第12話 或る老人の話

 風呂に浸かりながら、さっきの言葉を反芻していた。ジェイブスさんは不器用ではあるが、親切な人だという印象を受けた。最初の問答だって、滅多に人が来ない場所故の警戒心からだろう。だが、イルガンドが嘘をつく道理はない。間違いなく、悪魔に類する何かがこの場所にあったのだろう。

 考えても仕方ない。なるべく早くここを後にするとしよう。

 風呂から上がり、リビングに入ると、さも僕を待っていたようにジェイブスさんが佇んでいた。

 「どうだ、ちょっと付き合わないか。」

 断るのも不自然だろう。コーヒーを受け取り、椅子に腰かける。

 「おい、油断はするなよ。」

 悪魔が小さく囁いた。分かっているさ。

 「せっかくの客だ、少し昔話でもしようと思ってな。」

 「は、はぁ。」

 拍子抜けである。


 「そんな露骨に嫌な顔をするな。いいから聞け、受けた恩は返すものだぞ。」

 そうして老人は淡々と語り始めた。

 「ワシはな、昔はイェンドの街に住んでたんだ。街じゃ一番の金細工職人だった。そりゃ、そんなに裕福じゃなかったが、幸せだった。妻が、おってな。よく笑うやつだった。こんな不愛想な男に、もったいないくらいの、女だった。」

 老人の話が、少し途切れ途切れになる。時折、唇を噛み締めるようにしていた。


 「そんな妻がな、悪魔憑きになった。呪術の1種だ。原因は分からなかった。ともかく、妻は正気を失い、四六時中叫び散らすようになった。周囲を気にして、街に居れなくなったワシは、この場所に小屋を建て、妻と2人で暮らした。あいつは相変わらずの様子で、ワシに手を上げることもあった。だがワシは妻を愛していた。それからはずっと妻に付きっきりだ。どんなに罵倒されようが、どんなに殴られようが、関係なかった。けれどある日、日が昇る頃だった。背中に翼が生えた騎士が訪ねてきてな。無言で部屋に入ると、妻に剣を突き立て、心臓を貫いた。慌ててワシは駆け寄ったが、妻は『愛しているわ』とだけ言い残して、息を引き取った。ワシは激昂して、さっきの騎士のほうへ向かったが、既に辺りには誰もいなかった。やり場のない怒りだったよ。必ず見つけ出して殺してやる、とさえ考えた。けど、やめた。」

 「なぜです?そんな者を許していいのですか!」

 「許す許さないじゃないのさ。妻はきっと、楽になりたがっていた。けれどワシには、妻のためとはいえ、彼女を殺せるような気概はなかった。妻を救ってやれたのは、あの天使だけだったんだ。ワシは、苦しませることしかできなかった。彼女は最期に、ありがとう、と言ったが、あれはワシに言った言葉でもあり、天使に向けた言葉でもあったのだ。あとになって、妻の亡骸を運びながら気づいたんだ、彼女はとても安らかな顔をしておった…」

 「けど、そんな…理不尽じゃないですか!あなたはそんな理屈で納得しているのですか?大体、奥様がどう考えてたかなんて分からない!」

 「その通りだがな、復讐なんて、どこまでも利己的な行為に比べればよっぽどマシだ。ああ、そうだ、利己的だ。復讐なんて結局は、己のむしゃくしゃを何かにぶつけるだけの児戯に等しい。お前さんも、復讐を考えているのだろう?やめとけ、とは言わんが。この爺の言葉をよく覚えておけ。そしてよく考えろ、本当に大切なことは何か、ということをな。」


 そう言い残し、老人は自らの寝室に戻った。僕も、用意された寝床へと向かう。胸中は釈然としなかった。ジェイブスさんの言うことも分かる。けれど、僕は到底納得なんか出来やしない。何としてもアーデムで起こったこと、起こした奴らを明らかにしなきゃ、僕の人生に安息が訪れることなどないのだから。

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