1-4

 それから数時間後。夜九時が過ぎた頃。


「――たっだいまー……あー今日も疲れたにゃぁ……」


 事務所の扉を開けるなり、締りのない顔で美夜が口にした第一声。いつものように変装用の黒髪ロングのウイッグを外し、胡乱気に事務所を見渡す。と――

 美夜の目はソファのただ一点を射止め、そして瞬間的に目を瞠る。


「んなっ! ななな、なんで女の子が事務所にいるにゃ!?」

「ああ、この子は依頼で――」

「ドレス!? しかも純白? ウエディング!?  結婚! 結婚にゃっ!? 」

「美夜、ちょっとは落ち着けよ」

「レイちゃんが女連れ込んだぁ! わたしという女がありながら、なんでにゃッ!?」

「ばっか、人聞きの悪いこと言うな! それに誰がお前の男だ。彼女は依頼主だよ」

「ふん、信用ならんにゃ。小一時間問い詰めるからそこに直れにゃ」


 ジトッと目を眇め、美夜はソファを指さした。地べたでないだけまだマシか。怒りのボルテージもまだ上昇途中みたいだし。

 それにしても、語尾に「にゃ」が付く癖はどうにかならないのか。本人曰くバイトで付いた癖のせいらしいが……。

 俺は素直にソファに掛け、城崎を横に座らせた。

 すると美夜は無言のまま、しれっと俺の隣に落ち着く。


「おい、なんでお前が横に座るんだ。詰問する側なら普通は対面だろ」

「そんなことないよ。これで正解だかんね」


 言いながら腕を組んできて密着される。触れる胸の感触にドギマギし、今すぐにでも立ち上がりたかったが。衝立がなくなったらこの猛獣、何仕出かすか分からないから立つに立てず。

 俺はとりあえず咳払いで体面を繕う。


「それで、この女はレイちゃんの何?」

「だから俺のじゃなくて、事務所の客人だよ」

「麗華ちゃん、本当?」


 信用ならんというのは本当らしく。美夜は所長のデスクへ疑問を投げた。

 麗華ならちゃんと答えてくれそうだ。そう思い俺も目をやると、なぜかくすくす笑っていた。


「なんで笑ってるにゃ、なんで?」

「ふ、くふふふ。あんたたち、本当に毎度毎度飽きないわね。これはしばらく退屈しなくて済みそうだわ」


 いったい何に楽しみを見出しているのか。俺にとってははた迷惑もいいとこだぞ。


「本当の本当にお客さんなの?」

「ええ。その子は依頼主で間違いないわ」


 麗華の言葉に安堵したのか、美夜はほっと息をついた。

「ま、まあ分かってたけどねー」と苦し紛れに美夜はふんぞり返る。

 すると、今まで静観していた城崎がすっと立ち上がった。


「誤解させてしまってすみません。私、城崎由紀と言います。しばらくこの事務所でお世話になることになりました。よろしくお願いします」

「ん? お世話? それはどういう……」


 俺は今までの経緯を、上手いことオブラートに包んで簡潔に美夜へ説明した。


「つまり、タダで間借りさせる代わりに、バイトで雇うってこと?」

「そうなるな」

「それで、城崎さんの寝床なんだけどね」麗華はタバコを一服し、「零司の部屋にしようと思うんだけど」紫煙を天井へ向けて吐き出しながら、とんでもないことを言い出した。


「は?」「へ?」


 思わず漏れ出た声が美夜の声と重なる。


「零司が連れ帰ってきたんだし、それが妥当だと思うんだけど」

「断固反対にゃあ!」


 美夜は大仰に腕をクロスさせて声を張り上げた。


「そんな不公平は許されないにゃ!」

「何に対しての不満なんだよ。まあ、俺も女の子を部屋に入れるってのはあんまり気乗りしないんだけどさ」


 部屋にはいろいろ……、いや、大した物は置いてないんだけど。エロ本もないはずだ。美夜に処分されたからな。それ以前にまかり間違うことも可能性としてないわけじゃないだろ?


「依頼主に一階使わせるわけにもいかないでしょ?」


 その一言に引っ掛かりを覚えた。

 …………ん? 待てよ、てことは――


「まさか、俺があの物置で寝るのか?」

「察しがいいわね。その通り、他にないでしょ」

「あるにゃ」

「いや、いくらなんでもさすがに物置は」

「片付ければいいでしょ。バイト以前に客人なのよ? そこは譲って然るべきじゃない?」

「だからあるにゃ」

「片付けっつったってさ」

「――シ・カ・トするにゃー!」


 ぶおん! と音がしたと思ったら次の瞬間、目の前で星が弾けた。どうやら後頭部をトランクで殴られたようだ。衣装しか入ってないから重くないといっても、硬さはどうにもならない。


「いてぇな! いきなり何すんだよ、死ぬだろうが!」


 痛む頭を押さえながら涙目で振り返ると、美夜は急に頬を赤く染め汐らしくなった。


「だ、だから、レイちゃんが泊まる場所ならあるって言ってるの」

「もじもじすんな、ねえよ。俺の寝床は物置だ。今そう決まった。いや、決めたんだ」

「れ、レイちゃんさえよければ、わたしの部屋で一緒に住んでもいいんだよ?」

「だから言ってるだろ。俺の居住区は今夜から一階だって――」

「あ? わたしが一緒に寝ようって誘ってるのにその淡白はなんにゃ?」


 美夜の声が一層低くなる。出た。出てきた。美夜のもう一つの顔が……。これ以上突っぱねるのは身に危険が及びかねない。背筋に冷や汗をかきながら目を泳がせていると、


「美夜、その辺にしといたら? 城崎さんが怯えてるわよ」


 麗華が仲裁に入ってくれた。

 見れば城崎は、ソファの背もたれからわずかに顔を覗かせ、子犬みたいに体を震わせていた。


「ちぇっ、もう少しでレイちゃんと愛の巣作れたのに」


 って客がいるのになに言い出すんだこいつは。

 なぜか城崎はぽーっとした顔で、なにやら興味ありげに熱い息を吐いている。


「まあまあ、それはまたの機会にしときなさい」

「公認みたいな言い方はやめてくれ」


 美夜は落胆したように、聞こえよがしなため息を一つこぼす。そしてトランクを提げ、俺を尻目に肩を落として、エレベーターで上階へ上がっていった。

 これからしばらく、こんな日常が続くと思うと気が滅入るな。


「でもま、」そう言って麗華はタバコを一吹かし、「あの子が元気なのは、いいことじゃない?」

「…………そうだな」


 向けた視線の先で、立ち上る紫煙が細く揺らめいていた。

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