第6話 春が終わり動き出す世界に、未来を ②
学校に向かう電車の中でも、最寄り駅から学校まで歩いているときもどこか落ち着かずそわそわしてしまう。今日は周りがあまり見えていないなと自分でも感じていた。その証拠に駅で人にぶつかるし、昇降口で靴を履き替えているときに自分で開けた棚の扉で頭を打ったりと注意力が散漫になっている。
教室にやっとのことでたどり着くと、力なく机に突っ伏して、ひとときの平穏と心地よい机の冷たさに身を委ねた。
「おはよー」
誰に向けられたわけでもない中迫さんの声に一瞬ビクッとなる。中迫さんが教室に入ってきて、誰かと談笑を始める。その声を遠くに聞きながら、できるだけ意識しないように努めるも、聞こえてくる中迫さんの笑い声を僕の耳はしっかりと聞き分けてしまう。
「よーす、篤志。おはよう」
前の席に座りながら相川が声を掛けてくる。ゆっくりと頭をあげると、
「なに、篤志。今日、調子悪いの?」
と、いつものにやけ面で心配そうに尋ねてくる。
「おはよう、相川。調子は……悪くはないと思うけど……いや、あんまりよくはないかも」
「どっちだよ!」
相川は思わずツッコミをいれてくる。
「まあ、無理そうだったら保健室に連れて行くくらいはしてやるからな」
「まあ、そういうことにはならないから」
「せっかく篤志の弱ってるところ見れた感じで楽しかったのに」
「そこで楽しむなよな」
「悪い、冗談だって」
それにはもう返さず、教室の時計に目をやる。そろそろ予鈴の鳴る頃合いだ。一度伸びをして、気を入れ直す。相川は悪いやつではないことは分かっているが、話すとなんだか疲れる。しかし、今日に限ってはそのおかげで気持ちは幾分かニュートラルに戻せた感じがした。
それからはいつも通りに授業を受け、休憩時間に相川のくだらない雑談に付き合う。
そして、昼休み――。
教室内ではチャイムと同時に解放され、それぞれお昼を一緒に食べるグループを形成していく。僕は普段は一人で食べるか、二、三日に一日のペースで相川が勝手に一緒に食べようと言って机を合わせてくる。今日は相川はそういう気分の日だったらしく、
「篤志、弁当食おうぜ」
と、自分の弁当を取り出しながら声を掛けてくる。いつもはちょっとうざったいのだが、今日に限っては嬉しい気もする。それは僕が弁当を持ってきていたらの話だが。
「悪い。今日は弁当じゃないんだ」
「珍しいな」
「まあ、そういうわけで今日は学食だから」
「分かった。じゃあ、また今度な」
そう言うと相川は弁当を手に別のグループに、「飯食おーぜ」と飛び入り、話の輪に加わっている。そういう自由気ままに色んな人と関われるのは素直に尊敬する。それを横目に財布がポケットにあるのを確認して、教室を出た。
学食に向かっていると、
「ねえ、岩月君」
と、声を掛けられた。声で誰かは分かっていたが立ち止まり振り向くと、そこにはやっぱりというか中迫さんがいた。そして、並んで歩き始める。
「なに?」
「岩月君、今日は学食なんだよね?」
「そうだけど?」
「ああ、やっぱり。相川君、声大きいからちょっと聞こえちゃって」
「そっか」
「私も今日学食なんだ。一緒に食べようよ」
そう上目遣いに提案してくる。意識してやっているわけではないだろうが、その視線を前にするとノーという選択肢はないに等しい。
「別に断る理由ないし、中迫さんがそうしたいならいいよ」
「なんで素直に、うん、いいよ、って言えないかなあ?」
中迫さんは頬をわざとらしく膨らませる。その顔を見るとなぜだか、からかいたくなる。
「そう言えるほど仲良くないからじゃない?」
「ああ、そっか」
中迫さんは納得したように頷き、にへらと頬を緩ませる。
「じゃあ、これから仲良くなればいいんだよ」
「そうかもだけど、ほぼほぼ初めて話すクラスメイトとよくそんな楽しそうにできるよね?」
「そんなことないよ。それに、入学式の日にぶつかったじゃん? 覚えてる?」
「覚えてるよ」
「まあ、そのこともあって、ゆっくり話せる機会ないかなって思ってたけど、なかなか話す機会なくってさ」
「中迫さんは人気ものだから、僕みたいな日陰者に関わることなんてそうないだろうし、仕方ないでしょ?」
すぐに言葉が返ってこないので中迫さんの方に視線を向けると、むっとしたような表情を向けられていた。
「岩月君はまたそうやってすぐひねくれるんだから」
「悪かったよ」
「うん、よろしい」
そう言い、また楽しそうに笑う。僕の中でのカテゴライズは相川と同じ悪いやつではないけど一緒にいると疲れそうな相手という分類になりそうなのに、どういうわけか中迫さんのことは受け入れることができるらしく、その証拠に何度も素で軽口を叩いている。
「岩月君ってさ、もっと話しにくい人だと思ってた」
「そうかい?」
「うん。でも、なんか話してて気を遣われたり合わされてるって感じがないからすごい楽かも」
そう言いながらいつか見た、柔らかい笑顔を浮かべる。やっぱりいつもの教室で見せる笑顔とはどこか違って見える。その笑顔には見とれてしまうし、自分の素を引っ張り出されるような気がした。
そのまま上機嫌の中迫さんと一緒に学食へ。
学食は喧騒に包まれていて、その中を時折、食器同士のあたる音が響いたりしていた。
券売機できつねうどんの食券を買い、それを隣で見ていた中迫さんは「じゃあ、私も」と同じようにきつねうどんの食券を買い、手にする。順番待ちの列にトレイを手に中迫さんと並んでいると、
「私、学食って初めてなんだよね。ちょっとワクワクだね。岩月君は?」
と、周りを見渡しながら楽しそうな声で尋ねられる。
「僕も学食は初めてだよ。普段は弁当だし」
「そうなんだ。私もいつもは弁当だからねえ」
「じゃあ、今日はどうして学食?」
そう尋ねると、少し恥ずかしそうに笑いながら、
「朝ちょっとバタバタしててさ、弁当を鞄に入れるの忘れちゃって」
と、答えるので、なんだかおかしくて小さくクスクスと笑ってしまう。
「笑うことないじゃん。いや、岩月君がそうやって素直に笑うところ見れたからいいか」
「結局、僕は笑ってもいいの? いけないの?」
「うーん。これからもっとそうやって素直に笑ってくれるならいいよ」
「分かった。中迫さんの前ではできるだけ素でいることにするよ」
「なら、いっぱい笑ってよ」
そう言いながら笑顔を向けられる。その顔は心から楽しそうで、僕まで自然に頬が緩んでしまう。
「それでさ、岩月君はどうして学食? 私みたいに忘れたとか?」
「そこで一緒にしないでくれよ。僕は忘れてない。忘れたのはうちの母親だから」
「弁当作ってくれなかったの?」
「正確には、炊飯器のスイッチ入れ忘れた」
「それはなんというか……」
「まあ、いつも作ってもらってるから、ドンマイって感じだよな」
そう言いながら笑うと、中迫さんは「岩月君って優しいんだね」と笑う。
自分たちの番になると、学食のおばさんは僕と中迫さんの食券を確認し、さっときつねうどんを用意してくれる。トレイに置かれたきつねうどんを見て、中迫さんは、
「わあ、おいしそう。おばさん、ありがとう」
と、笑顔で声を掛ける。おばさんもマスク越しで分かりにくいが笑顔で、「熱いから気を付けてね」と口にしていて、去り際に中迫さんは「うん、わかったー」と返事をしていて、どこかほのぼのとする。そのまま、並んで空いている席を見つけ、腰を下ろす。“いつも通り”右利きの僕が右側で、左利きの中迫さんが左側。そこで飲み物がないことに気付いた。今朝見た未来の記憶でこうなることを知っていたのに中迫さんと話すのが楽しくて、すっかり抜け落ちていた。自分に対してため息をつく。
「中迫さん。飲み物取ってくるけど、水でいい?」
「あっ、うん。私も取りに行こうか?」
「一人で大丈夫だから、先に食べててよ」
そう言い残し、ウォーターサーバーに水を取りに行き、戻ってくると、中迫さんは手をひらひらと振りながら迎えてくれた。水の入ったコップを手渡しながら、椅子に座る。
「ありがと、岩月君」
「うん。それより、先に食べててって言ったよね?」
「私がそんな自分勝手な人間に見える?」
「うーん……わりと?」
「ちょっとひどくない?」
そう言いながらむっとするので、噴き出してしまう。
「冗談だって。待っててくれていい人だなって思ったよ」
「岩月君はいじわるだ」
「そうかもね。だから、普段は人にできるだけ優しくしようとしてるのかもね」
「へえ。じゃあ、私にも優しくしてよね」
「それは他人行儀に気を遣うってことだけど?」
「じゃあ、気を遣わないように自然に優しくして」
「そう言われても、そんなことしたことないからな」
「できるよ、岩月君なら」
そう言うと、中迫さんは「いただきまーす」と口に出して、きつねうどんを食べ始める。本当に不思議なほど、自分を繕わないですむ。こんなにも人といて楽だと感じたことはない。
そう思いながら、自分もきつねうどんに箸をつける。
最初のひとくち目で揚げを口に入れる。
「岩月君さあ、キミはきつねうどんってものを分かってないよ」
「なにが?」
「お揚げは
「ふーん」
そう隣から口を挟まれ、これみよがしに揚げにもうひとくち口をつける。
「わあ、もったいない!」
「僕は揚げを前後半で分けるタイプなんだ」
「それは邪道だよ」
「きつねうどんの食べ方に邪道も正道もないっての。早く食べないとうどん冷めるよ」
そう急かすと、中迫さんも急いでうどんを食べ始める。
こうやってご飯を食べるだけで楽しいと感じているのはどうしてだろう。そして、隣にいるのが当たり前のような気さえするほど、しっくりくる。
あんなにそわそわしていた心は、今では驚くほど落ち着いている。それはまるで砂漠の中で水を欲して歩き回り、やっとオアシスにたどり着いて渇望が満たされ、
僕は少し前までたしかに西城さんのことを気になっていたはずだ。
それなのに、中迫さんはそういう全てを覆いつくすように僕の心をあっという間に潤していき、満たしてきた。
未来の記憶で見た通り、僕は恋に落ちかけているのかもしれない――。
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