2-4

 結果として、黒羽家は美夜を受け入れてくれた。俺の時と同じように……。

 本当、黒羽の家には頭が上がらない。

 俺は俺でこっぴどく麗華から怒られてしまったが、それは甘んじて受け入れた。その時の『あんまり遅いから心配したじゃない!』と言って泣いた、麗華の顔が今でも忘れられない。


 それからの美夜は、約一年、ほとんど口を閉ざしたままだった。けれど次第に重かった口も開くようになり、彼女はつらつらと事の顛末を話してくれた。

 両親の離婚。美夜を引き取った父親はギャンブルや酒に溺れ、彼女をかまいもしなかった。どころか、疎ましく思ったのか憂さ晴らしに美夜へ暴力を振るう事もザラにあったそうだ。

 次第に美夜の存在が邪魔に思えてきたのだろう。ある日を境に父親は家に帰ってくることがなくなり、代わりに借金取りがやってくるようになった。

 連日に渡る怒声と罵声。居留守を使ってやり過ごすにも限界がある。徐々に精神をすり減らし、美夜はついに家を飛び出した。そして当てもなくホームレスをしていたという。


 あの日。俺と出逢ったあの日は、一週間、水分だけは公園などで補給していたらしいが、ほぼなにも食わずの状態だったそうだ。

 保護してから二年が経ち、三年が経過する頃には、俺たちとも打ち解けて美夜は笑顔を見せるようになった。

 そうして、今。いま現在はあんな感じだ。

 いや、元気になって本当によかったと思ってる。けど、そんなことがあったためか、美夜に対して異性というよりは同族意識が働いてしまうんだ。

 どうしても妹以上に見られない自分がいる。

『わたし、いますごく幸せなんだから』か……。あの笑顔の向こう側で、あいつは泣いていたりするんだろうか。


『――次です。神崎財閥の令嬢が失踪している事件で、父親である神崎岳人氏が記者の前でコメントしました』


 テレビに目を向けると、娘の行方不明を嘆く父親の姿が映し出されていた。

 娘に暴力を振るうロクデナシもいる一方で、娘がいなくなったことを心配する親もいるんだな。そんなことを思いながらなんとはなしに耳を傾ける。

 口髭を蓄え、黒髪をオールバックにした、艶のある黒いスーツ姿の男。いつぞや見た黒服の連中みたいだな。


「そういえば城崎さんもお嬢様、だったわよね」

「パーティーを抜け出してきたって言ってたな」

「もしかして、この神崎のお嬢さんだったりしてね」


 失踪者っていうのは、基本的に写真が出るものだと思うんだけど。何故か顔写真が出ていない。ましてや財閥のご令嬢だ。マスコミがネタに食い付きそうなものだけど。

 公開捜査はしてないのか?


「まさか。まあ、顔でも分かれば一発なんだろうけどな――」

「おはようございます」


 その時突然扉が開き、事務所に女性が入ってきた。城崎だ。

 昨日、麗華が一先ずの衣服として渡した黒鴉の制服に身を包んでいる。黒色のブラウスに下はピタッとしたタイトスカート。城崎のスタイルの良さを如実に浮かび上がらせていた。

 白から一転黒い装いとなってもなお、彼女は清艶な空気を醸し出していた。


「ええ、おはよう。昨夜はよく眠れた?」

「はい、おかげさまで」

「そう、良かったわ。そうそう、今ちょうどあなたのことを話してたのよ」


 城崎はどうしてかと不思議そうに目を瞬く。

 麗華がテレビを顎で示すと、城崎もつられて視線を向けた。


「あなたもお嬢様らしいけど、まさか神崎財閥の娘さん。じゃないわよね?」


 他人が聞いたら普段どおりだと思うであろう口調は、俺からしたらかなり含みを持たせたものに聞こえた。探りを入れる時によく聞くトーンの変化だ。


「……違います」

「そう。だからなんだってことでもないんだけどね。あなたのご両親も、ああやって心配してるんじゃないかって思っただけで」

「……私に、母はいませんから」

「それは悪いことを聞いたわ。ごめんなさい」

「いいえ、別に気にしてません」


 城崎はニュースが次へ移るまで、視線を逸らさずただジッと画面を見つめていた。それはどこか冷たくて、初めて会った時の印象とは随分とかけ離れているように思えた。


「それよりコーヒーのおかわり、いかがですか?」

「あら、淹れてくれるの? ありがとう、じゃあお願いするわ」


 麗華からカップを受け取ると、城崎は奥の給湯室へと向かった。カップを洗い布巾で拭いて、再びこちらへ戻ってくる。

 少し不安に思い、俺はつい訊ねた。


「ちゃんと淹れられるか?」

「ん……馬鹿にしないでください。昨日ちゃんと教わりましたから」


 失敗を思い出したのか、城崎は頬を赤く染めてツンとそっぽを向いた。なんだか子供っぽい。

 見栄を張るだけあって、城崎は教わったことをちゃんと実践していた。といっても、カップをセットしてボタンを押すだけなのだが。

 まあ、お嬢様はそんなことすらもしたことがないんだろう。相当な箱入りだ。


「ありがと」

「いえ、お仕事ですので。ほかにやることなどがあったら言ってください。お世話になる以上、きっちり働かせていただきますから」


 カップを手渡して背筋を正し、城崎は真面目な顔をしてそんなことを言った。


「硬いわね。もっと気楽にしていいのよ?」

「けじめは必要だと思いますけど」

「そうね。でも必要以上に気を張ることはないわ。普通でいいの」

「普通、ですか」


 城崎は眉尻を下げ、困ったように表情を曇らせた。ややあって、


「努力は、してみます」


 彼女にとって、俺たちの言う普通というのは難しいことなのかもしれなかった。

 庶民、というほど黒羽家は貧しくない。むしろ、どちらかといえば金持ちだ。麗華が事務所を開くからと言えば、こうしてビルを宛がってくれるくらいには。

 だからといって、礼儀作法や習い事なんかで雁字搦めにされてきたわけじゃない。

 麗華はどうか知らないが、俺はけっこう自由に育ててもらったと思う。だから、世のお嬢様がどうやって生活してるかなんて想像できない。

 けれど城崎の反応を見る限りは、普通に生きてきたわけじゃないことはなんとなく想像できる。きっと自由なんてものも与えられることなく、籠の鳥のように生活してきたのだろう。

 それを慮ってなのか、麗華はふっと微笑んで言った。


「とりあえず。まだ任せられることも少ないし、今は大して仕事も入ってきてないから、部屋で休んでてちょうだい。昨日今日で疲れも抜け切ってないでしょう? 今は羽を休めていて」

「……では、お言葉に甘えさせてもらいますね」


 逡巡し、綺麗な所作で一礼すると城崎は事務所を出て行った。


「なかなか難儀な生き方をしてきたみたいね」

「城崎が?」

「家柄ってのももちろんあるとは思うけれど。黒羽とはまるで毛色が違う家庭だと感じたわ」


 確かにそれには同意するけど、難儀ってのはどういうことだろう。


「なんていうか、闇い。そんな印象を受けたわね」

「そうは見えなかったけどな」

「表面上はね。不安や不満、そういった負の感情を表に出せない家だったんでしょう。瞳の奥が伽藍としてた。命令を遵守することだけを仕組まれた、機械みたいにね」


 そう言って、麗華は城崎が淹れたコーヒーの湯気に目を細めた。

 あの城崎が機械? 感情豊かに思えるけど。

 この時の俺には、麗華がなにを言っているのか理解できなかった――。



 ……依頼は突然舞い込んでくるもので。

 城崎が部屋に戻ったおよそ一時間後。午前十時過ぎ。事務所の電話が急に鳴った。

 麗華は応対へ向かい、俺はいつもどおりテレビに目を向け、どこか遠くのことのように耳の片隅でそれを聞いていた。

 麗華の仕事用の貌は、やはり普段とはかけ離れていて、いまだに本当に本人かと疑ってしまうほどだ。


「――人探しのご依頼ですか? ……はい、詳しいお話は事務所でということですね。……畏まりました。ではお名前を伺ってもよろしいですか? ……はい、神崎様ですね」


 ……神崎? 人探し?


「――はい、では午後二時に。……ええ、お待ちしておりますわ」


 普段は絶対に使わないお嬢様みたいな言葉遣いで締め、麗華は受話器を置いた。

 どうやら依頼を賜ったらしい。


「さっそく依頼か?」

「ええ」

「いま神崎って聞こえたんだけど。まさかあの財閥の?」

「ご明察。依頼主は神崎岳人よ。電話は付き人がかけてきたわ」


 娘の失踪で世間を賑わす財閥の頭が、こんな都会の端っこで細々やってるなんでも屋に依頼を持ち込むとは。普通は警察とかに頼るものなんじゃないのか?


「――零司」

「うん?」

「部屋、片付けるわよ」



 それから俺たちは事務所の片づけをし、昼食を食べて時間までのんびりと過ごした。

 城崎に関しては、冷蔵庫を自由に使っていいとは言っておいたのだが。

 ちょこちょこ何かしら食べ物を買い足しているとはいえ、そもそも箱入りのお嬢様が自炊なんて出来ないだろうなと、昼を食べ終わってから気づいた。

 なにせコーヒーもまともに淹れられないくらいだから。

 仕方なく有り合わせの具材でチャーハンを作って持っていったところ、城崎は恥ずかしげに身を捩りながらも、礼を言ってそれを受け取った。


「この借りはいつかお返ししますから」なんて堅苦しいことを言いながらも、鳴るお腹に真っ赤になってそそくさとテーブルへ着席するところは、なんだか年相応で少し可愛らしく思えた。

 恭介が起きてきたのは、俺が事務所に戻ってすぐのことだ。


「――遅えよ、いつまで寝てんだ」


 もっと早く起きてきてれば、二人で事務所の掃除なんてやらなくて済んだのに。


「昨日は少々走りすぎたからな。それより、掃除したようだが。依頼か?」

「そうだよ。お前もいればもっと楽に終わったのに」

「それは悪かった」


 恭介は両手を上げ適当な降参ジェスチャーをして、いつもの定位置に腰掛ける。


「それで、掃除するくらい気を遣うような依頼主は、どこのどいつだ?」

「神崎岳人だよ」


 名前を告げると、恭介は不思議そうに首を傾げた。まだ眠いのか、ボーっとした目でこちらを見てくる。ついた寝ぐせも相まって、相変わらずちょっとムカつくな。


「娘失踪の神崎財閥の首領だよ」

「ほう、財閥の」


 まったく、テレビつけてる割にはまるで興味ないんだよな、こいつ。以前から報道されてた節があるし、恭介なら見たことくらいあるだろ。

 まったく、ミュートなんてして。それじゃなんのためにつけてんだか分からないっつうの。


「恭介、二時から依頼主が来るから着替えてきなさい」

「ふぅ、分かった」


 ……おい、やけに素直だな。なんで俺に対してはその素直さがまるでないんだ。

 ソファから立ち上がり、事務所を出、再び上階へと戻っていく恭介。


「っていうか、あいつを上戻したら、また寝るんじゃないのか?」

「それならそれでいいわ。どうせ話聞くだけだしね」

「……姉さん、恭介には甘いんだな」

「そんなことないわよ。なんなら、あんたも上で寝てくる?」

「今は下だよ」


 皮肉ると、そうだったわね――そう言って麗華はくすりと笑う。

 別段いつもと変わりない。しかし腕を組んでいるところを見ると、緊張した心持であることが伝わってくる。父親と込み入った話をする前によく見た仕草だ。

 大物からの依頼なんてのは今までに一度もない。麗華も人並みに緊張するんだろう。

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