第60話 悲しいキス・3
薄れていく意識の中で、一番聞きたいと願っていた声を聞いたような気がする。
『ひとりでは逝くな。苦しみ傷付いたままで逝かないでくれ』
望んでいたのはアルディナの亡骸。血まみれのその体を腕に抱いて、共に朽ち果てる事を望んでいた。そしてその亡骸に我が本当に求めていたものは……。
『戻ってきて。離れるのはとても不安なの』
そう、必要とされたかった。
闇に染まった体を、変わりなく抱きしめてくれる腕が欲しかったのだ。
『……カイン』
耳元でシェリルの声を聞いたような気がして、カインがはっと目を覚ました。
誰もいない港のベンチに腰かけて、ゆらゆら揺れる船をぼんやりと見つめていたカインは、いつのまにか額に滲み出ていた汗を拭いながら、どことなく落ち着かない動作で煙草にやっと火を点けた。
「……どうかしてる」
ぽつりと呟いてかすかに震えていた両手を強く握りしめたカインが、今さっき自分の心に確かに存在していた感情をそこから追い出そうとして、煙草の煙を一気に外へ吐き出した。
「俺は……あいつを殺そうとした」
白い吐息に絡まって零れ落ちた言葉に背筋をぞっとさせて、カインはそれを否定するように何度も頭を横に振った。
しかしシェリルの姿を思い浮かべる度に、カインの中でよみがえる激しい殺意は決して消えてはくれない。血にまみれたシェリルの動かない体を愛しく抱きしめる自分を想像するだけで、カインの胸は悲哀とそして限りない喜びに打ち震えてしまう。ディランの言葉通り、シェリルの死を望むのが自分であるかのように。
「俺はあいつの守護天使だ。あいつの死を……望むわけがないっ!」
まるで自分に言い聞かせるように声を荒げて言い切ったカインが、まだ火の点いている煙草を素手で握り潰して黒い海へと投げ捨てた。
シェリルと一緒に部屋へ戻らなかったのは、カインという自我を失ってしまいそうだったからだ。シェリルを抱きしめながら、カインは心の中で何度もシェリルを殺していた。シェリルを愛しいと感じていながら、同時に心のずっと奥でシェリルを激しく憎んでいたのだ。
(なぜだ? 俺の中で……何が起こっていると言うんだ)
自分に問いかけたその瞬間、夜を覆う薄闇がカインを中心にしてがらりと急変した。
重苦しい空気に遮られ、夜とは違う闇に包まれたその空間に、カインの鼓動音だけが太く大きく響き渡る。ねっとりとした感触の闇を知っているような気がして、はっと目を見開いたカインの前で――――闇が妖しく揺らめいた。
「誰だっ!」
その闇の向こうに気配を感じて素早く身構えたカインの耳に、凍り付いた声が届く。
それは目覚めと破滅を示す音。
そして信頼と、芽生えたばかりの愛を打ち砕く音だった。
『我にその名を求めるのか?
カインの前に現れた闇の塊が大きく膨張すると同時に低い声音が響き渡り、それに合わせて辺りを包む暗黒の闇が歓喜の叫びをあげるようにざわざわと揺れ始める。その度にカインに襲いかかる激しい頭痛は眩暈と吐き気を伴い、カインは片手で頭を強く押えながらその場にがくんと倒れこんだ。
「くっ……。貴様、一体っ」
『光を憎んでいるのだろう? アルディナを殺したいのだろう? ……本当はもう分かっているはずだ。あの日、泣き叫びながら狂気を選んだのが誰であったのかを』
声はそのまま不快な闇の触手となってカインを捕え、長い間ずっと封印されてきた記憶の扉にまで手を伸ばしてくる。その触手を追い出そうと必死にもがくカインを嘲笑うかのように、一度大きく揺らめいた闇がカインの目の前で完全な人型にその形を変えた。
『恐れる事はない。光を捨てても我にはまだ闇がある。……忘れるな。我はお前を離したりしない。お前も我からは逃げられぬ。――――お前がそれを望んだからだ』
「違う! 俺は何も望んじゃいないっ! いい加減、俺の中から出て行けっ!」
『お前はまだ我を拒むのか? 封印は解かれようとしているのに』
すうっと手を伸ばした暗黒の人影が、カインの左耳で鋭い光を放つ罅割れたピアスにそっと触れた。
『お前の中にアルディナを憎む気持ちがあるのはなぜだ? あの落し子を殺したいと言う衝動に駆られたのはなぜだ?』
カインに顔を近付けた影が、にやりと笑みを零す。
『我はお前だ。そして、お前は我』
言葉に合わせて闇が端からさらさらと風に流れ始めた。溶けるように消えていく闇の中からかすかにのぞいた紫銀の髪に、カインがはっと目を開く。
「お前は……っ」
言葉が続かなかった。その先を口にすると言う事は即ち、『我』の存在を認めるという事なのだから。
『……我とは何か……』
囁くように呟いた影を包む闇が、ざあっと音をたてて一気に剥がれ落ちた。
その中にいたものが、カインと間近で向かい合う。
驚きと混乱とで大きく見開かれたカインの淡いブルーの瞳に、妖しく笑うもうひとりのカインがはっきりと映し出されていた。
『そう、……――――我はルシエル』
体中を駆け巡る妖しい声音に誘われて、朦朧としていたカインの意識が封印されていた記憶の奥に――触れた。
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