2-3
俺が美夜と出逢ったのは、いや、保護したのは五年前だった。
十五にもなると、麗華にいろいろと手伝わされるようになっていて、知らぬ内に俺も黒鴉の一員になっていた。
とはいっても、難しい仕事じゃない。お使いとかその程度の軽い雑務だ。
その日も俺は、学校帰りに麗華の使いっ走りをさせられていた。
しとしとと雨の降る、陰鬱とした晩春の夜だったのをよく覚えている。
大きすぎるホームセンターで軽く迷子になりながらも買い物を済ませ、『遅い!』と麗華から小言をくらう事を覚悟しつつ、暗がりの堤防を足早に駆けている時だった。
「――――――ッ」
河川敷。新幹線の高架下の辺りから、突然女の悲鳴が聞こえた、気がした。
気がしたと軽く流してしまうくらい、傘を叩く雨音よりも力なく弱々しいものだったのだ。
しかし次に聞こえた男の怒声によって、気のせいは確信へと変わる。
「静かにしろや! 殺されてえのか! アアッ!? 」
ドスの利いたそれは興奮しているのか、ずいぶんと鼻息荒く感じられた。
男の剣幕に怯えたのだろう、脅されている側から声が途絶える。
(強姦、か?)
あまり厄介ごとには首を突っ込むな。麗華から耳にタコが出来るくらい何度も言われていたことだったが、どうやら事態は急を要するようだ。
そう判断した俺は、
「おまわりさん! こっちです! 不審者がいるんですけど!」
雨にかき消されないよう、出来うる限り切迫した感じを醸し出しつつ、精一杯の声を上げて叫ぶ。
「――クソッ! サツかよ!」
汚く吐き捨て、慌てた様子で男は逃げ出す。遠のいて行く荒い呼吸と土砂を蹴る足音。
警察なんか居やしないのに、馬鹿な奴だな。
男の気配が消えた頃を見計らい、そこでやめておけばいいものを。俺は堤防を降りて襲われていたのか襲われそうになっていたのか、その女の元へ足を向けた。保護が必要ならするべきと思ったからだ。
しかし、俺が近付いてくるにも係わらず、女の気配がぴくりとも動くことはなかった。
俺が女を視界に捉えても、見下ろせる位置までやってきても……。
その女は、年端も行かない少女だった。俺よりもきっと年下だろう。あどけない顔に、長い黒髪。暗がりの中であっても分かる。
日常の中にあれば美少女と言っても過言じゃないくらい、整った愛らしい顔立ちをしていた。
だが、いまのこの状況は非日常だ。
白いシャツに短パンに裸足。着衣に乱れはないところを見ると、どうやら未遂のようだが。
少女の頬は少しこけ、体もどこか不健康そうに痩せていた。泥に塗れているからというだけでなく、それを差し引いても……、捨てられた子猫を連想せずにはいられない。
胡乱として、まるで生気の感じられない瞳でぼうと見てくる。それはどこか諦観のようにも思えた。少女には、俺もさっきの男と同じように見えているのかもしれない。
一歩、さらに近づくと、少女の肩がピクリと跳ねた。恐怖を感じているに違いない。
「大丈夫、俺はお前を傷つけない」
もうすぐ梅雨とはいえ、春の夜はまだ肌寒い。震えているのは、雨に濡れていることもあるだろう。こんな薄着じゃどの道風邪をひいてしまう。
羽織っていた上着を脱ぎ、泥まみれの少女に着せた。
少し安心したのか。少女はホッと安堵したような息を吐いた。いまの今まで緊張に張り詰めていたのだろう。
「どうしてこんなところにいるんだ?」
「……………………」
けれど、少女は一言も発しない。
俺はなおも質問を投げかけた。
「家は? こんな時間だし、送ってくよ」
内心、さらに麗華から説教くらうだろうな。なんてことを心配しながら口にしたのだが。
しかしその問いに対し、少女の反応が明らかに変わったのが見て取れた。体を抱くようにして小刻みに震え始めたのだ。
これは訳アリだと直感する。
「まあなんだ、答えたくないなら無理して答えなくてもいいけど」
そう優しく言葉をかけると、
「――――ない、から………」
消え入りそうな声だった。そして少女はさらに、絞り出すように言葉を続ける。
「……捨てられ、たから…………」
声はかすれ、息も絶え絶えといった感じだった。
捨てられた。その言葉の響きが、俺の頭を強く殴打し心を握り潰す。
他人からそのセリフを聞くことになろうとは、夢にも思わなかった。
目の前がチカチカする。何度もフラッシュバックする記憶を、痛みを、頭を強く押さえて無理やり払拭した。
その時だ――
少女の体からふっと力が抜け、水浸しの地面にどしゃっと倒れこむ。
「お、おい! 大丈夫か?」
まさか死んだのかと、慌てて抱き起こす。呼吸はしていた。けれど体が熱い。すでに風邪をひいているのかもしれない。
関係ない少女ではあるけれど。さすがに、このままここへ放置するのは良心が痛む。
それに、他人事だとはとても思えない。同族意識というやつだろうか。
あの時、俺を助けてくれた黒羽家。この状況に、そして似たような境遇の少女。
他人事だと思えという方が無理な話だ。面倒ごとだとも俺には思えなかった。
俺は泥まみれになるのも厭わずに、少女を抱き起こして背負い上げた。
いつもよりも荷物の多いお使い。俺と美夜の出会いは、そんな寝覚めの悪くなるような衝撃的なものだった。
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