第61話 悲しいキス・4
『お願い……この子だけは殺さないでっ!』
目を奪うほど鮮やかな色をした赤が、床に散乱していた。その色にまみれた、人間だったものの塊。頭の芯にまで響く生温かい異臭に酔いながら、真紅の海を歩いていく影。
肉と骨を切り裂いた感触が、血の滴る手に生々しく残っている。叫ぶ間もなく切り刻まれた人間の、最期の表情を覚えている。そして、その時感じた喜びを忘れる事はなかった。
『シェリル、逃げなさい! 早くっ!』
暗黒を身に纏う影とは正反対に、光り輝く色に包まれたひとりの少女。その綺麗な翡翠色の瞳が恐怖に大きく見開かれた瞬間、すべてが真紅に染まった。
『お父さん! お母さん!』
絶叫に誘われて乱舞する鮮血の華。翡翠から零れ落ちた大粒の涙。
『恨むならお前の内に眠る力を恨め。我を壊し、お前を落し子にした女神をな』
紡がれる言葉は唇から零れ落ちると同時に冷たく凍り、辺りの空気を冷気に変える。目に見て分かるほど大きく震えながら顔を上げた少女が、その瞳に血塗られた影の姿をはっきりと捉えた。
『死んでもらおう。神の落し子、シェリル』
涙で歪んだ翡翠色の瞳に揺らめいて映る影。
鮮血に染まりながら感情のない凍った笑みを浮かべたその影とは――――。
「やめろおぉぉっ!」
カインの絶叫に合わせて、その場に大きな白い竜巻が現れ出た。
両耳を塞ぎきつく目を閉じ、それ以上何も思い出さないように、カインはぎりっと歯を食いしばって心を侵す闇と必死に戦う。
『無駄だ。お前の中の白は既に力を失いつつある。白ではなく黒。お前の力は光ではなく闇なのだから』
闇を追い払うはずだった白い竜巻は闇のカインの言葉によって流れるように消滅し、カインの周りには何事もなかったかのように夜の静寂が舞い戻る。
「……う……嘘だ」
『我を拒む事は許されぬ。我は既に、お前と共……。目……め……近……』
途切れ途切れに届く声と一緒に、薄く色をなくし始めた闇のカインをぎろりと睨みつけて、カインが右手に剣を召喚させた。
『……無駄』
「黙れっ! 俺はルシエルなんかじゃない!」
まるで自分に言い聞かせるように叫んで、カインが剣を力任せに振り下ろした。銀の軌跡を描いた剣によって、闇のカインが真っ二つに切り裂かれる。消滅する体から溢れ出した瘴気は四方へ飛び散り、それと同時に辺りを取り巻いていた重苦しい闇がそこから完全に追い払われる。
「俺は、あいつを守る守護天使だっ」
強く言い切って剣の柄をぎゅっと握りしめたその手の中で、カインの剣が突然真っ白な光に包まれた。かと思うと勢いよく弾け飛び、剣は光と共にカインの手の中からあっという間に消滅した。
『ルシエルに目覚めようとしているお前が白い力を扱える訳がない』
嘲るように響いた声にカインは緩く首を振って、消えてしまった剣を呼び戻すように強く右手を握りしめる。しかし、その手にカインの剣が戻る事はなかった。
「う、そだ……。嘘だ。…………俺はっ!」
絶望にも似たカインの声音は、静寂に包まれた夜の町を彷徨うように流されていった。
辛い過去を打ち明けようとしてくれた事が何より嬉しかった。シェリルが話してもいいと思ってくれた事が、こんな自分を信頼してくれた事がカインには嬉しかったのだ。
その思いに応える為にも、カインは全力でシェリルを守ろうと心に誓っていた。シェリルを傷つける者から守り、シェリルを狙う闇と戦う決意をし、その気持ちを愛と認めたばかりだった。
――――それなのに。
「……シェリル」
誰の耳にも届かないように、唇の先で音を止めた声。
暗い部屋にぼんやりと浮かび上がる金色の影に手を伸ばし、躊躇うように引き戻す。
なぜ自分でなければならなかったのか。
なぜシェリルでなければならなかったのか。
なぜ守護天使として出会ってしまったのか。
なぜ……――――。
考え出せばきりがない。しかしカインは、そのあまりにも残酷な事実を否定する何かを探さずにはいられなかった。
自分が世界を脅かす闇の王ルシエルだったという事を。
シェリルの幸せを奪ったのが自分だったという事を。
そしてシェリルが憎み復讐を誓う相手が、他の誰でもないカイン自身だという事を。
運命を憎んだ。
自分の存在を憎んだ。
女神を憎んだ。
(なぜあの時、ひと思いに殺さなかった! そうすれば……こんなに辛い思いなどっ)
心の中で激しく燃え上がる怒りの炎と苛立ちを抑えようと深く息を吸って、カインはベッドで気持ちよさそうに眠っているシェリルへ目を向ける。
夜の闇をも追い払うかのように光り輝く金色の髪と、透けるように白い肌。もう二度と触れる事の出来ないシェリルのすべてが、カインの瞳に焼き付いていく。
「出来る事なら……お前を守るのは俺でありたかった」
呟いて自分の翼から一枚の羽根を抜き取ったカインが、その手でシェリルの小さな手を優しく優しく握りしめた。
「お前と一緒に旅をした俺を…………忘れないでくれ」
小さな声で囁かれた言葉をシェリルに伝えたのは、淡くかすかに触れ合った震える唇。
触れる事さえ躊躇われるように重なり合った唇は、雪のように儚く溶けて……消えた。
「……――――俺は、お前を」
その言葉の続きをシェリルが聞く事はなかった。
シェリルの手に一枚の羽根だけを残して、白く儚い雪が降る静かな夜――――カインはシェリルの前から姿を消した。
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