七月六日の彼らの夢

藤原アオイ

第1話

『明日の天気をお伝えします』


 いつもと同じ、でもいつもとは持つ意味が少し違う。二十インチ程の液晶画面に映されているのは、よくわからない線が描きこまれたなぞの地図。


 画面に映るのは気象予報士のお姉さん。彼女はこれのことを気圧配置図と呼んでいるようだが、俺のちっぽけな頭でそれを読み解くことは残念ながらかなわない。


『明日の東京の天気は雨。最高気温は二十度、最低気温は十七度でし』


 ――――プツリ。


 俺が押したのはリモコンの赤いボタン。それを押した瞬間、テレビは単なる黒い箱になる。正確にはなるというよりは戻ると言うべきなのだろうが、そんな細かいことを気にする気分にもなれない。


「やべっ、ラーメン延びちまうじゃねぇか!」


 ちゃぶ台とよばれる懐かしさが溢れるアイテム。ちなみにウチではなぜか現役である。俺、一人暮らしなのに。


 そして予想通り蓋の中身はめちゃくちゃふやけた麺と、お湯を飲みまくって原型をとどめていない謎の肉。悲惨な状態であるが、食べる以外の選択肢はあるまい。


「ゲフッ、ゴフッ。これは全面的に俺が悪い。カップ麺は二分ってのを無視した俺の責任だ。スープまで全部飲み干して、ゲフッ、責任をとらねぇと!」


 そこまでして食べる必要はあるのかしら、と彼女はきっと言うのだろう。だが、彼女とは三百六十と四日も会っていない。でも俺にはわかる。彼女ならきっとそう言うであろうことを。



 ****



「お嬢様、お食事の時間でございます」


 スカートの長いメイド服を着た女性が私を呼びに来る。これはいつものこと。単純で単調な日常の一ページ。そのはずなのに、何てこと無いのに、心臓の高鳴りをおさえることは出来ない。


「明日は、何日でしたっけ?」


「七月の……七日でございます、お嬢様」


 予想通りの答えが帰ってくる。今日が六日なのだから当然と言えば当然なのだが、確認せずにはいられなかったのだ。もし、七日が無くて明日が八日だったらと思うと胸が張り裂けそうになる。


「ありがとう。すぐ行くから少しだけ待っていて下さる?」


「了解いたしました」


 彼女が立ち去ってから、私はカレンダーに一つばつ印を付けた。その隣にあるのは、赤く塗られた7という数字。日曜日でも、祝祭日でもないけど、私達・・にとって一番大切な日。



 ****



 カップの中身を全て、本当に一滴も残さず胃袋に流し込んだ俺は、唐突にティッシュペーパーに手を伸ばす。


「あー、ここは輪ゴムで止めればいいのか?」


 ぐしゃぐしゃにした紙を、まっさらなティッシュで包んだだけのゴミ。見る人が見れば、それはてるてる坊主と言える代物なのだろうが。


「怪談とかおまじないを信じる気にゃなれんが、やらねぇよりはましだろ?」


 俺以外いない部屋に虚しく響く声。それは何年も前からこうだったし、これから先もきっと一人なのだろう。


 だが、それはそこまで怖くない。俺が一番恐れているのは、彼女の記憶の中からいなくなってしまうこと。つまり、彼女の中の俺が死んでしまうこと。


 絶対に無いとはわかっているものの、やっぱりその不安だけは拭いきれない。



 ****



 召使いの一人によって食べ終わった皿が下げられる。今日は食欲が無くて食べきることは出来なかった。


 きっと彼ならこういうのでしょうね。全部美味しくいただくのが作った人に対する最大限の感謝だ、ってね。


「お嬢様、明日の天気のことでございますが……」


 言いづらそうに、それでもはっきりと侍女の一人が耳もとでささやく。いつもは柔らかく甘い声のはずなのに、この日だけは私の心に突き刺さる。


「雨、なのでしょう? それも大荒れ。そのくらい一週間前からわかっているわよ」


 スクリーンで見た天気予報。降水確率は絶望的なまでの百パーセント。頭ではわかっていても、それを受け入れたくない私がそこにはいた。


「……でしたら」


「ですが、それがあの方との約束を破る口実にはならないでしょう?」



 ****



 手を伸ばしたって絶対に届かない。そんなこと、とっくにわかっているさ。それが苦しくないと言ったら嘘になってしまうし、悲しくないかと聞かれれば迷わずに悲しいと答えるのだろう。まだ雨は降り始めていないのに、俺の布団はぐっしょりと濡れてしまっている。


「今年も、会えると思ってたのにな……」


 カーテンも何も付けられていない窓から覗くのは、吸い込まれてしまいそうな夜空。そこには星の一つすらもなく、ただぼんやりと三日月の光が雲の間から漏れるだけ。


 ――――今夜も月が綺麗ですね。



 ****



 私は、白い枕の中に顔を沈める。思い出すのは去年のこと。彼が私の手を引いて、遊園地に連れていってくれたんだっけ。


 少し筋肉質で人よりも少し太い腕。男性とは思えないチョイスの柔軟剤の甘い香り。私はそんな彼のことを今も愛している。消えることの無い炎のように。


「貴方の、隣にずっといたいの……」


 耳をくすぐる男らしい声、私が大好きな声。でも、そうすることを父上は許してくれない・・・・・・・・・・


 風に揺れるあの黒い髪が見たい。少し雑で、それでいて心がこもった口づけをしたい。去年は、唇だけのキスだったんだっけ。それだけなのに、首まで真っ赤にしちゃって。


 ――――貴方と、綺麗な虹が見たいの。



 ****



 目覚まし時計の音が頭に響く。もう、そんな時間か。午前五時、だけどお空は闇の中。外でつぼみをつけている向日葵ひまわりも、どこを向くべきか迷っているに違いない。


「……雨。降っちまったな」


 窓から見える色は、一面の灰色。そのせいで俺の心はお先真っ暗だ。待ち合わせは九時のハチ公前。ここから電車で数十分ほどの距離。


 手に持ったのは、あいつが去年俺にくれた傘。これを俺にくれたとき、あいつは顔を真っ赤にしてこう言ったんだ。もし来年会えなくても、これを私だと思って大切にしてね、とな。


 あいつのその姿が可愛すぎて、ずっと俺のものにしておきたいと思った。だからあいつの唇を奪った。多分それが俺のファースト・キス。甘くて苦い、恋の思い出。



 ****



「お嬢様、行ってはなりません。今日の天気は雨、想い人が来る確証などどこにも無いのですよ?」


 うるさい。


「今頃はあなたのことなどとうに忘れて、他の女をベッドに招いている頃でしょうね」


 うるさい。


 彼は、そんな薄情な人じゃない。あの人はもっと不器用で、照れ屋さんで、絶対に誰かを裏切らないって知ってるから。


「だったらなんなの? 私は誰に何を言われたって行きますから。たとえ今日、会えなかったとしても……」


 彼と去年交わした約束。渋谷のハチ公前に九時集合、そして現在の時刻は午前六時。歩いたとしても余裕で間に合うことだろう。でも、私はこうする。


「……ですから、車を出していただけるかしら?」


 彼は間違いなく待ち合わせの時間よりも早く来る。それも十分十五分どころではなく、一時間とか二時間とかいう単位で。


「……不本意ですが、了解いたしました」


 空から涙が落ちているかのように降り続く雨。それはやむ気配を、私達にとっての希望を見せてはくれない。


 ワイパーは腕のように動き、フロントガラスの水を弾き飛ばしていく。それでもまだ、足りない。無限に落ちてくる雨粒は到底機械に処理出来る量ではないからだ。



 ****



 大雨の中、彼は、彼女は走り出す。当たり前だが、髪が肌に貼りつく。しかし、そんなことは彼らにとっては些事でしかない。


 今日は七月七日。一年に一度、恋人同士が会うことの出来る日。雨が降っていなければ・・・・・・・・・・・、二人が会える日。


「どうして、貴方はいないの?」


 一心に空を眺める彼女の顔に、雨水がかかる。


「今日は降水確率百パーセントの雨。奇跡なんて起こらねぇってわかってたけどさ……」


 二人がいるのは正真正銘渋谷駅のハチ公像の真下。迷ったわけでも、行き違いになったわけでもない。でも、彼らは会えなかった。


「雨が降ると貴方はあの川を渡れない――――」


「雨が降ったらあいつは外に出られない――――」



 ****



「――――だってあいつ貴方彦星織姫だから」

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