第19話 選択した世界に、未来を ②

「それではお大事に」

「はい、ありがとうございました」


 病院の診察室を出ながら、軽く頭を下げる。廊下に出ると中迫さんは心配そうに駆け寄ってきた。


「大丈夫?」

「うん。血がけっこう出た割には傷もそこまで深くないらしくてさ」

「そっか」


 その後ろにいる携帯ショップの店員の男性が近づいてくる。


「どうでしたか?」

「傷は大したことないです。数針縫いましたが治った後でも傷跡は目立つことはないらしいです」

「そうですか。このたびは本当に申し訳ありませんでした」

「いえいえ、事故みたいなものですから」

「そう言ってもらえると助かります」


 それから治療費と血で汚れた服などのクリーニング代を出すことを約束してくれ、連絡先の交換をする。

 それから今日の分の治療費を払ってもらい、家まで送ってくれると言ってくれた。


「それは大丈夫です。迎えを呼んだので」


 そう言って中迫さんが断りの言葉を言うと、再度深々と頭を下げられ、店員の男性は車に乗り込み走り去っていった。それを病院のエントランスを出たところで見送る。


「それで迎えって?」

「岩月君が治療してもらってる間に私のお母さんに連絡したんだよ。それで事情を話したら車で来てくれるって」

「そっか。ありがとう」

「いえいえ」


 中迫さんは僕の顔を覗き見ながらふっと笑みを浮かべるも、僕にはどこか強張って見える。強がっているのか気を遣っているのかは分からない。


「そういえばさ、今さらなんだけど中迫さんは怪我はなかった?」


 僕の言葉に驚いたような表情を浮かべ、表情からさっきまであった硬さが消えてゆく。そして、ぷっと噴き出した。


「笑うことないだろう?」

「だってさ、その状況で私の心配するんだもん」

「別にいいだろ? それで怪我はない?」

「うん。私はこの通り無傷で元気だよ」


 そう言って、くるりと回って両手を広げて見せる。


「それはよかった」

「うん。だって、岩月君が守ってくれたでしょ?」


 たしかに僕の視点ではそういうことになるかもしれない。だけど、実際はそうじゃない。


「僕がただ不注意だっただけだよ」

「そう? でも、ありがとう。私は岩月君のおかげで無事だったよ」

「うん」


 中迫さんの自然な笑顔を見るだけで僕は満たされる思いだった。でも、膝枕をしてもらったり、どさくさで手を握られたりと色々あったことをふいに思い出してしまい、顔をなんだか直視できない。視線を逸らし、空を見上げると頭の上あたりに薄灰色の雲が流れて来ていて、夜に変わりつつある空とともに辺りを少しずつ暗くしていく。本格的にひと雨来そうだなと思っていると、ぽつぽつと雨が降りだした。


「降ってきたね」

「岩月君は傘持ってる?」

「持ってるように見える?」


 中迫さんはわざとらしく首を傾げながら僕を注意深く観察する。


「持ってるようには見えないなあー」

「そんなしっかり見なくても分かるでしょ」

「いやいや、岩月君は何気に準備いいタイプだから折り畳み傘とかあるかもって」

「そうだとよかったんだけどね」


 そう言いながらわざとらしくため息をつくと、隣でくすくすと笑い声が聞こえ始める。僕もそれに合わせて一緒に笑い始める。そのとき、病院の敷地に一台の車が入ってくるのが見えた。それを見て、中迫さんが車に向かって手を振る。


「お母さん来たみたい」


 僕たちの前に車は止まり、中迫さんは後部座席に乗り込み、奥に詰めると、「岩月君も早く乗りなよ」と急かしてくる。意を決して車に乗り込み、ドアを閉める。車の中は芳香剤の香りがした。


「お母さん。この人がさっき電話で話した岩月君」

「すいません。お世話になります」


 僕が頭を下げて顔を上げると、運転席に座っている中迫さんのお母さんがミラー越しに僕をじっと見つめて、ふっと表情が緩む。


「キミが噂の岩月君なのね」

「噂……ですか?」

「ええ、キミの名前は何度か順子から聞いてたからね。最近は特に」

「もう、お母さん!」


 中迫さんが素で焦っている様はなんだか新鮮だ。


「それでよかったらうちでご飯でも食べて行かない? その怪我、うちの子を助けてくれたときにしたんでしょう?」

「えっと……」


 僕は返事に困ってしまう。いつの間に僕は助けたことになってしまったのだろうか。


「岩月君、よかったらうちにおいでよ」

「いいのかな? でも、さすがに親に相談しないと」

「それなら、少しうちでゆっくりするだけならいいでしょ? 雨が止むまで、ね?」


 隣で中迫さんが上目遣いで僕を見つめてくる。僕はその目には弱いみたいで、断ることができない。僕は目を逸らしながら、「まあ、それくらいなら」と返事をすると、中迫さんの表情がぱあっと明るくなる。


「もうかわいい顔しちゃって。順子、雨が止まなかったらどうするの?」

「そのときはご飯も食べて行けばいいよ」

「意外に積極的なのね。じゃあ、帰りにドーナツでも買って帰りましょうか」

「そうだね」


 そうして、雨の中、僕たちを乗せた車は街の中を走りだす。途中、ドーナツ屋に寄って中迫さんの家へ。

 中迫さんの家はよくあるマンションの一室だった。僕はリビングに通され、中迫さんは荷物を置いてくるからと自分の部屋に向かった。


「それにしても、その格好だとさすがに落ち着かないわね」


 中迫さんのお母さんに全身をまじまじと見られる。同じように自分の姿を改めて確認する。ワイシャツは血が滲んでいたので診察室で脱いで鞄に突っ込んだ。今は下に着ていた、白無地の半袖シャツにブレザーを着ている状態だ。そのシャツにも血の染みがあり、ブレザーやズボンにもよく見ると血が点々としている。


「ちょっと待っててくれるかしら」


 そう言うと中迫さんのお母さんはリビングから出ていった。一人残されてリビングをゆっくりと見回す。自分の家とは違い調度品の一つ一つがオシャレに見える。それだけじゃなく、家の匂いもなんだか違う。ぼんやりしていたら、中迫さんがリビングに入ってくる。ブレザーとリボンだけを外して、ワイシャツのボタンを上二つを開けた楽な格好だった。


「あれ? お母さんは」

「たぶん着替えを用意してくれてるんだと思う」


 中迫さんは僕の姿を見て、ああ、と声を漏らす。それからすぐに中迫さんのお母さんは無地の薄手の長袖シャツを手に戻ってきた。


「これ、うちのお父さんのだけど、サイズはたぶん大丈夫だと思うわ」

「ありがとうございます」


 シャツを受け取ると、どこか違う場所で着替えておいでとも言われないので、仕方なくここで着ているシャツを脱いで着替えた。借りたシャツは少しだけ大きかった。


「借りた服は洗濯して返しますね」

「学校で順子に渡してくれたらいいから。それじゃあ、飲み物用意するわね。岩月君は紅茶とコーヒー、どっちがいい?」


 中迫さんのお母さんは中迫さんとよく似た柔らかい笑顔を向けてくる。


「岩月君はコーヒーだよね?」


 僕が答えるより先に中迫さんが答える。


「なんであんたが答えるのよ? それで順子の言うようにコーヒーでいいのかしら?」

「あ、はい。お願いします」

「順子は?」

「私もコーヒーでいいよ」

「あら珍しい」

「今日はコーヒーの気分なの。それにカフェオレにするからいいの」

「はいはい」


 中迫さんと中迫さんのお母さんは笑顔でやり取りをかわす。


「それじゃあ、岩月君。ドーナツは私の部屋で食べようよ。お母さんに邪魔されたらかなわないし」

「順子、お母さんは邪魔者扱いなの?」

「だって、絶対に余計なこと言うでしょ?」

「余計なことって何かしら?」

「それは――」


 中迫さんが言葉に詰まると、中迫さんのお母さんはふふふっと笑みをこぼす。


「本当にかわしらしいんだから。そうは思わない? 岩月君」

「えっ、僕ですか?」


 突然話を振られる。そして、中迫さん親子の視線がすっと集まる。すぐ隣で耳を少し赤くして、ううっと口元をきゅっと引き締めた中迫さんと、カウンターキッチンの向こう側で楽しそうに柔らかな表情を浮かべる中迫さんのお母さん。

 僕は一つ大きく息を吐き、心を決めて、


「かわいいと思いますよ」


 と、口にすると、隣の中迫さんは視線を逸らし、頬まで赤くする。中迫さんのお母さんは「あらあら」と嬉しそうに笑っていて。

 突然、中迫さんにぐっと腕を引っ張られる。


「部屋にいこ」


 中迫さんは足早に僕を引っ張りながら歩く。手にしている荷物を落とさないように付いて行く。そのまま廊下に連れ出され、ある部屋の扉の前で足を止める。


「ここが私の部屋だよ」

「入ってもいいの?」

「じゃなきゃ、連れてこないよ」


 中迫さんは視線を合わせないようにしながら、扉を開けて、部屋の中に迎い入れてくれる。

 まず最初に女の子らしい明るい色のシーツのベッドが目に入った。そういう生活感のあるものが生々しく感じられ、目のやり場に困ってしまう。そのベッドの前の小さなテーブルに座るように促される。


「けっこう普通の部屋でしょう?」

「いや、女の子って感じの部屋だよ。女の子の部屋に入るの初めてだけど」

「なにそれ?」


 中迫さんはテーブルを挟んだ反対側にベッドにもたれるように座りながらクスクス笑っている。その顔を見ると、なんだかほっと落ち着いてくる。気が緩むと、部屋の匂いに注意が向く。ゴールデンウィークのときに中迫さんのオススメだと言われて嗅いだアロマの匂いを思い出す。あのときよりもすっきりとして柑橘系の匂いが鼻の奥をくすぐる。


「この匂いって……」

「ああ、そっか。私は慣れちゃってるけど、岩月君からしたらきついかな? 窓開ける?」

「いや、大丈夫だよ。ゴールデンウィークのこと思い出してさ。それにこの匂い好きだよ」

「本当に? ならよかった」


 嬉しそうに笑う中迫さんを見ながら、僕も自然と頬が緩む。そして、ミサンガにそっと触れる。中迫さんも同じように自分のミサンガに触れていて、思わず顔を見合わして笑ってしまう。

 きっとお互いに照れ隠しを込めて――。

 そして、しみじみと僕は目の前の女の子が好きだなと思った。

 窓の外はまだ雨模様で――。

 恋は盲目というが、本当にそうなのかもしれない。

 中迫さんと出会う前の僕からは考えられないようなことばかりしている。

 その証拠に雨が止まなければいいと僕は人生で初めて思っていた。そうすればこうしていられる時間が永遠に続くとさえ思っていた――。

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