犬は怖い
以下の文章は小樽の詩人、杉中昌樹氏が発行する詩のペーパー「ポスト戦後詩ノート」小笠原鳥類特集に寄稿したエッセイ。小笠原鳥類を知らない人のために付け加えると、小笠原鳥類は鳥類ではなく、動物の詩をたくさん書いている詩人。
犬派と猫派の二分法を適用するなら現在の私は圧倒的に犬派である。犬は忠実だ。犬はまるで人間のように孤独になる生き物だ。一方現在の私にとって、猫は生意気で、人間をひそかにあやつる、悪魔のような生き物である。犬と違い、やつらの可愛さは罠である。
子供のころ私は猫が好きだった。猫はいうなれば野生ポケモンであって、突然自転車の前に飛び出してきたり、玄関を勝手に開けてインコやジュウシマツを襲ったりしたが、それでも猫が好きだった。悪魔の可愛さの罠にはまっていたのである。
その一方、犬は怖かった。犬は猫と違ってふらふらはしておらず、たいていは家の外で鎖につながれてだらしなく居眠りをしているだけで、大きな犬を飼っている家も小さな犬を飼っている家もそうだった。そして小さな犬はよく吠えた。
もっともそのよく吠える犬が「小さい」ということを私が知ったのはずっと後になってからだ。子供の私にとっては犬のサイズは吠え声に比例するもので、声だけならその犬はシェパードやドーベルマンと同じくらい大きかった。その小さな犬は、その家の前を私が通るときだけ起きあがって吠えるので私はとても恐れていた。小さな犬の前を通らないと学校に行けなかったが、犬に吠えられるくらいなら学校など行く必要も感じなかった。これほど犬が嫌だった私がなぜ今犬派になっているのかはまったくわからないし、実際今は犬にそんな恐怖は感じない。けれど、当時犬が怖かったことはありありと思い出せる。
小笠原鳥類の詩「犬について」にはたくさんの犬がでてくる。この詩に登場する「犬」という言葉の数だけ犬がいるならだいたい68匹の犬が出てくる詩ということになる。ひとつの詩で68回も犬を呼ぶ必要があるのかといえば、もちろんある。この詩では犬はどうやっても怖いのだが、どうしたら犬が怖くなくなるのかについても書かれていて、そのためにテレビや、鳥の図鑑や、恐竜が登場する。
けれどやっぱり犬は怖いもので、だから何回も何回も犬という言葉が発せられるのだろうか。この詩のような夢を私は子供のころ何度かみたと思う。夢の中で私は、犬、怖くないと繰り返しながら小さい犬の家のまえを通り、奇跡のように犬が吠えないのに安堵するが、犬小屋には空の首輪と引き綱があって、私のうしろから犬は吠え、やっぱり犬、怖いと私は思う。夢の中で犬は怖いと怖くないのはざまにいて、不吉な影のようにも、知らない楽しさを隠したものにも思えてくる。詩の最後で犬が突然楽しい動物になるように。
犬は、何度も繰り返されるたびに、だんだん、あの突然大きな声をあげしっぽを振りながら鎖をひいて飛びついてくる生き物ではなく、大にテンをつけたものに見えてくる。大にテンをつけると犬になることを私は小学校くらいで教わっている。大にテンをつけたものは、たしかに犬なのだが、でもあまり犬ではないような気もする。だから何度も紙の上で犬を眺めていると、犬は犬に見えなくなって、犬、怖い、犬、怖くない、怖くない犬、というリズムだけが残る。何十回も犬を繰り返せば、犬は犬であることを超えてくる。だから楽しくなるのかもしれない。犬は怖い。犬は怖くない。犬は楽しい。いつか楽しい犬を飼ってみたい。
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