第20話 選択した世界に、未来を ③

 中迫さんの部屋でドーナツを食べ、コーヒーを飲みながらゆっくりとした時間を一緒に過ごした。そこに、コンコンッと扉をノックする音が聞こえた。


「はーい」


 中迫さんの返事を待って扉が開けられる。中迫さんのお母さんが部屋に入ってきた。


「どうしたの? お母さん」

「いやね、二人でずっと部屋にいるから何をしてるのかなって」

「ちょっと、お母さん!!」

「冗談よ」


 中迫さんは口を尖らして、分かりやすく動揺しながら不機嫌オーラを振り向いている。それを見ながら、中迫さんのお母さんはふふふと笑っている。


「それで岩月君は夕食どうする? 本当に食べて帰る?」


 二人の視線が僕に集まる。窓の外はいつの間にか夜が訪れていた。その暗さでは雨が降っているのかは分からない。ズボンのポケットからスマホを取り出し時間を見るとけっこう長居してしまったのだと今さらながらに自覚する。


「そうしたいですけど、今日はそろそろお邪魔します。色々とありがとうございました」


 僕は頭を下げて感謝の言葉を告げる。それに対して、中迫さんは「帰るの?」と首を傾げるので、「またいつか来るよ」と笑顔で返すと嬉しそうに頷いてくれる。


「それじゃあ、家まで車で送ってあげましょうか? その格好で電車に乗ると悪目立ちしそうだし、もしかしたら職質されるかもしれないからね」


 思わずうっと息が詰まる。言われてみればそうだ。客観的に見れば、目立つガーゼを右目の上にしていて、さらには制服に血の染みがついている。不審者かかわいそうな人にしか思われない。少し想像しただけでも視線が痛い。


「お言葉に甘えさせてもらいます。よろしくお願いします」

「ええ、お願いされました」


 中迫さんのお母さんは楽しそうな笑みを浮かべる。親子だから当たり前かもしれないが笑い方が本当にそっくりだ。


「私も付いて行っていい?」

「順子はだめよ」

「どうして?」

「お父さん帰ってきた時に誰もいなかったら何があったのかと心配かけてしまうでしょう?」

「そうかもだけど……」

「それに、岩月君ともう少し話してみたいからね」

「余計なこと言わないでよ?」

「余計なことって何かしら?」

「それは……」


 中迫さんはまたしても口ごもってしまう。それを楽しそうな表情で中迫さんのお母さんは見つめ、


「じゃあ、車の鍵とか持ってくるから玄関で待っててくれるかしら?」


 と、口にして、手をひらひらと振りながら部屋から出て行った。取り残された僕たちは呆けてしまっていた。僕の方が先にハッと我に返り、帰り支度を始める。ワイシャツやなんかを畳んで鞄に入れようとしたら、ブレザーのポケットに入れっぱなしにしているものの存在を思い出す。


「あっ、そうだ。ハンカチ……」

「ハンカチ?」

「血だらけになっちゃってるけど、洗濯しても落ちないよなあ」

「いいよ。仕方ないことだし」

「そうは言ってもさ。じゃあ、今度、放課後に一緒に代わりの新しいハンカチを買いに行かない?」

「デート?」

「かもね」

「じゃあ、その貸したハンカチのことは気にしなくていいよ」

「うん。でも、制服と一緒にクリーニングには出してみるよ」


 中迫さんは「うん」と頷いて見せる。そして、僕が立ち上がるタイミングで一緒に立ち上がり、玄関に向かってゆっくり歩き始める。


「クリーニングに出すなら、明日、制服どうするの?」

「もう少ししたら衣替えだろうし、それまでは下は夏用で上はワイシャツの上にカーディガンでも羽織るよ」

「それだとあんまり目立たないかもね」


 中迫さんはうんうんと頷く。通っている学校では服装にさほどうるさくはないが、崩しすぎたりするとさすがに注意はされるが、さっき僕が言った程度なら学校内でもよく見かけるレベルだ。ただ僕みたいな真面目で着崩すとか一切しないやつがやれば、知ってる人が見れば違和感がすごいくらいだ。


「それで、カーディガンってさ、前に着てたベージュのあれ?」

「ゴールデンウィークのときに着てたあれのこと?」

「うん」

「さすがに私服用を学校には着て行かないよ。まあ、学校用を普段着ることはないとは言わないけど」


 中迫さんはくすくすと笑うので、僕も釣られるように一緒に笑う。玄関で靴を履いていると、中迫さんのお母さんがやってきた。


「じゃあ、順子。留守番お願いね」

「分かってる。それじゃあ、岩月君。また明日、学校で。今日はいろいろとありがとう」

「ありがとうを言うのは僕の方だよ。それじゃあ、また明日」


 玄関の扉から出て、閉まるその瞬間まで中迫さんは手を振ってくれていて、その姿を名残惜しく感じながら僕は見ていた。

 それから駐車場に行き、助手席に乗るように勧められ、言われるがまま助手席に座りシートベルトを締める。カーナビに住所を入力して、案内が開始されると僕の家に向かって走り出した。


「それで、岩月君」


 中迫さんのお母さんは走り出してすぐに話しかけてきた。


「なんですか? 僕に聞きたいことあるんでしょう?」

「本当に話が早くて助かるわ。じゃあ、単刀直入に。順子とはキミはどういう関係なのかしら?」

「クラスメイトで友達ですよ。今は」

「今はって、あなたね」

「けれど、未来ではどうなってるか分からないじゃないですか」

「そうだけども」


 赤信号で止まった際に隣から不機嫌そうな表情で見つめられる。曖昧な言い回しにどう反応しようか迷っているのだろう。


「一ヶ月くらい前に僕との関係を中迫さんがこう答えたんですよ。本当に反応に困りますよね」

「順子が……ねえ。それで岩月君的には今はどういう関係だと思っているの?」


 信号が青になり車がまた動き出す。エンジン音と共に雨に濡れた路面をタイヤが水を跳ねさせながら走る音が混じる。


「今はクラスメイトで友達なんだと思います。残念ながら期待されているような関係ではないですよ」

「岩月君もなかなかに遠回しというか面倒くさい言い回しをするね。普段からそうなの?」

「ええ。中迫さんにはよく素直じゃないとか、ひねくれてるとか言われてます」


 中迫さんのお母さんは思わず笑いだす。しかし、運転中ということもありすぐに意識を前に向ける。


「順子も順子ね。そういう踏み込んだこと言わない子がキミにはそういう感じなんだ」

「そうなんですか?」

「ええ。順子は普段はあっけらかんと明るいけれど、きっと色々と細かく空気を読んでいるタイプだと思うのよね。それがキミとはなんというか気を遣うのも忘れているみたいでホッとするわ。今日なんていつもに比べたら隙だらけで、キミには本当に心を開いているんだと思ったわ」


 僕の知らない中迫さんの話に耳を傾ける。僕にとっては最初から中迫さんは中迫さんで、自然体で僕の心に潜り込んできて居座るような人で。


「ありがとう」

「急になんですか?」

「いえね、キミといると順子は楽しそうで嬉しそうで。あの子のことこれからもよろしくね」

「はい」


 思わず流れで頷いてしまう。中迫さんのお母さんが嬉しそうに頬を緩ましているだろうことは見なくても空気感でなんとなく伝わる。


「それで、キミはいつ順子とそういう関係になってくれるのかしら?」

「結局そこですか?」

「ええ、そうよ。きっと順子はキミのこと相当気に入って、それでいて気になっていると思うわ。キミはどうなのかな?」


 僕はそれにはすぐに答えずに窓の外に目をやる。窓の外を流れる景色はよく知っているものになっていて、ナビに表示される地図を見ても、家にもうすぐ着くのだと分かる。

 僕はタイミングを見計らう。


「それでそういう関係ってどういう関係ですか?」

「それは言わなくても分かってるでしょう? わざとらしく誤魔化すんだから」

「そうですね」

「キミは順子のことどう思ってるのかしら?」


 僕はその答えを口にしない。答えられないわけでも答えたくないわけでもない。


「それはですね――」


 そのとき、ポンッという電子音が車に鳴り響き、続いて、『目的地周辺です』というアナウンスが流れる。それに合わせるように車は減速する。


「少し前の電柱あたりで左に寄せて停めてください」


 僕の言葉に合わせて、車は停まり車内にはハザードを点滅させているカチッカチッという音が響く。


「僕の家、そこなんです。ありがとうございます」


 そう言ってすぐ前の家を指さす。中迫さんのお母さんは「そう」と相槌を打つ。僕はシートベルトを外し、ドアを開けると、室内灯が灯る。そのおかげで中迫さんのお母さんの表情がはっきりとうかがい知れる。明らかに不満そうな表情をしている。

 僕は体の向きを変え、片足を道路に着いたところで、


「そういえば、僕が中迫さんのことをどう思ってるかですかよね。きっとそういう関係になりたいと思ってますよ」


 そう言いながら体は完全に外に出る。車内に視線を戻し、驚きの表情を浮かべている中迫さんのお母さんに向けて、


「このことは秘密にしておいてくださいよ」


 そう念を押すように言葉を続ける。ドアを閉める直前に、「今日はありがとうございます。お世話になりました」と頭を下げ同時にドアを閉め、反論をさせないように言い逃げする。ドアを閉めた直後、車内から「えええぇぇぇ!!」という驚きの喚声が上がり、なんだか懐かしいなと内心では楽しい気分になる。そのまま家の前まで行き、門扉もんぴを開けながら運転席に向かって再度頭を下げる。

 すると車は静かに前進して、家の前に横付けして助手席の窓が下がり、中迫さんのお母さんが慌てたように顔を見せる。


「つまりはそういうことでいいのよね? 私はあなたたちのこと、反対はしないから安心して」

「はい。でも、未来ではどうなってるか分からないですよ」


 そう言って笑顔を浮かべて見せる。もう一度「おやすみなさい」と挨拶をして、門扉をくぐる。

 未来が分かっている僕が未来を分からないというのは嘘になるだろうか。それでも、当たり前だけど毎日が何が起こるか分からない日々で、それが新鮮で楽しくて。その延長線上に僕が見た未来があるのだろうと信じている。

 その日が来ることを祈った一日が今日も終わろうとしている。僕はいつになったら気持ちを伝えることになるのだろうか。

 未来が分からないからこそ、今という時間が大事なのだと今さらながらに僕は気付かされる。だけれども、どうすればいいのか分からず、今は時間の流れに身を委ねることにした――。

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