第15話 雨間にこぼれる光に、未来を ①

 五月もそろそろ終わりに差し掛かり、学校の雰囲気は次第に重たくなっていく。

 それもそのはずで、六月に入るとすぐに定期試験があるのだ。

 そんな陰鬱な空気に呼応するかのように窓から見える空は厚い雲に覆われていく。そんなひと雨来そうな空を授業を聞きながら眺めていると、未来の記憶が再生され始めた。



 本に囲まれ、インクの匂いとほこりっぽい独特の匂いがする図書室で少しだけ軽くなった鞄と気持ちで部屋の奥に向かって足を進める。さすがに試験が目前に迫ると、利用者が増えるんだなと辺りを見ながら前に来た時に座った場所を目指した。本棚の間を抜けた先に見えたテーブルには先客がいて、思わず驚いてしまう。こんな場所にいるとは本気では思っていなかったのだ。

 僕がふと立ち止まると、さっきまで雨が降っていてはずなのに雲間から光の筋が降りてきて、そのうちの一つが目の前の女の子をスポットライトで照らすように射しこんできた。

 キラキラと光を反射する埃さえも舞台装置のようにしか見えず、その光景に思わず見とれてしまう。そんな僕に気付いた女の子は柔らかい笑顔を浮かべ、僕と色違いのミサンガをした右手で手招きをしてくる。僕はその笑顔と手招きには今までもこれからも逆らえない。誘われるように隣に座り、この世界で一番綺麗なものを隣から見つめていた――。



 ふっと意識が現在に戻ってくると、雨がポツポツと降りだしたところだった。


「ここの『我が身はさ観音にこそありけれ』の『ありけれ』は動詞のあると助動詞のけりの組み合わせなわけだ。このけりという助動詞は過去の伝聞なんかを――」


 今日最後の授業の古文はどこか眠くなりそうな呪文のようにも聞こえる。実際、教室内ではうとうととしている姿もちらほら見えるが、先生はそれに関係なく板書しながら説明を続けていく。

 説明と解説が終わると、続きの文章を音読するように日付の下一桁と出席番号を関連させ生徒を当てる。幸い僕じゃなくてほっとする。当てられた生徒は教科書を手に立ち上がり、音読を始めた。


「さて見知りたる人出で来ていうやう――」


 それを聞きながらつい先ほど見た未来の記憶を思い返す。

 きっとあれは今日の放課後で場所は図書室だ。そう思うと気が重くなる。僕はまだ西城さんとどんな顔をして向かい合い、どんな話をすればいいか分からないので意識的に避けていた。もちろん図書室に行けるはずもなくて。

 しかし、記憶の中の僕は図書室に足を運び、心が軽くなっていた。それも前の席で小さくふねをこいでいる女の子に会う前にだ。さらには会う約束をしていたわけでなく偶然そこで鉢合わせたみたいだった。

 そう考えると、僕はそれまでにきっと何かいいことがあったんだと推測できた。一番思い当たりそうなのは西城さんとのことだった。僕の鞄には、西城さんと話すきっかけにするためにいつか貸すと約束した本を入れっぱなしにしていた。きっと話すことで上手く気持ちの落としどころを見つけれたのだろう。

 そういう未来が見えたから図書室に行こうと思うのは卑怯なのかもしれない。


 授業が終わると教室には活気が戻ってくる。椅子が床と擦れる音、話し声、教室の扉を開ける音。その中で僕は日直の仕事である日誌を書く作業をする。


「ねえ、岩月。これありがとう」


 隣の野瀬さんが貸した小説を返してくるので、手を止めて受け取って机の端に置く。


「どうだった?」

「かなりよかった。こういうほろ苦い感動系はけっこう好みかも」


 野瀬さんは本の感想を楽しそうに話してくれる。僕が貸したのは、大切な想いや言葉が形になって視える主人公が、数年前に事故で亡くした幼馴染のそれと出会うところから始まる。そして、そういうものの声を聞くことができるという女性とともに、幼馴染の最期の想いと言葉を受け取ろうとする切なくも暖かい泣ける系の小説だった。


「――でさ、ラストは読みながら泣いちゃったよ」

「そっか。じゃあ、次もこういう本を見繕って持ってこようか?」

「それはありがたいんだけどさ、できれば試験のあとにしてもらえる?」

「わかった。たしかに、勉強しないと僕もやばいし」

「岩月がやばいとか絶対嘘でしょ」


 野瀬さんはそう言いながら窓の外の天気と同じようなじっとりとした視線で僕を見てくる。


「なーに話してんの? 千咲、岩月」


 柴宮さんが自分の鞄を手に会話に入ってくる。


「岩月が勉強しないとやばいって言いだすからさ」

「まじで? それって嫌味でしかなくない? 岩月でやばいなら私なんてどうなんの? すでに諦めモードだよ」

「いや、あんたはまじで勉強しなさいよ。赤点取るとかやめてよね?」


 野瀬さんの言葉に柴宮さんは頬を膨らませながら、「そこまでやばくないもん!」と声を上げて、ふっと噴き出して笑い始める。

 いつもなら前の席に座る中迫さんも話に加わって、途中まで一緒に帰ったりするのだけれど、ここ数日は様子が違っていた。

 中迫さんは荷物を鞄にしまうとすっと立ち上がり、


「じゃあ、私は用事あるから先に行くね」


 と、そそくさと立ち去ろうとする。


「ねえ、順子ちゃん。最近ずっとそんな感じだけど何してるの?」


 柴宮さんの言葉で中迫さんは足を止める。中迫さんは振り返って、


「勉強だよ。職員室で先生に分からないところ聞いたりしてるんだよ」


 と、どこか違和感のある笑顔で口にする。


「うへえ。本当に? 最近ちょっと付き合い悪いと思ったら」

「ごめんね。そういうことだから。じゃあ、またね」


 中迫さんはそう言いながら手をひらひらと振って教室から出ていく。少しして野瀬さんが隣で鞄を肩にかけて立ち上がる。


「じゃあ、祐奈。私たちも帰ろうか?」

「そだね。ねえ、千咲」

「勉強は一人でがんばりなさいよ」

「まだ何も言ってないじゃん!」


 二人は笑いながら、僕にまたねと声を掛けて教室から連れ立って出て行った。僕が日誌を書き終えるころには教室内は閑散としていて、廊下を歩く足音や話し声も遠く、窓を叩く雨音の方がはっきりと聞こえる。

 職員室で藤崎先生に日誌を渡しながら、室内を見渡すが、中迫さんの姿はなかった。僕が見た未来では図書室で会うはずなので、中迫さんがここにいるはずがないと分かってはいるが、さっきの教室での会話からもしかしたらと思ってしまったのだ。


「どうかした? 岩月君」

「いや、なんでもないです。それじゃあ、失礼します」


 藤崎先生は「ええ。お疲れ様」と、ニコッと笑顔を浮かべる。僕は一礼して、職員室を出た。そのまま目と鼻の先の昇降口には向かわず、違う方向へと歩を進める。

 中迫さんとの未来は楽しみだが、その前に西城さんと向かい合わなければならない。未来の記憶でなんとかなるのだろうと分かっていても気が重く、図書室に向かう足取りまでも重くなったように思えた。

 図書室の前までたどり着くと、一つ深呼吸をする。

 扉に手をかけゆっくり開ける。入ってすぐのカウンターに座っている西城さんと目が合うも西城さんは気まずそうに視線を伏せてしまった。

 僕は勇気を出し、一歩ずつゆっくりとカウンターに近づいていく。


「あのさ……ちょっといいかな?」


 僕はカウンター越しに西城さんに小声で話しかける。西城さんは顔を上げ、僕を見つめる。そして、ゆっくりと辺りを見回して、小さく頷く。


「そこで立ちっぱなしだと目立つからよかったらこっちに回って」


 西城さんは自分の座っている隣の席を指さす。僕はカウンターの内側に入り、隣に座りながら久しぶりに間近で西城さんの横顔を見つめる。カウンターの陰には読みかけで開いたままの小説といつか見たしおりが見える。僕の心はチクリと痛む。


「なんか話すの久しぶりだよね」

「そうだね」

「やっぱり僕と話すのはまだ嫌だったりする?」


 西城さんは伏し目がちに小さく首を横に振る。ポニーテールもその動きに合わせて柔らかく揺れる。


「嫌じゃないけど、まだ気持ちの整理がついていないというか」

「そっか。僕もそうかもしれない。どんな顔で西城さんと話せばいいか分からなくてさ」

「うん……」

「でもさ、それでもいつ西城さんと話してもいいようにって思ってさ、これ」


 僕は鞄から一冊の本を取り出す。それはいつか読み終わったら交換しようと話していた本で。


「この本……」

「いつか貸す約束してたじゃん? それに西城さんいないと僕の読書ライフは満たされないからね」

「それは私に早く読んで感想を教えろってことかな? それとも私が持ってる本を貸してくれってことかな?」

「どっちもだよ。僕一人分の小遣いでは買える本は少ないからね。それに僕が見落としてる面白い本を教えてくれるのは西城さんしかいないし」


 西城さんは一つ大きな息を吐く。それと同時に表情からは硬さが消える。そして、肩を揺らし始め、目元を指で軽くぬぐう。


「ほんと岩月君は相変わらずというか、なんというか。やっぱりずるいよ。でもさ、あのとき友達になろうって言ったのは私なんだし、わざとらしく距離を置くべきじゃなかったんだよね」

「距離を置いてたのは僕もだから、西城さんだけが悪いわけじゃない」

「優しいね」

「卑怯なだけだよ」


 顔を見合わせて声を出さずに笑い合う。

 僕は今まで誰からも踏み込まれないように、誰にも踏み込まないようにしていた。中迫さんに出会って、一歩踏み込んだ先にある世界というのを知った。

 だから、勇気を出して一歩踏み出せばよかっただけだったのだ。

 そうすれば元々僕と西城さんは好みや価値観は近いのだから歩み寄ることは簡単で、あとはお互いの気持ちの落としどころを自分で見つけるだけなのだ。僕と西城さんはきっと友達として新しい一歩を踏み出せたはずだ。

 僕は椅子から立ち上がる。


「岩月君、帰るの?」

「いや、まだ図書室でやらないといけないことがあるから」

「そっか」


 今まで渡せず鞄の中で重しになっていた本を渡したことで少し軽くなった鞄と、積み重なっていた迷いやわだかまりが解消されたことで心と足取りも軽くなる。

 前に来たときはガラガラだった図書室には勉強をする生徒がポツポツと座っていた。独特のインクと埃っぽさの混じった匂いのする部屋の中を奥に向かって歩き出す。

 僕には会いたい人がいて、その人が本棚の奥の隠れるようにある席に座っていることを知っている。

 そして、今まではその人から僕の世界に踏み込んできた。その人の言葉を借りれば、僕の退屈な世界を壊してくれた。

 今度は僕から踏み込んで行って、同じように僕のことを意識させたいと思ってしまう。


 本棚の間を抜けた先にある席にその姿を捉え、僕は立ち止まる。

 未来の記憶であったようにいないと思って驚いたからではない。僕はこれから目の前に現れる光景が見たかったからだ。

 窓の外ではゆっくりと雲間から光が筋になって降り注ぎ、その一つが彼女を照らし出す。

 エンジェルラダーとはよく言ったもので、僕の前にキラキラと光を纏う天使が舞い降りてきた。

 僕に気付いた天使は柔らかく嬉しそうな僕にだけ見せるあの笑顔を浮かべ、ミサンガをした右手で手招きをする。

 誘われるように光の元へ僕は歩き始める。

 世界で一番綺麗なものを僕だけが目にしていた――。

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