3周囲の人々⑤~雲英羽の教え子~(3)

 用を足してトイレから出ると、目の前を汐留夫婦が通りかかるのが見えた。汐留夫婦は手元の何かに夢中で僕の存在に気付いていなかったので、とっさにまた隠れてしまった。こっそりと観察していると、これまた驚くべき会話が耳に入る。



「ねえ、さっき会ったあの子、なかなか可愛かったでしょう」


「確かに可愛かったね。それに、真面目そうで良い子そうだ。でも、その相手にムキムキの体育教師を合わせるのはどうかと思うよ。彼なら、もっと細めのインテリ系のメガネ男性がお似合いだと思うけど」


「教師と生徒の時点でアウトでしょ。その前に男っていう前提が私にはアウトだけど」


「死ねばいいのに。お前ら全員」


 何を話しているのかさっぱりわからなかったが、会話は僕の理解を越えて、進められていく。


「まあ、現実世界の妄想はともかくとして、この作者の新刊を買えて、私は今日は満足かな。今日が発売日だと知っていたから、当日買えてよかった」


「雲英羽さん、その作者好きだからね。でも、オレにはちょっときついかな。エロが強すぎてそればかりが目に飛び込んできて、どうにも内容が頭に入らない」


「キモい」


「本当に殺してやろうかこの両親」


 いつの間にか、汐留夫婦に二人の女性が加わっていた。どこか両親に面影が似ている彼女たちは、娘たちだろうか。それにしても、現実世界の妄想とはいったい何のことだろうか。それにエロとは。気になるワードが多すぎる。



「でも、本当に悠乃君がBL(ボーイズラブ)をたしなんでくれてうれしい。だって、なかなか自分の意見を言い合える機会ってないでしょう」


「そうだね。まさか、僕も男同士の恋愛を楽しむことが来るとは思っていなかったよ。そして、先生という仕事がBLの妄想の宝庫だとは知らなかった」




 なんか、会話の雲行きが怪しくなってきた。男同士の恋愛とは何なのか、想像するだけで吐きそうだった。この会話から、さっき会ったあの子というのは、僕のことだろうと推測した。


「どうしたの。そんなに蒼い顔をして、具合でも悪いの?」


 トイレからの戻りが遅いことを心配して、母親が迎えに来た。僕は一瞬考えて、首を縦に振り、肯定した。たった今、先生たちの言葉のせいで、具合が悪くなったのは本当だ。





 そんな休日だったが、次の日の国語の授業では平然と先生は授業を行い、いつも通り、休み時間には、生徒たちとアニメ談話で盛り上がっていた。そんな中、生徒が先日質問した内容をまた質問していた。


「先生、前は質問の答えをごまかしていたけど、今日こそは答えてもらうからね。先生って、本当は結婚しているの、していないの?」


「それ聞きたい。秘密というのは、ダメだからね」


「私は結婚していないに一票」


「私もそうしよう」


 生徒たちは先生が結婚しているか、していないかの話題で楽しそうだった。生徒たちの質問に対して、先生も楽しそうに返答する。



「えええ、先生って、そこまでひどい女だと思われていたの?心外だわあ。それで、あなたたちは、先生が結婚していないと思っているというわけか。私の人間として、女性としての誇りが台無しね」


 ちらりと、先生が僕の方を見た気がした。しかし、ほんの一瞬のことだったので、僕の気のせいだったのかもしれない。


「そうねえ、一つだけヒントを与えましょう。先生は、正規の職員ではありません。そんな先生の給料は安いです。それだけの給料で生活できるでしょうか」


「それって、結婚しているってこと?」


「でも、指輪をしていないよね。確か、英語の先生はつけているし、他にもつけている先生いるよ。ああ、でも、私たちの担任はつけてない」


「担任は結婚していないでしょ」



 先生のヒントから、何とか結婚しているか、していないかを判断しようと躍起になる生徒たち。その間に先生が僕のところに近づいてきた。


「土曜日は、驚いたね。先生のこと、みんなには話さなかったんだね」


「別に話すほどのことでもありませんから」


「そう、ならこのまま秘密にしてくれると嬉しいな、それと」


 付け加えられた言葉に僕は納得した。彼女が母親との会話の際に浮かべたへたくそな余所行きの笑顔の理由がわかった。


「わかりました。でも、僕は先生のことが生理的に受け付けなくなりました。今後、個人的に話しかけるのはやめてください」


「私が何かあなたにしたかしら?」



 先生は僕があの会話を聞いたことを知らないようだった。ばれていなくてよかったが、それでも僕はあの会話を聞いてしまっても、先生とそのままの関係を続けることはできなかった。


 たとえ、授業が上手で成績が伸びようと、大人と会話するのが苦手でつい、不器用な笑顔になってしまうような、かわいいところがあるとしても、ダメだ。それ以上にあの趣味を聞いたところで、先生の印象がマイナスからプラスに転じることはない。




 汐留先生は、BLをたしなむオタクらしい。そんな先生に授業を教わる僕は幸か不幸か、成績は今のところ、上位をキープしている。しかし、僕は早く、この先生がどこか違う学校に転勤してくれることを祈っている。


 あんな趣味を持ち、なおかつ、学校で妄想などしている先生を尊敬することなど到底できないし、一緒に居たいと思わないだろう。



「では、授業を始めます」


 そんなことを思いながらも、今日も僕は先生の授業を受けるために席に座っている。汐留先生がおかしな性癖のことを知っているのは、きっと僕だけだ。

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