第18話 選択した世界に、未来を ①

 どうしてこんなことになったのだろうか。

 僕は今、中迫さんに膝枕をされている。動くことさえ躊躇ためらわれるほど、窮屈きゅうくつな体勢で。そして、下から見上げる中迫さんは心配そうな表情を浮かべているが僕はそんなことより長いまつ毛と目のやり場に困りそうなほど近くにある胸の膨らみが気になってしまうわけで。ふと中迫さんと目が合うと、


「大丈夫? 岩月君?」


 と、声を掛けられる。それに「なんとかね」と答えつつ、僕の頭に置かれた中迫さんの手の温かさを感じていた。



 今からおよそ三十分前――。


「それじゃあ、僕は帰りに本屋に行きたいから」

「私もルーズリーフとか買いに行きたいし、岩月君に付いて行こうかな」


 いつものメンバーで帰っていて、駅の近くまでやってきたときだった。


「私も付いて行こうかなー」

「祐奈は何か買いたいものあるの?」

「いや、特にないよ」

「それならわざわざ付いて行くことないでしょ? どうせ二人も買いたいもの買ったらすぐに帰るだろうし、あんた帰りの電車一人になるけどいいの?」

「それは嫌だなあ」


 柴宮さんは渋々納得して、野瀬さんと相川の三人で駅の方に向かって歩き出す。それを僕と中迫さんは見送り、駅近くの大きな本屋に入った。


「じゃあ、私はルーズリーフ買ってくるね」

「分かった。僕は小説が置いてるあたりにいると思うから」

「うん。じゃあ、あとでね」


 店内で別れ、僕は真っ直ぐに小説の置いているコーナーに向かう。スマホを取り出し、西城さんとのやり取りでおススメされた本がどれだったかを確認する。また買ったら交換しようという約束をしていた。

 僕は目当ての本を手に取り、それとは別に一冊の気になる本を手に取り、あらすじに目を通した後、いつものように立ち読みを始める。読み始めて少しすると、隣に人の気配を感じて、小説から目をあげる。


「ごめん、邪魔した?」


 僕の視線に気づいた中迫さんが声を掛けてくる。僕は読みかけの小説を閉じ、この本も買うことに決める。僕が立ち読みしていた小説は文章も書き口もよかった。内容も気になるし、この本は野瀬さんが好きそうだと思った。あの人には細かいことで借りがある。今日だって、野瀬さんがいなければ、中迫さんとこうやって二人になれていなかっただろう。だから、こういうことで少しずつ恩を返そうと考えてしまう。


「それじゃあ、行こうか」

「いいの?」

「何が?」

「本当はゆっくり探したりしたいんじゃない?」

「まあ、そうだけど、それはまた今度にするよ。それに目当ての本は見つかったし」

「そっか。それならいいんだけど」


 どこか気まずそうに笑う中迫さんに、僕はそんな表情をしてほしくないのになと思ってしまう。僕は本を選ぶゆっくりとした時間が好きだけど、それ以上に中迫さんといる時間の方が大切なだけだ。

 会計を済ませ、本屋を出て歩きながら、


「それで今日もあの喫茶店に行く?」


 僕の質問に中迫さんは足を止める。その瞬間に強い風が吹き抜け、中迫さんは髪とスカートを手で押さえる。空を見上げると雲の流れが速く、もしかしたらこれから天気が悪くなるかもなと考える。視線を下に戻し、真っ直ぐに中迫さんを見つめる。


「それでどうする?」

「行きたい」


 やっと中迫さんがいつもの笑顔になる。そのことでホッとしつつ、さっきの本屋での中迫さんの表情を思い出す。


「ねえ、中迫さん」

「なに? 岩月君」

「さっきは僕が本を読んだりするのが好きだから気を遣ったの? もしそうならそんなこと気にしなくていいよ」


 中迫さんは目を丸くして僕をすぐ隣から見上げる。


「それに、今さら気を遣われても遅いんだよな」

「ちょっとそれはひどくない?」

「だって、そうだろ? いつも僕が本を読んでいようが気にせずに話してくるのに今さらだろ?」

「そうかもだけどさ。それだったら、岩月君はどうなのさ?」

「何が?」

「さっきもだけど何気に私に気を遣ってるよね? 私は岩月君に優しくはされたいけど気を遣われるのは嫌だ」


 中迫さんは唇を尖らせながら早口でまくし立ててくる。


「それはわがまま過ぎじゃない? それに僕は中迫さんのこと気にはしてるけど、気を遣ってるわけじゃない」


 中迫さんの勢いに飲まれて、思わずポロリと余計なことを言ってしまう。口にしてからやってしまったと、耳が熱くなる。


「ねえ、それって……」


 中迫さんも突然のことでさっきまでの勢いはどこかに行き、思わず目を伏せる。


「気を遣わずに優しくしろって言ったのは中迫さんだろ?」

「そうだっけ? ははは……」


 少し気まずい空気のまま並んで歩く。そんなときだった。ふいに未来の記憶が再生される。



 どこか気まずくて話すきっかけを探しながら歩いていた。時折吹く風は強く、隣を歩く中迫さんは髪を押さえたり目にゴミが入らないように気を付けていて、大変そうだなとぼんやりと思っていた。

 顔を上げると、視界の端に携帯ショップの前で女性が看板を持って宣伝をしているのが見えた。新しいスマホの予約を開始したとか、他社からの乗り換えだと割引きがあるだとか。

 そっちに注意が向いていると、また一段と強い風が吹き抜ける。その風にあおられたのぼり旗が激しくはためく。ばたばたとたなびく旗をかわすために、すっとスーツを着た男性が進路を変えてきた。その男性からも僕や中迫さんからもお互いに旗で死角になっていた。そして、気付く間もなく中迫さんともろにぶつかってしまい、その反動で中迫さんは派手に転んでしまった。そのままうずくまり起き上がる気配がない。


「大丈夫? 中迫さん!」


 駆け寄ると、中迫さんは顔を上げて、「大丈夫だよ」と力なく返事をする。ぶつかった男性も中迫さんに声を掛けているが、中迫さんは同じ言葉を繰り返すのみだった。

 そして、僕を支えにして立ち上がるもバランスを崩して、抱きつくようになってしまう。これが何もない時ならドキドキもしたかもしれないが、今は背中に変な汗をかきそうなくらい焦って、心配していた。

 中迫さんに腕を回し支える。よく見ると膝から血が流れて紺のソックスに染みていく。中迫さんは足に力が入らないのか僕の制服を掴む手には力が込められていた。

 スーツの男性は深々と頭を下げ再度謝り、名刺を渡してきた。治療費などは払うと言ってきた。中迫さんは、


「そのときは連絡するかもしれません。だけど、不運な事故なので誰も責められないので、気にしないでください」


 と、笑顔を作り、許していた。だけど、僕だけはもっと注意していればと後悔が残った――。



 ふっと意識が現在に戻ってくると、隣を歩く中迫さんを横目でちらりと見つめる。さっきの余計な一言のせいで妙な気まずさを引きずっているのか、少しうつむき加減で歩いている。たまに強く吹き抜ける風に中迫さんの柔らかな髪は乱れ、とっさに抑えている。

 さっき見た未来はこのあとすぐなのだろう。その証拠に携帯ショップとその近くにのぼり旗がいくつも立っているのが見える。さらに少し遠くを目を細めて見ると、道の端を歩く中迫さんとぶつかることになるスーツ姿の男性が見えた。


「今年の夏モデルの予約を承っていまーす! 今なら他社から乗り換えで機種代が最大で半額になります! よかったらどうですかー」


 携帯ショップの前で看板を持って、道行く人に声を掛けているのが見える。僕は自然に中迫さんの腕を軽く引き、進路を変える。


「えっ!? なに?」

「スマホ買い替えようかなって思ってたんだよ」

「そうなの?」

「あっ、もしかして興味ありますか?」


 僕たちに気付いた看板を持った女性がこちらに注意を向けたそのときだった。今日一番の強い風が吹き抜ける。ちらりと横目でスーツの男性と中迫さんの位置関係を確認する。スーツの男性は突然激しくたなびきだしたのぼり旗に驚き進路を変えるが、中迫さんとはぶつかるような位置関係にないのは明白だった。ほっと安心の一息を付いていると、


「キャッ!」


 という小さな悲鳴と、


「あぶないっ!!」


 と、中迫さんの焦る声が聞こえる。それと同時に、ガンッという強い衝撃と共に僕は地面に尻もちをついた。何が起こったのか分からなかった。ただ右眉のすぐ上あたりがズキズキと痛み、視界の右半分が赤くにじみ、思わず右目を閉じる。手で痛む場所を押さえると、ぬめっとした感覚と、顔を伝う水っぽい何か。手を見ると案の定、真っ赤になっていた。


「だ、大丈夫? 岩月君!」


 中迫さんがしゃがんで僕を覗きこみながら尋ねてくる。中迫さんはハンカチを取り出し、傷口に当てて押さえる。


「大丈夫だよ」

「でも、血が……」


 中迫さんは心配そうな目で僕を見てくるが、どうやら怪我はないみたいだ。僕が中迫さんの代わりに違う形で怪我を請け負ったのだろう。

 できるだけ冷静に辺りを見回すと、近くに看板がころがっている。きっと看板が変な風の受け方をして、女性がバランスを崩して、不運にも看板が僕に当たったのだろう。その証拠に看板を持っていた女性は顔を青くして、言葉も発せないほど憔悴しょうすいしているようだった。


「だ、大丈夫ですか!」


 携帯ショップの店内から店員が出てくる。きっと窓越しにトラブルがあったことが見えたのだろう。そして、状況を見てだいたいのことを察したのか、「とりあえず、店の中に。救急箱持ってきます」と、僕たちを店内に招き入れる。僕は中迫さんに支えられながら店内に入り、床に鞄を枕に横になる。持ってこられた救急箱を開け、消毒液を染みこませたガーゼで傷を消毒し、綺麗なガーゼで傷口を覆うようにテープで止められる。


「病院に行きますか? 怪我した場所が場所なので」


 頭がぼんやりとしてすっと返事が出てこなかった。怪我のせいか熱が出たみたいに額辺りが熱く感じる。


「念のため病院に行こうよ、岩月君」


 中迫さんの声に僕は力なく「ああ」と小さく頷いて見せる。


「それじゃあ、車回してきます」


 そう言った男性の店員は他の店員に指示を出して、バックヤードに消えていく。おそらく彼がここの責任者なのだろう。

 中迫さんは心配そうに僕を見下ろしながら、震える手で僕の手をぎゅっと握る。その温もりがとても心地よくて安心できる。

 軽く握り返すと、中迫さんは僕に顔を向け、


「ごめんね」


 と、なぜか謝られる。僕は怪我を含めて後悔はなかった。なぜなら中迫さんを守れたのだから。

 だけど、僕には中迫さんの謝る理由も曇る表情の理由も尋ねることもできなかった。

 それから車に乗り込み、後部座席で僕は中迫さんに病院に着くまで膝枕をしてもらうことになった――。

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