第11話 もうひとつの神話・4
世界を創造した女神は天界レフォルシアを治め、下界イルージュは人間たちが生きていく世界となった。そして世界創造の際に地底へ追いやった闇を監視する役目を担ったのが、アルディナの弟――後の地界神ルシエルだった。
地界へ閉じ込められた闇とは即ち、世界に存在するあらゆる負の感情の集合体。
恐怖。
憎悪。
嫉妬。
狂気。
数え上げればきりがない数多の負の感情を吸収し膨張した闇は、やがて意思を持つようになり、それらは総じて闇を纏うもの――イヴェルスと呼ばれた。
地界神となって、どれくらいの時間が流れたかはわからない。地界ガルディオスでイヴェルスを監視しながら、ルシエルはたったひとりで生きてきた。
光もない。風もない。地上で感じるものすべてが、この世界にはなかった。
あるのは果てしなく続く闇と、その中に響く多くの醜い声。人を羨み、憎み、恨む声。
止む事のない声と闇の中で生きるルシエルの精神が壊れるには、そう時間はかからなかった。それまで当たり前のようにあった孤独を淋しいと感じ、世界にたったひとり取り残されたような感覚に陥る。そんなルシエルの弱った心に、イヴェルスが巧みに語りかけたのだ。
『女神はお前を捨てたのだ』
闇に支配されたルシエルの翼は暗黒に染まり、それは天地大戦の幕開けとなった。
「……天地大戦」
「その戦いに参加した天使はもういない。ルシエルを全力で食い止めた女神も、今では長い眠りについている。俺だって女神の姿を見た事はない」
初めて知ったもうひとつの神話に驚きを隠せないでいると言うのに、カインは更に重大な事実を口にしてシェリルから言葉を奪う。女神アルディナに会わせてくれる為に、カインは自分を天界へ連れて来たのではなかったのか。
地界神ルシエルと隠されていた神話。
そして、女神アルディナの眠り。
突然聞かされた衝撃的な幾つもの真実は、ただ無闇にシェリルの頭を混乱させるだけだった。
「……どうして? 女神は存在しないと言うの? イルージュも、天界も豊かな恵みを受けていると言うのに……それはアルディナ様の力じゃないの?」
青ざめた顔で俯いたシェリルを見て、その額に刻まれた三日月をカインが瞳に映し出す。
神の落し子。
女神が力を失ったからこそ、その存在理由が浮き彫りにされる。
「世界を守護しているのは女神じゃない。……お前だ」
「……え?」
「天地大戦で力を使い果たし、眠りについた女神の代わりに、神の落し子が生まれたんだ。お前が存在しているだけで世界は護られてる」
話の大きさについていけず言葉を失ったシェリルが、見上げたカインから視線を逸らして緩く首を振った。
眠りについた女神は目覚める事なく、シェリルはアルディナに会う事も出来ない。世界を守護しているのは女神ではなくその力を受け継いだ人間、神の落し子と呼ばれるシェリルであるとカインは言った。この神聖な気の溢れる天界レフォルシアも自分がいた下界イルージュも、女神ではなくシェリルが。
予想もしていなかった事態に何を考えていいのか分からず、ただ頭を混乱させるだけしか出来なかったシェリルは、落ち着きのない目で意味もなく眼下の天界を見回した。風の回廊へと続く階段の上の魔法陣から、街の中央にある大きな噴水へと視線を落とすシェリルの瞳は、最後に引き寄せられたかのようにあの砂漠へと辿り着く。
天界に反旗を翻した女神の弟ルシエルの墓、その中央に突き刺さる細長い影の光景が、カインの力を使わずとも脳裏にくっきりと浮かび上がる。
ルシエルが使っていた魔剣フロスティア、その剣の横に地中から別の黒い影がすうっと伸びあがった。シェリルの意識下であるのに、まるで意思を持っているかのように大きく揺らめく瘴気にも似た影は、シェリルにあの夢を思い出させる。
『見つけたぞ』
砂漠に佇む影がゆらりと動き、シェリルへと手を伸ばし始めたような気がした。
『我から逃れられると思っていたのか? 愚かな人間よ』
「カイン!」
突然名前を呼ばれたかと思うとぐいっと腕を掴まれて、意味も分からないままカインは首を傾げてシェリルを見つめた。
「あの影!」
震える指で砂漠を指したシェリルの尋常ではない怯えように、少し警戒しながらカインは砂漠へと目を向けた。しかし肉眼では五芒星の形すら見えないほど遠くにある砂漠だ。その中央に突き出たフロスティアの影など見えるはずもない。
「何言ってんだ。ここからじゃ魔剣の影すら見えないんだぞ」
「でも……っ!」
腕を掴んだシェリルの手がかすかに震えているのを感じて、カインが上から自分の手を静かに重ね合わせてやる。
「とりあえず、宮殿に行くぞ」
今までの重い空気を吹き飛ばすようにあえて声のトーンを上げたカインが、重ね合わせたシェリルの手をそのままぐいっと自分の方へ引き寄せた。
「きゃっ」
不気味な影を見たような気がして金縛りになっていたシェリルの体が、強引に引き寄せられた事でバランスを崩し、がくんと前に倒れこんだ。
引いたはずの手が逆に引かれ、カインの体が少しだけ後ろに傾く。短い悲鳴を耳にしたカインの動きは早く、振り返ると同時に地面に倒れそうになっていたシェリルの体を寸前の所で抱き止めていた。ふわりと舞った金色の髪が、カインの頬をくすぐりながら流れていく。
硬い地面とは違い、逞しい胸元に倒れこんだシェリルがはっと顔を上げた瞬間、カインの青い瞳と翡翠色の瞳が間近で重なり合った。あまりにも近い位置に頬を染めたシェリルが、慌ててカインの腕の中から飛び出した。その様子に、カインの頬が自然と緩む。
「まだ震えるなら抱きしめてやろうか?」
「結構よ!」
後ろを向いたまま投げやりに返事をしたシェリルは、背後で声を殺しながら笑うカインの声を聞きながらひとりでさっさと先を歩き出していった。
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