2-2

 目を覚ますと、そこはいつもの見慣れた天井。ではなかった。

 自室でもなければ事務所でもない。それはそうだ。ここは一階のエントランスとは名ばかりの物置なのだから。

 上階で出たいらない家具やら個々人の私物のダンボールが、所狭しと雑然に並ぶ一階。

 紛うことなく客人が入ってくる玄関でもあるのだが。逆に散らかっていることが目隠しなんかの役割をし、こんなところになんでも屋があるとは思いにくい状況を生み出していたりする。

 幸い、たまたまベッドを買い換えた為、以前使っていたものがここにはあった。スプリングの弱くなった微妙な寝心地だが、この際贅沢は言ってられない。


「……それにしても埃っぽいな。寝覚め最悪だぞ、ここ」


 軽く咳を散らしながら起き上がろうとし、そこでなぜか左腕に重みを覚える。それに痺れているようだ。目をやると、見慣れた栗毛のショートヘアが。


「――なんでこんなところで寝てんだ、こいつ」

「……んん……むにゃ、……んぁ? あ、レイちゃんおはよー」


 眠気眼を擦り、美夜はむにゅむにゅ言いながら暢気に挨拶を交わしてきた。


「おはよーじゃねえよ。なんでいるんだよ」

「いやー、レイちゃんちっとも手出してこないからさ……わたしから夜這いしようと思って」

「それは夜這いじゃねえ、添い寝だ」


 そう断じると、ぽふっと胸元に顔を埋めてくる。


「そ・れ・にぃ~、猫は大好きな人には甘えるものにゃん」

「お前は人間だろ」

「わたしはレイちゃんだけの猫ちゃんなのっ」


 ごろにゃーん、なんて言いながら丸くなる美夜。首元にかかる吐息がくすぐったい。


「ていうか、いま何時だ」


 室内はずいぶんと暗い。ごちゃごちゃしているからというのもあるだろうが、ブラインドの窓向こうにまだ陽が出てないことは明らかだ。

 枕元のスマホの電源を入れ、時刻を見た。午前二時過ぎ。実に中途半端な時間だ。


「それにしても暑いな。いい加減離れろよ」


 いまは真夏。夜でも二十数度はある。さすがにくっ付かれると暑い。やんわりと美夜を引き剥がし、俺は上体を起こしてベッドの縁に腰掛ける。

 一息ついたところで、半袖Tシャツの袖を引かれた。


「レイちゃん」

「残念だけどまだ沈む気はないぞ。事務所に水飲みに行くから。ていうかそろそろお前も自分の部屋に戻れ。今日部活だろ? それにこんなところで寝てたら灰かぶりになるぞ」


 そう言い残して立ち上がり、エレベーターへ歩き出す。と、背後で微かな衣擦れが聞こえた。

 振り返ると、美夜が六十センチくらいの猫のぬいぐるみを抱いていた。


「それ、まだ持ってたのか」

「当たり前だよ。レイちゃんがプレゼントしてくれたんだもん。捨てるはずない」


 暗がりにあってなお黒い猫のぬいぐるみ。それは懐かしく思うと同時に、辛い記憶を想起させるものだった。俺にとっても、そしてきっと美夜だってそうだろう。


「そんな顔しないで。わたし、いますごく幸せなんだから」


 ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめ、美夜は笑った。その儚げな表情が胸を締め付ける。


「……お前も事務所、来るか?」

「えっ」

「あそこならエアコンあるし、朝までなら一緒に寝てやるよ」


 我ながら甘いと思う。けど、美夜をこのままここで寝させるわけにはいかない。

 朝から部活だからってことも、もちろんある。でもそれ以上に、美夜が汚れるところを見るのが辛いんだ。

 嫌なことを、思い出すから。


「いい、の?」

「朝までだぞ」


 その言葉に、美夜は「うん!」と嬉しそうに大きく頷いて駆け寄ってくる。

 そうして俺たちは二階へ上がり、冷房の効いた事務所のソファベッドで朝までぐっすり休んだ。耳元で聞こえる美夜の安らかな寝息が、これ以上ないくらいの睡眠導入剤となった。



 ――俺が目覚めたのは、すでに美夜が学校へ行った後だった。午前八時。

 事務所に満ちるコーヒーの香りに釣られて目を向けると、麗華が目の前でテレビを見ていた。

 恭介と違い音は出ているが、俺に配慮してくれたのか音量はかなり小さい。


「姉さん……今日は早いんだな」

「珍しいとでも言いたげね」


 それは珍しいだろう。たいてい九時くらいに起きて来るのに。もう着替えてるとは。


「そんなことより零司、あんた美夜と寝たの?」

「勘違いしないでくれ、別になにもしてないよ。それに数時間だけだ」

「そんな心配はしてないわ。何かあったとしても、あたしが口出しすることでもないからね」


 コーヒーを啜る麗華の目が、テーブルの上に向けられた。


「それにしても、可愛いところあるじゃない」


 くいっと顎で示す。そこには、一切れのメモが置かれていた。

 俺は手を伸ばし紙をつまむ。仰向けのまま目を走らせる。そこには『レイちゃん、ありがとう。行ってきますっ』と可愛らしい文字で書置きされていた。


「………………」

「どうするつもりなの?」

「何が?」

「美夜のことよ。あんたも分かってるんでしょ、あの子の気持ちは」


 あいつが俺のことを好きだってことか。そりゃあ、あれだけ明け透けなまでに好意を向けられたら、誰だって分かる。けど、


「……あいつはたぶん、勘違いしてるんだ」

「勘違い、ねえ。あんたをヒーローだと思ってるって、そう言いたいの?」

「ヒーローかどうかは別にしても。助けられた、だからその相手が特別だと思い込んでるだけなんだよ。つり橋効果みたいなもんだろ」


 自分の考えを口に出すと、麗華は聞こえよがしに溜息を吐いた。


「ずいぶんと身勝手な言い分ね。けどそれだと、あんたもあたしのことをそう思ってるってことになるけど?」

「確かに特別だよ。でもそれは家族への感謝であって、異性への好意じゃない。混同はしてないよ」

「じゃあ美夜だって違うじゃない。あの子は零司のこと、本当に好きなんだと思うけど?」


 別に責めているわけではないのだろうが、言葉の端々から嗜められているのだと感じた。


「……今日はやけに突っかかってくるな」

「早起きしたからかしらね」


 たまの気まぐれで早起きされたら、こんなにグチグチ言われるのか。災難だな。


「でも、少しくらい真面目に考えてあげてもいいんじゃない? 妹として接したいってのは分からないでもないけど、さ」


 ちょっと可哀想よ――そう呟いて、麗華はテレビのボリュームを上げた。その横顔は哀切だけではなく、どこか寂しさを感じさせるものだった。

 …………。可哀想、か。

 美夜に対してそういう感情を抱いたのは、あの時が最初で最後だったな。

 初めて美夜と出逢った、あの日の夜――

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