あなたが誰なのかわたしは知らない。

書評:三井喬子『山野さやさや』(2019年・思潮社)




ここには春夏と秋冬の二部に分けられた十九の詩篇がある。一見楽しくユーモラスな情景やしっとりした風景が描かれているように思える。ここは心地よい、ときおり濁ったような衝撃も含む声の圧力に満ちている。わたしはこれらの詩篇を心地よく甘受する。詩篇のなかからは黒いカラスが舞い上がり、金魚はどしゃ降りの雨を手がかりに泳ぎ、夜闇を馬が渡っていく。

わたしはあなたを知らないが、あなたはたぶん、色々なものに変身できる存在だろう、とわたしは思う。蛾やカラスや金魚や蝶に、季節にすら変身でき、事物や概念に語らせることができる者だ。あなたが語らせた事物の声はたくましい。事物は断言する、たとえば「爪は骨ではない」といったように。あるいはヒレのある存在へ変化し、威勢よく命令して見せる。「伏してあがめよ/世界は雨である、/ただ雨である。」というように。そうかと思えば命の短い蛾になって、網戸と硝子戸のあいだに閉じこめられる。

 あなたの声のこんな特徴は人間よりも女神の技量にふさわしい。神は変化(へんげ)の言葉を自在にあやつるものだからだ。あるいはあなたは木枯らしの野に立って、事物の張りぼてを両手に持ち、緩急自在の声をもって演じているのかもしれない。あなたの手の中で事物はちがう意味をもってよみがえる。

 あなたの手のなかにある事物たちは、わたしの身近にあるものばかりだ。カラスも金魚も蛾も、わたしはどんな生き物か知っている。わたしは夏がどんなものかも知っている――少なくともそのつもりでいる。ところがあなたの手の中で事物が語りはじめたとたん、奇妙なことがおきる。詩篇のなかで彼らが「何」を言おうとしているのか、ここに「何」が書かれているのかと問われたとたん、わたしは途方にくれてしまうのだ。行と行のあいだになんらかの論理が働いているのはわかるのに、わたしには理屈を追うことができない。

ひとつだけわかることがある。これら事物の言葉はじゅうぶんに「老いている」ということだ。それは彼らに言葉を語らせているあなたのことではない。わたしはあなたを知らないし、超高齢社会になったいま、生身の人間にとって老いとか若いとかといった觀念は完全に相対化されてしまった。いまや生まれて何年経とうともわたしたちは生き生きと若々しくしていなければならず、いつまでも「まだ若いのだから」と言われ、活動しつづけるよう期待される。老いを相対的な觀念にしてしまえば、いつまでも他者をなにかに奉仕する口実ができる。こうして老いが相対化されるうちに、わたしたちは気づかなくなる。絶対的に老いたもの、この世の何よりも老いているためにわたしたちに理解できないものがまだ存在することに。わたしはあなたを知らないが、あなたの姿なら想像できる。あなたは木枯らしの野で両手を振り、老いたる事物の言葉を召喚しつづけるのだ。




(初出:「イリプスⅡnd」2019年)

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