第3話 少年と少女の望み 後編
澄み渡った空の下、罪人の少年は屈託のない笑みを僕に向ける。
「先生!クッキー焼いてくれたんだろ?さっきからいい匂いで……早く食べたいよ!」
アリアが手にした籠に手を伸ばす少年。
「……待って!ダメだ!」
僕は思わずその手を引いた。
「どうして?俺の為に焼いてくれたって、昨日言ってたじゃん」
(…………)
「……もう少し、もう少しだけ、辺りを散歩してからにしよう。あちらの林が色づいていて綺麗だから。落ち葉を踏みしめるのも、気持ちがいいものだよ」
「え~?でも、せっかくお姉ちゃんが作ってくれたクッキーが……」
「クッキーは逃げないだろう?ほら、行こう」
僕は一瞬の焦りで早くなった鼓動に気づかれないように、そっと少年の手を握って林に足を踏み入れた。
「わぁあ……!」
「これは、すごいね」
「はい!まるで空が金色みたい……!」
見上げると、一面に広がるイチョウの並木は黄色く染まり、アリアの言うように黄金を空から垂らしたような美しさだった。
「どうだい?クッキーもいいけど、こっちも中々のものだろう?」
「うん……うん!」
頭上を見上げては落ち葉をしゃくしゃくと鳴らし、楽しそうに顔をほころばせる少年。
「俺、こんなの初めてだ!落ち葉って、ちゃんと見るとこんなに綺麗なんだな。足元もふかふかで、なんだかあったかい!今までは、ただ走るのに足場が悪くなるだけだと思ってた。なんか、なんかすげー!」
「ふふ、『すごい』だけじゃあ伝わらないよ」
からかうように微笑むと、少年は笑みを返す。
「先生といると、色んなものが新しく見える!きれいなもの、うれしいこと、いっぱい増える!」
「それは――嬉しいな」
「俺もうれしい!」
あぁ、眩しい。
こんな日が、ずっと続けばいいのにな……
僕は少年の手を引いて林を散歩した。
その間、今までに感じたことや嬉しかったこと、好きなもの、大切な思い出などを少年と話したが、長く孤児であった少年の話す嬉しいことは、どれも僕の元に来たあとの話ばかりだった。
そのことが、僕を救い、喜ばせ、悩ませ、そして……
「ねぇ先生、もうお腹ぺこぺこだよ!俺、クッキーが楽しみで、朝ごはんちょっと残しちゃったから……」
「そんなに楽しみだったのかい?」
「うん!クッキーってさ、お金持ちしか食べられない『お菓子』ってやつだろ?」
少年の言う通り、貧富の差が激しいこの時代において、『お菓子』が食べられるのはそれなりに裕福な家庭の特権だ。処刑人と下級貴族であった僕やエリーにとっては馴染みのあるクッキーも、少年にとってはお目にかかることのできないご馳走。
甘くて美味しいというそれを一度でいいから食べてみたいというのは、少年に想像できる精一杯のわがままだった。
「……わかった。じゃあ、戻ろうか」
「うん!どんな味がするのかな?」
「きっと美味しいよ。アリアが、一生懸命想いを込めて作ってくれたからね」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「ふふ。どういたしまして」
いかにも待ちきれないといったようにそわそわする少年に、アリアはクッキーを手渡した。
丸くて少しごつごつの、でも、あたたかみのある素朴な形のクッキー。
少年はそれを手に取ると、大きな瞳を一層大きくさせた。
「わぁ!これが……!」
その笑顔は、この世で一番眩しくて、美しくて、なによりも尊い。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます!」
口に入れた瞬間。少年が驚きに目を丸くする。
「美味しいかい?」
「美味しい!こんなの初めて!甘くてサクサクしてて……!んんっ……!」
「そんなにがっつかなくても、おかわりなら沢山あるよ。今日はキミの為にピクニックに来たんだ。さ、こっちにおいで。一緒にこの景色を眺めよう?」
「うん……!」
僕は少年を膝に乗せると、ばくばくと満面の笑みでクッキーを頬張る姿を穏やかに眺めていた。
「先生、連れてきてくれてありがとう!俺、今、すっげー幸せだ!」
「そう?それは、よかった……」
もうダメだ。これ以上は……
――僕が耐えられない。
「お腹もいっぱいになったことだし、少し休んだらどうだい?お昼寝するにはいい天気だ。膝を貸してあげるから、横になるといいよ」
僕は少年を膝枕に寝かせた。
「わぁ……!えへへ。先生の膝……あったかい……」
「あ!先生の膝枕、ずるいです!」
「こらこら、アリアはお姉さんだろう?譲ってあげなさい」
最期を迎える、幼いこの子に……
◇
しばらくして、少年は穏やかな寝息を立て始めた。余程心地のいい夢を見ているのだろう。その表情は安らかで、これ以上ない幸福を湛えている。
――
「さぁ、アリア。帰りの支度をしようか?」
「え?でも、まだその子が起きてないですよ?私だって、クッキーを食べていないです。先生も……私、先生に喜んで欲しくて一生懸命焼いたのに。一口くらい、食べていただけませんか?」
その言葉に、僕は謝ることしかできない。
「ごめんねアリア……僕は、そのクッキーを食べられない。キミに食べさせてあげることもできない」
「それは……どうして?私、何も悪いもの入れてませんよ?その子だって、あんなに美味しいって食べてくれたのに。自信作ですよ?」
「ごめん……」
「……先生?」
戸惑うアリアに、僕は告げた。
「この子はもう、目を覚まさない」
「え?」
再びその目を開けて、僕らに笑いかけてくれることは、ない。
もう、無いんだ……
「アリア。このクッキーには、毒が入っている。一枚で致死量に至る、睡眠薬が。僕が、入れたんだ……」
「え?それって……え?どういうことですか?」
「この子の『刻限』は今日だった。そう言えば、わかってくれるかな?」
「……っ!」
「騙すような真似をしてすまない。けど、おかげでこうして――」
その言葉を遮るようにして、アリアは声をあげた。
「どうしてこんな……!私にクッキーを作らせたんですか!」
「毒を入れたのは僕だ。キミはただ、美味しいクッキーを焼いただけ。胸を張りなさい」
「……できません!」
「僕は、彼に『世界で一番美味しいクッキー』を食べさせてあげたかった。小さな彼の、最期の望みを叶えてあげたかった。その為には、愛情や思いやりのこもった手作りでなければならない。けど、僕が作っては他の『想い』が混じってしまうからね。彼を殺そうという、醜い『殺意』が……」
「……!?」
「ありがとう、アリア。おかげで彼に『世界で一番美味しいクッキー』を食べさせてあげることができたよ。キミも見ただろう?彼の、最期の笑顔を」
「でも、そんな……!こんなのって……!」
僕は震えるその肩をそっと抱き寄せた。深い眠りに堕ちるように、徐々に失われていく膝の上の熱を誤魔化すように。
「アリアは優しい子だね?彼の為に泣いてくれて、ありがとう。己の死を前にして、泣いてくれる者がいる。それは、この子にとって何よりも、かけがえのない救いだ」
「……違います」
「?」
「私は、悲しいから泣いてます。けど、泣いてるのは、私と彼のためだけじゃありません……」
「それは……?」
「私は、先生の分も泣いてるんです……!」
「……!」
アリアは、優しい子だった。そして、僕が思っていたより強い子だったようだ。
驚きに固まる僕を𠮟責するように、アリアは泣いた。
「どうして!?どうしてこんなに優しい先生が処刑人なんてお仕事をしなくちゃいけないんですか!?先生は、お医者さんだけやっていればいいんですよ!」
「そういうわけにはいかない。処刑人は、今の世に必要とされている仕事だ。僕がやらなければ、代わりに誰かがやるだけだ」
「でも……!」
「僕は、心無い誰かに代わりをやられるよりは、自らの手で彼らの最期を見届けたい」
「先生……」
「それにね、アリア。キミもわかっているかもしれないけど、この国においては貴族の子は貴族、農夫の子は農夫としてその生涯を終える。だから、処刑人の子である僕は、どこまでいっても処刑人なんだよ。死刑という制度が、無くならない限りね……」
「うぅ……」
「でも、こんな僕の為に泣いてくれる助手がいる。これは、僕にとっては救いなのかもしれないな?」
そう言って頭を撫でると、アリアは堰を切ったように大声で泣き出した。
「私……私!ずっと先生の傍にいます!先生が泣かない分、私が代わりに泣いてあげるんです!ずっと、ずっとです!」
「それは……」
「止められても、ずっと傍にいますからね!それが……私の望みですから!」
「アリア……キミは、優しい子だね」
「先生……!先生……!うわぁぁあん……!!」
僕はその優しい泣き声が止むまで、静かに目を閉じて、野風に身を任せるのだった。
◇
後日。僕らは丘の上にひとつのお墓を立てた。
郊外の丘。春は花に囲まれ、秋は色づいた黄金に見守られるその丘に、クッキーを片手にやってきては敷き物を広げて、『彼』と共に季節の移り変わりに想いを巡らせる。
風に揺られながら、花と共に供えられたクッキーに、沢山のまごころを込めて。
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