1-3
黒鴉の事務所は、六階建ての小さなビルを丸ごと一棟買い取った二階にある。
一見、雑居ビル群の中にあるただの建物にしか見えない。そこには、不和も違和も感じない。
ちなみに最上階は麗華の部屋。その下が恭介。そして俺の部屋があって、三階に美夜の部屋といった具合に住み分けている。残念ながらエントランスのある一階はほぼ物置だ。
時間にして約二時間。
周囲を気にしながらの移動だったため、ずいぶんと時間がかかってしまった。
俺たちは裏口からビルへ入り、エレベーターで事務所のある二階へ。扉が開き、ガラス戸を押し開けて中へ入って、俺は瞠目した。
「ずいぶんと遅かったな、零司」
「……なんでもう帰ってきてんだよ」
「言っただろう。俺はお前と違って足が速いと」
いや、確かに聞いたし、それは認めざるを得ない事実ではあるんだけど。
それにしても早すぎる。
「ちゃんと巻いたんだろうな?」
「その点は安心しろ。わざわざ人垣まで作って逃げてきたからな」
……積まれた人たちが気の毒だ。
「でもまあ何はともあれ、無事なら良かった」
「互いにな」
そう言って鼻を鳴らし、恭介は俺から視線を外して新聞に目を落とした。
「――ふうん、その子が依頼主?」
所長の机に目をやると、常ならぬ麗華の姿が。
いつもならタバコを吹かしてただだらけている彼女が、今日はスーツをきっちりと着込んでいる。髪も下ろして、メイクもばっちりと決めていたのだ。
これはある種、異様とも言えるだろう。
「なに、そのコレジャナイものを見るような目は」
「いや、別に」
目を細めて睨まれた。なにやら威圧を感じたので早々に誤魔化しておく。
「こほん。それで、あなたが依頼主で間違いないのよね、お嬢さん?」
まるで棘のない優しい口調だ。いつも仕事モードなら、どこへ出しても恥ずかしくない自慢の姉だと胸を張って言えるんだけどな。
「はい。お世話になります。私、城崎由紀と申します」
「なるほど。見た目通り、礼儀を弁えたまさにお嬢様といった感じね。それで、依頼っていうのは――」
麗華の問いに、城崎は背筋を正し、
「私を匿ってください」
と、先ほどと同じ台詞を以って頭を下げた。
「匿う? どうやら訳ありのようだけど」
麗華の目線がこちらを向く。俺は今さっき聞いた話を簡潔に告げた。
窮屈で自由のない屋敷での生活はうんざりだと、城崎はつねづね思っていた。今日この日、パーティーがあることを事前に知っていた彼女は、隙を見て抜け出すことを計画。事前に依頼を受けてくれそうな所をリサーチし、たまたま黒鴉が目に付いたため、はがきをしたためた。
もし表紙を剥がして内容を見られなかったら、もし事務所の人間が来なかったら、もしも助けてもらえなかったら……計画は失敗に終わっていた。
なんでも屋なんて看板を掲げているくらいだから、間借りくらいはさせてもらえるだろう。という、なんとも安直で実直な思考のもとに飛び出した、要するにただの家出だ。
「なるほどね。依頼内容は解ったわ」
顎に手をやり、なにやら城崎を値踏みでもするように見る麗華。
その視線を意に介する様子もなく、堂々と見返す城崎。
ややあって。ところで――と麗華は切り出す。
「見たところ、着の身着のまま飛び出したって感じだけど。あなたお金は持ってるの? 依頼である以上、料金は発生するんだけど」
「お金はありません」
きっぱり。実に清々しい受け答えだ。ある意味、潔いと言っていい。
「じゃあどうするの? 残念だけどお金が払えないんじゃ、依頼を受けることは出来ないわ」
「なんでもします」と城崎。
まるで悩むこともせず、後先を考えていないような即答だった。
なんでもするという意味を下種な人間が捉えたらどうなるか。そんなこともお嬢様は想像出来ないのだろうか。黒鴉には当てはまらないけれど、世間知らずにも程がある。
麗華は片眉をわずかに上げて、次の言葉を待つ。
「今はあいにく持ち合わせがありません。ですので、事務所のお手伝いをさせてください」
「ふうん、なるほど。ただ働きのバイトってわけね」
麗華は手を組みながら、しばし思考に没した。そして、
「じゃあ、手始めにコーヒーでも淹れてもらおうかしら」
「コーヒー、ですか」
「奥に給湯室があるから、そこで淹れてきて。豆ならどれ使ってくれても構わないわ」
ん? バリスタがすぐ近くにあるのに、ろくに使ってない給湯室を指示する理由はなんだ?
「……わかり、ました」
城崎は言われるがまま、そんな疑問を抱くこともなく奥の小部屋へと入っていく。
姿が見えなくなったタイミングで、俺は麗華に問う。
「なんでバリスタ使わせなかったんだよ?」
「ああいう箱入りは何やらかすか分からないからね。きっと面白いことになると思って」
くすくすと楽しげに笑う麗華は、新しいおもちゃを手に入れた子供みたいに無邪気だった。
ますますもって意図が解らない。
それから数分。小部屋からひょっこりと顔を出し、城崎はおずおずと部屋から出てくる。その手に持つカップからは湯気が立ち上り、微かにコーヒーの香りが漂ってきた。
所長の机までやってきて、「どうぞ」と給仕のような丁寧な所作でカップを机に置く。
俺と麗華は揃って目を落とした。
「――――ぷっ、く、あっはははははっ!」
「…………ッ」
見た瞬間、麗華は噴出して盛大に笑い、机をバシバシ叩いている。
俺は俺で笑いを堪えるのに必死だった。
確かにコーヒーだ。しかし、なんと信じられないことに、コーヒー豆がカップいっぱいに満たされ、その中にお湯を注いだだけという、珍妙極まりないドリンクがサービスされてきた。
これを笑わずしてなんとする。
俺たちの様子を狼狽しながら交互に見やる城崎。じゃっかん頬が赤く染まっていた。
お嬢様は他人から笑われることにも慣れていないらしい。
次第に城崎の眉間には薄く皺が寄り、ムッとした表情で顔をしかめた。
しばらくヒーヒー言っていた麗華だったが、さすがに失礼だと思い直したのか。息を整え、ようやく表情を引き締める。
「ごめんなさい、予想の斜め上を突き抜けてきたからちょっと驚いちゃって」
ちょっとどころじゃないと思うが。そう突っ込もうとした時、城崎が何故か頭を下げた。
「こちらこそすみません。コーヒーというものは話には聞いたことはあったのですが、なにぶん飲んだことはなくて。淹れ方もよく知らなかったんです。最初に断っておくべきでした」
なんとも律儀な女性だな。わざわざ言う必要もないだろうに。でもまあ、それが矜持なんだろう。俺たちとは違う人種なんだと思う。
「そんなに畏まらなくていいわよ。意地悪したのはあたしなんだから」
「意地悪、ですか?」
「そ。あなたをちょっと試してみたくてね」
「……それで、私はここにいてもいいのでしょうか?」
まるで合格発表前の学生みたいに緊張した面持ち。少し申し訳なさそうにも見える。
「そうね。コーヒーなら便利な機械もあるし。まあ、それ相応にやってもらうことがあるかもしれないけど。それでいいなら居ていいわよ。それと、衣食住は保障するわ」
「ありがとうございます。お役に立てるように頑張ります」
麗華から許しを得た城崎は、安心したのか強張っていた相好を崩し、晴れやかな表情で礼を述べた。
「そういえば自己紹介がまだだったわね。あたしは黒羽麗華。零司の姉よ」
「俺はさっき名乗ったからいいとして。ソファで新聞読んでるのが――」
「冷泉恭介だ」
新聞から目線を外すことなく恭介。相変わらず愛想の悪い奴。
「あと一人いるけど、バイトから帰ってきたらその時に紹介するよ」
「あっ、分かりました――」
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