第59話 悲しいキス・2

「私を狙い、私の両親を殺したのは……ルシエルだった」


 独り言のように呟いて、シェリルが自分を抱きしめるカインの腕に強くしがみ付いた。


 今までずっとカインに告げる事の出来なかった過去。口にするだけであの惨劇の夜が生々しくよみがえり、心が凍り付いてしまいそうになる。できれば思い出したくなかったし、話したところであの邪悪な闇に立ち向かえる強さを持つ者などいないと思っていた。


 けれどあの闇の正体が分かった以上、それをカインに黙っておく事は出来ない。シェリルと一緒にいる限り、ルシエルの魔の手からは逃れられないのだ。それにシェリル自身、カインにならすべてを話せると思った。いつからかカインにはすべてを知っていて欲しいと、そう思うようになっていたのだ。


「私がアルディナ神殿に住むようになったのは、今から十年前なの。十歳まではちゃんと両親と暮らしてた」


「……リスティール村だろ、お前が住んでたのは」


 カインの口から零れた故郷の名前に、シェリルが驚いたように後ろを振り返った。


「どうして……」


「カルヴァール酒で酔ったお前が話してくれた。お前の過去も、闇を恐れるわけも、三日月の刻印が人目に触れるのを嫌がったわけも知ってる」


 シェリルの白い額にくっきりと刻まれた淡い紫銀の三日月を指先でそっとなぞったカインは、過去を思い出し小刻みに震えていたシェリルの体を何者からも守るようにぎゅっと強く抱きしめた。


「辛い過去は思い出すな。俺は……お前が話そうとしてくれただけで十分だ」


「……でも、ルシエルは確実に私を狙ってくるわ。カインまで巻き込まれてしまうかもしれないのに」


「シェリル、いいか? 一度しか言わないからよく覚えとけ。俺はこれから先、何があってもお前を裏切るような事はしない。お前が俺を信じるなら、俺は決してルシエルなんかに負けやしない。分かったか?」


 胸の深いところまで届いたカインの声は温かな熱となって、シェリルの視界をあっという間に歪ませる。翡翠色の瞳を潤ませた涙はカインを見つめたシェリルから声を奪い、唇は上手く言葉を続けられずに震え出す。


「何だよ。泣いてるのか?」


「だっ……だって、私。もうひとりになりたくなかったから。あんな思い、二度としたくなくて、だからっ……だから、カインの言葉が……嬉しくて」


「誰がお前をひとりにするかよ」


 呆れたように、それでも限りなく優しい微笑みを浮かべたカインが、シェリルの頬を手のひらで包み込みながら、止めどなく流れる熱い雫を静かに拭い去る。その手のひらから伝わってくる温かい熱の心地良さにいつの間にか瞳を閉じていたシェリルは、耳に届いたカインの声にはっと顔を上げた。


「お前を闇から守れるのは俺だけだ」


 息がかかるほど近い位置で、翡翠色の瞳と淡いブルーの瞳が重なり合う。息をするのも声を出すのも躊躇われる中で、二人を静かに包む白い粉雪だけが夜の音色をかすかに響かせていた。


「俺は……――――いや、何でもない」


 曖昧に口を閉じて、シェリルの頬を包み込んでいた右手を引き戻したカインが、その手で前髪をかき上げながら何かを誤魔化すように空を見上げた。


「冷えてきたな。そろそろ部屋に戻ろう」


 既に羽ばたき始めていた翼によって屋根に薄く積もっていた雪が再び空中に舞い上がり、シェリルとカインを淡い光で包み込んだ。


 さらさらと不規則に揺れる雪を纏いながら、ふわりと宙に浮いたカインに少しだけ戸惑いの表情を浮かべたシェリルが、それを悟られないように慌ててカインから目を逸らした。

 カインの首にまわした腕に力を入れて強くしがみ付き、シェリルはその首筋に頬を寄せて静かに目を閉じた。深く息を吸ってカインの香りで胸を満たし、彼の存在をできるだけ近くに感じようとした。早くなった胸の鼓動は優しい痛みを伴い、シェリルの心を震わせる。


(……何を言おうとしたの? 私……その言葉を、待っていた?)


 触れた肌から少し早いカインの鼓動を感じた瞬間、それに共鳴するかのようにシェリルの胸がとくんと鳴った。


「シェリル、お前は先に寝てろ。俺はもう少し、外にいる」


 シェリルだけを部屋に戻し、窓の外で未だに翼を大きく羽ばたかせていたカインが、シェリルの返事も待たずにそのままくるりと背を向けた。


「カインっ?」


「少し頭を冷やしてくるだけだ。すぐ戻る。鍵は……お前が嫌ならかけておいても構わない。ま、そっちの方が安全だと思うけどな」


 そう言っていつもの勝ち誇った笑みを浮かべたカインの耳に、思ってもみないシェリルの言葉が届いた。


「鍵は開けておくわ。……だから、ちゃんと帰ってきて」


 一瞬淡い期待に胸を膨らませたカインだったが、続く言葉の最後をはっきりと耳にして、拍子抜けしたようにがっくりと肩を落とした。シェリルはカインを男として部屋に迎え入れるのではなく、純粋にカインの帰りを願っていたのだ。


 まったくこの女は男と言うものをまるで知らない、と心の中でぼやきながら、カインはそのシェリルに少しでも期待した自分に呆れ返る。


 シェリルと一緒に部屋に入らなかったのは、自分の理性が危うい事を感じていたから。いつもなら感情に身を任せるのがカインにとって普通だったが、シェリルに対してだけはどうもそれが上手く出来ない。そしてその理由を、カインは何となく分かり始めていた。


 そう、シェリルは光だ。安易に奪う事さえ許されない、高貴な光。何者にも汚されていない純粋で無垢な存在に、決して白いままだとは言い切れない自分の手が触れる事に対して、カインは少しだけ罪悪感を感じていた。


(こいつに触れるには、それなりの覚悟が必要だな)


 心の中で呟いて、カインがふっと笑みを零す。


「……まぁ、それも悪くない」


「どうしたの?」


 不思議そうに首を傾げたシェリルにいつもの悪戯心が芽生えたのか、シェリルの耳に触れるぎりぎりの所まで顔を近付けたカインが、甘くかすかな声を吐息と一緒に吹きかけた。


「ベッドは温めておいてくれ」


「ひゃっ!」


 奇声を上げて耳をおさえたシェリルの顔がみるみるうちに真っ赤に染まり、その様子を面白そうに見ていたカインが満足げに頷いてふわりと高く上昇した。


「少しは慣れろよ」


 声と息を喉に詰まらせて、叫ぶ事も出来ずその場にぺたんと座りこんだシェリルに笑いながら、カインはそのまま夜の闇と白い雪に連れられて遠くの方へ飛んで行った。


 その闇の向こうに、何が待ち構えているのかも知らないまま。

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