第一章 保護対象

1-1

「――いじ――――零司!」


 自分を呼ぶ女の声に、黒羽零司は覚醒する。徐々に音量を上げてきたのはやかましい蝉の声。

 そよ風が頬を撫で――今日も扇風機はエアコンの冷気を事務所の隅まで届けているな――そんな平和的なことを考えながら俺は目を開けた。

 視線の先には見慣れた白天井。硬いソファで寝ていたせいか、体の節々が痛い。

 仰向けのまま首だけを動かして、声の主へ目を向けた。

 視線の先でふわりと紫煙が広がる。


「おはよう、零司。人の話の最中に寝るとは、あんたもずいぶんと偉くなったものね」


 その女性は吸殻が山積みにされた灰皿へタバコを押し付け、イライラした調子で言った。

 背中の中ほどまで伸びる黒い髪を緩く縛り、肩口から前へ垂らすスタイル。前髪の隙間から覗く真っ黒の瞳。煩わしげに組まれた腕に持ち上げられる胸は、第二ボタンまで外されたブラウスに見事な谷間を作っている。


「ああ、姉さん。ごめん――」

「姉さん? 仕事中は所長と呼べって、その約束も忘れるくらい寝惚けてるの、あんたは?」


 所長、黒羽麗華は呆れたようにため息を吐く。机に頬杖をつき、ジトっとした目で軽く睨まれた。

 まだ頭がぼーっとしていたため、つい口を突いて出てしまったことに後悔。


「レイちゃんだって居眠りしたくなる時くらいあるよねー」


 突然降ってきた暢気な声。今度は顔を天井へ戻す。

 そこには、人懐っこく快活そうな少女の顔があった。

 背もたれから身を乗り出し、まるで無邪気な子供じみた笑顔を向けているのは、月島美夜。十七歳、高校二年生で、俺の三つ下だ。トレードマークは猫耳みたいな癖毛。少し長めなショートボブの栗毛がより一層猫っぽさに拍車をかけている。


「緩んでいるな、零司」


 次は対面の応接ソファに視線を転じた。

 不遜に足をテーブルに乗せ、ミュートしたテレビを前に新聞を読み耽っている長髪の男は、冷泉恭介。俺より二つ上。鋭い目付きは抜き身の刀を思わせるが、中身はそこまで危なくない。

 というより、クールなのは見た目と言動だけで、本来の性質はただのアホだ。

 しかしこの二人が並ぶとまさに陰と陽。よくしゃべる美夜と無口な恭介。

 凸凹コンビとはよく言ったものだ……言ってるのは俺だけだけど。

 美夜はクスクスと笑い、注意を受ける俺を愉しんでいるようだった。

 仲間とはいえ、笑いものにされるのはあまり気分のいいものじゃない。それに、いい加減寝ているのにも飽きてきた。

 ソファにかけ直そうと、上体を起こした時だ。


「……痛ッ」


 一瞬、こめかみに激痛が走る。


「なに零司。もしかして、また予知夢でも見てたの?」


 痛む頭を押さえながら、麗華の言葉に頷き返す。


「でも、あれはきっと予知じゃない」

「ってことは?」


 やけにはっきりとした夢だった。暗かったから鮮明とまでは言えないまでも、大方の事象が把握出来るくらいには目に見えていた。こういう場合は――


「たぶん、もう殺した後だ。しかも直近の出来事……」


 予知夢だったなら、砂嵐みたいなノイズが多分に入るはずだから。またモノトーンというほど色が抜けていないため、過去夢とも違っている。

 犯人の顔は……残念ながらうろ覚えだ。女だということくらいしか思い出せない。

 途中で起こされなければ、あるいは――。

 そこで、不意に視界の端が捉えたものへ、なんとはなしに目を向けた。

 音のないテレビでは、どうやら殺人事件を報道しているようだ。

 映像が切り替わり映し出された『ソレ』に、俺は思わず声をあげる。


「恭介、悪い! 音量上げるぞ!」


 ソファから飛び起き、断りつつ恭介の足元のリモコンを操作。ボリュームを上げる。

 アナウンサーが読み上げていた内容は、郊外の廃ビルで死体が発見されたというものだった。

 第一発見者は地元の高校生。夏の夜に肝試しにと、廃墟となったビルに仲間を連れて進入。すると螺旋階段の上から、突然何かが降ってきた。ライトで照らすと、無惨にも惨殺された男の死体だったという。

 司法解剖の結果、どういうわけか男の体内に血液はほとんど残っていなかったそうだ。犯人はまだ捕まっていない。

 ネット上では、『現代の吸血鬼』だと俄かに騒がれているらしい。

 郊外、廃ビル。それだけで夢と同定するのは尚早だ。しかし同時に映されている廃ビルは、どこからどう見ても、あの夢の舞台そのものだった。


「どったの、レイちゃん?」


 驚愕に息を呑んでいると、美夜が肩を叩いてきた。


「あのビルなんだ」

「夢の話かにゃ?」

「ああ」

「なに? ってことはあんた、ドンピシャでこの事件のことを見てたわけ?」


 ちょうど新しいタバコに火を点けながら麗華。少し驚いた顔をしてテレビを見ている。


「報道と重なったらどの道遅いだろ。手遅れな夢なら、見てないのと同じだ。それに、俺が見たのは被害者側じゃない。事後の加害者側だった」

「犯人の顔は?」


 麗華の問いに、俺は首を左右に振った。

 彼女はタバコを一服し、紫煙を吐き出す。それはため息であったかもしれない。


「これは即金になりそうにないわね。都合よくまた見られるとも限らないし、」その口振りは本当に残念そうだ。「まあ、あたしたちは地味な仕事をせっせとこなすかね。働きアリみたいに、ね」


 そのアリは俺たちなんだけどな。というか、同じ黒でもアリは嫌だな。たとえ喩えでも。


「そういえば、話の最中だったんだろ? 仕事なのか?」

「レイちゃんは寝てたかんねー」


 すかさず、というか隙ありというか。美夜がいきなり背中へ抱きついてきた。


「ええい暑苦しい!」


 エアコンが利いているため、抱きつかれたところで暑くもないのだが。しなやかで一見スレンダーそうに見える小柄な少女でも、肉付くところは肉づき、出ているところはしっかり出ているわけで……。

 背中に柔らかなものが触れると、慣れた間柄でも少し動揺してしまう。

 するりとその腕から抜け出すと、美夜は背もたれをずるずると滑り落ち、顔面からクッションにダイブ。それを尻目に俺は眠気覚ましのコーヒーを淹れに、据え置きのバリスタへ向かう。


「ちぇっ」


 背後から、実につまらなそうな舌打ちが聞こえる。

 受け皿に自分用のカップをセットしたところで、麗華が切り出した。


「また説明するのも面倒なんだけど、とりあえず依頼っぽいのを受けてね」

「っぽい?」


 はっきりと物事を断言する麗華にしては、少し歯切れの悪い言い方だ。


「しょうがないでしょ。本当にそれっぽいんだからさ」


 言いながら、こちらへ紙切れを投げて寄こす。

 受け取って見ると、なんの変哲もないはがきだった。しかし目を凝らすと、縁には破れたような跡が見て取れた。どうやら、このはがきは上になにか被せてあったらしい。それを麗華が破ったというところか。そこへ簡潔に依頼内容が書かれている。


「はがきの表紙はなんのことはない、花の水彩画だったわ。捲ったら、そいつが出てきたの。分厚かったから、その内容を隠すためのカモフラージュだったんでしょうね」


 補足するように言って、麗華はタバコの火をもみ消した。

 依頼と思われる内容はこうだ。

『七月二十六日、午後二時頃、遠野錦の歩行者天国で待つ――』

 …………………………。


「なんだこの果たし状は」


 巌流島かよ。それに時間がアバウトだし、しかも二十六って今日じゃねえか。


「そう思う?」

「思わない方がどうかしてる内容だろ。これだけなのか?」

「残念ながらそれだけよ」


 これだけでよく依頼だと思えたものだ。なんて感心していると。

 灰皿を机の脇に寄せて肘をつき、手を組んで麗華は口にした。


「けど、十分だわ」


 なにが? と俺は小首を傾げる。


「分からない? その文字、よく見てみなさい。何か気づかない?」


 言われるままに視線を落とす。ペン習字でも習っているのだろうか。それくらい綺麗で流麗な文字だ。達筆と言っていい。


「上手いもんだな」

「……はぁー。あんたがこんなに馬鹿だとは思わなかったわ」


 なぜか姉に呆れられた。正直に答えたつもりではあるが、馬鹿正直に答えたつもりはない。


「確かに綺麗ではあるけど、走ってるでしょ、文字が」


 言われてみれば、どことなく焦りを感じるような気もする。時間にでも追われているみたいな、急いで書いた感は否めない。


「それに、そんな一言だけなのにカモフラージュする意味が分からないでしょ。そんなの他人が見たところで、普通は悪戯だと思うのが筋よ。なのに水彩画なんて凝ったもので、まるで暑中見舞いでも装うかのようにして送られてきた」

「なるほど、それは確かに不自然だな」


 エスプレッソのボタンを押しつつ、俺ははがきを裏返す。そこには宛先の他に名前しか記されていない。

 差出人は『城崎由紀』か。依頼を隠すくらいだ、恐らくこれも偽名と考える方が自然だろう。

 消印は二日前、隣町、東山城の郵便局か。

 まあ、こんな事務所に依頼を持ち込む時点で普通じゃあないな。


「それで、俺達に行ってこいと?」

「まあ依頼なんだし、そうなるわね」


 アリの出番というわけか。大将はお山の上でひたすら傍観。まあ、それが『黒鴉』なんだから、いまさら愚痴ったところでなにも始まらない。


「んじゃサクサク行ってくるかな。恭介も行くだろ?」


 いつの間にミュートしたのか。音のないテレビを前に、恭介は相変わらず新聞に目を通している。


「仕事ならやむを得ないだろう」


 新聞を畳み、恭介は渋々といった様子で立ち上がった。


「行くの?」

「ああ、お前も来るか?」


 ソファの上でもぞもぞしていた美夜は、「よっ」と声をかけながら跳ね起きる。

 可愛らしいミニワンピースがふわりと広がり、一瞬だけ、ピンク色のパンツが見えてしまったことは……この際言うまでもあるまい。心のメモリーに記録だけしておこう。

 それにしてもニーソとの間の絶対領域が眩しすぎるな!


「レイちゃんと行きたいのは山々なんだけど、わたしはバイトがあるんだよね~」


 残念そうに言って、美夜はがっくりと肩を落とす。


「そうなのか? えっとなんだっけ。猫耳喫茶だったか――」

「猫耳メ・イ・ド喫茶だよ、レイちゃん」

「大して変わらないだろ」

「変わるよ! メイドさんだよ、傅くんだよ? お客に、好きでもない相手に傅いて媚びるんだよ?」

「仕事なんだから仕方ないだろ。お前だって好きでバイトしてるんだろ?」

「そりゃあ制服可愛いし、猫耳だし。確かに好きだけどぉ。でも、たまにセクハラされるんだよね~。お尻とかけっこう触られちゃうんだ」


 美夜はなぜか、横目でこちらをチラチラと窺ってきた。

 どうやらセクハラに対するコメント待ちのようだが、あえてそこに言及する必要はないだろう。まあ、外面だけなら美夜はかなり可愛い方だと思う。スタイルもいいしな。怒るとアレだが。

 まあ、健全な男子が触りたくなる気持ちも分からないでもない。


「ていうかお前、返り討ちにしてないだろうな?」

「むぅ! レイちゃん、心配するのはそこなのッ?」

「いやだって、美夜が大人しく触られてる絵が想像できないからさ」

「それはわたしだって触らせたくないよ。むしろ殺したくなってくるけど」


 殺したいのかよ、物騒極まりない話だな。

 キレた時を知っている身としては、それ冗談に聞こえないぞ。


「まあお店に迷惑もかけられないし、殺意を込めに籠めた視線で睨む程度には衝動を抑えてるから、大丈夫だよ。それでも勘違いされることの方が多いから、きっと大丈夫」


 それは果たして大丈夫なのかという疑問が湧いてくるが、時計を見やり、これ以上雑談に興じる暇はないことに気づく。俺たちではなく、美夜が。


「そんなことより行かなくていいのか? たしか今日は十一時からだろ。バイト遅れるぞ」

「おっとしまった! 指名ナンバーワンは辛いねー。遅刻も許されないなんてっ」


 愛嬌たっぷりに猫の手ポーズなんか決めて、なに非常識なこと言ってるんだこいつは。


「それは指名を多く取ってても関係ない話だろ」


 時間は守るべき規則であり、就労者の義務だ。

 というかこいつ指名ナンバーワンなのか。初めて知った。意外とやるもんだな。

 笑顔しか知らない奴らは幸せで何よりだ。


「レイちゃんの説教なんか聞きたくないですよーだ!」


 下瞼を押し下げ、んべっと舌を出したかと思えば。美夜はくるりと背を向けトランクケースを引っ提げて、「じゃあいってきまーす」と元気よく事務所を飛び出していった。


「こんなクソ暑い中、よくあんな荷物持って走れるな」

「クソ暑い中というなら、それはこれからの俺達にも言えることだと思うが」


 ……最もなことを最もらしく、らしそうに言いやがって。分かってんだよ、そんなことは言われるまでもなく。クールなすまし顔がちょっとムカつくな。

 これが恭介ではあるのだけれど。


「っていうか恭介、そのポッキンアイスなんだよ」


 半分を食べ終え、もう半分に口を付けようとしているところを遮って訊いた。


「これか? ついさっき美夜がくれたものだ。零司と分けろってことらしいが、」


 そこで区切り、恭介はなにやら逡巡した後――容赦なく、問答無用で残りの半分をくわえた。


「おい! それ俺のじゃないのかよッ」

「ふまん、ふい……魔が差してな」


 一かじりし口の中をシャリシャリさせながら、特に悪びれる風もなくそんなことを言う。


「――食べるか?」

「食うか! お前の食べさしなんていらねえよ!」


 何が悲しくて男と間接キスしなきゃならねえんだ。

 くっそ! そういえばあれたしか最後の一本だろ。ちくしょう、あとでこっそり一人でハーゲンダッツ買ってやるからな!


「小さいわねー、相変わらず」

「……………………」


 麗華は心の中でも読めるのだろうか。

 苦虫を噛み潰して振り返ると、気だるそうにタバコをふかす姉の姿がそこにあった。

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