大きなハートをケチャップで描いたオムライスは意外にも美味しい。
正直、料理の腕なんてないだろうと高を括っていたが。
濃すぎることのないケチャップライスはバターの風味が香ばしい。卵なんかは絶妙な半熟で真ん中で割り開かれており、トロっとした中身がふんわりとライスを包み込んでいた。
描かれていたハートの中には『レイちゃん大好き』との文字が恥ずかしげもなく主張していたが……。今は既に半分が腹の中に収まっている。
久しぶりの手料理に舌鼓を打ちながら、対面のソファに座する美夜をなんとはなしに眺めた。
サラッとした生地のオフショルダーのTシャツに、下はぴっちりとしたショートパンツという部屋着スタイル。
食べ進める俺をにこにこしながら眺めてくれるが、俺の目線は自然と扇情的な脚へ。ぴったりと閉じられた膝から、悪いと思いつつも視線は徐々に奥へと向かう。
適度に肉付いたすべすべな太ももは割と見慣れてはいるものの、やはり男の情欲を誘うもので……。弥が上にも鼓動が早くなる。
なんというか、無防備すぎると思うのだが。つと、そういう思考に至る時点で美夜のことを意識しているのだということに気づき、俺は慌てて頭を振った。
と――、急に横から殴られたような衝撃とともに、記憶の枝葉が揺さぶられるのを感じた。
ざわざわと梢が騒ぎ、何か忘却していたものを視界に呼び覚ましていく。
「ど、どうしたのレイちゃん? もしかして、本当は不味かった?」
不安げな声音を無視し、俺はそこを凝視した。いつか見た絵が目の前の光景に重なり、まるで映写されたかのようにそれは結像した。
「ぁ、――れ、レイちゃんどこ見てんのっ」
手でその部分を隠され、同時に焦る声が耳朶を叩いたことで、俺ははっと我に返った。
顔を上げると、頬に朱を散らした美夜が目を逸らしてもじもじしている。
「ぇあ……ち、違えよ、別に変なとこは見てねえっての――あ、ああそうだ、オムライス、オムライスな。美味いよ」
「ホント!? 」
勢い席を立ち、今しがたのことなぞなかったように胸の前で手を組み、喜色満面の笑みを浮かべる。練習してよかったぁ――と安堵の息をつき、再びソファに腰を落とす。
一つ深々と頷き本当であることを示した後、口を開いた。
「ところで美夜、頼まれて欲しいことがあるんだけどさ――」
俺からの頼みごとだと瞬間喜びを見せたが。内容を告げた途端やさぐれた顔つきになる。
「初めてはレイちゃんと入りたかったのにぃ! なんで女の子なのッ」
と反論されるも。それでも何とか頼み込み(借り一つで)、美夜には何かしら理由をつけて実行してもらう運びとなった。
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