第10話 もうひとつの神話・3

 ルーヴァの家を出てすぐ右側にある一本道は崖の上まで続いていて、それはぐるりと螺旋を巻いた緩やかな上り坂になっていた。


 崖をぐるりと一周するような螺旋の上り坂を歩いていくシェリルの眼下には、緑豊かな天界がどこまでも広がっていた。天空にいるのを忘れてしまうほど下界と変わらない街並みだったが、少し意識を集中させると街全体が澄みきった神聖な気に包まれているのがわかる。


 楽園と言うものがあるのなら、きっとこういう場所の事を指すのだろう。流れる空気は清らかで、空を舞う鳥も、足元を揺らす花も、岩肌に這う虫でさえ、見るだけで心の奥から優しい気持ちが湧き上がってくる。吹き抜ける風はかすかに甘い香りを運んで、それは自由気ままに天界中をゆっくりと駆け巡っていく。


 噴水のある中央広場は憩いの場でもあるのか、たくさんの天使たちがくつろいだり談笑したりしているのが見える。自分たちの世界とさほど変わらないと言われればそうなのだが、ここが天界レフォルシアだと言う事実がシェリルの瞳に幾つかの膜を張って、より一層美しく清らかな場所だと認識させる。


「本当に美しい所ね」


 うっとりとした表情で眼下を見下ろすシェリルの少し先では、何の感動もしていないカインが肩を竦めてかすかに失笑した。


「そうか? 下界と同じだがな」


「そんな事ないわよ。風にも人にも神聖な力を感じる。……あ、人じゃなくって天使だったわ」


 うっかりしていたと恥ずかしそうな笑みを浮かべたシェリルとは対照的に、カインが中央広場に集まる天使たちを感情のない冷たい瞳で見下ろした。


「天使も人と同じだ。争いだってする」


 その言葉に思わず言い返そうとしたシェリルだったが、カインの表情を見るなり言葉をなくして立ち尽くしてしまった。

 カインとは出会ったばかりで、お互いの事なんて知っている事の方がまだまだ少ない。ふざけてシェリルをからかったり、自信満々で笑ったりする彼も、時には激しく怒ったり、真剣に相手と向き合って言葉を交わす事もあるだろう。だからカインだって、いろんな感情が見え隠れするのは当然の事だ。

 けれど今のカインの表情からは、何の感情も読み取れなかった。


「……カイン?」


 一瞬不安になって呼びかけたシェリルの声に、カインが今しがた目覚めたようにはっとする。


「どうかしたの?」


 問われて振り向いたカインの顔に表情は戻っていたが、それはなぜかひどく苦しげで、淡いブルーの瞳を細めたまま眉間に皺を寄せている。何かを迷っているのか、暫くの間無言で視線を彷徨わせ、やがて意を決したようにシェリルをまっすぐに見つめ返した。


「……見えるか?」


 そう言って、カインが眼下に広がる天界の端を指差した。細い指が指し示す方角へ視線を巡らせたシェリルの瞳が、美しい天界には不似合いな荒れ果てた荒野を見つけた。

 何もかもが女神の力を受けて神聖な気を纏っているのに、その恩恵を一切受け付けない孤独な場所がそこにあった。街から遠く離れた場所にある荒野は、崖の上から見る事でその全貌が辛うじて分かるくらいだ。けれどもそこが天界から忌み嫌われた場所だと言う事は、なぜか言われなくてもわかってしまった。


「あそこは五芒星の形をした砂漠だ」


 指差していた手を下ろしたカインが、今度はその手をシェリルへ伸ばし、翡翠色の両目をすっぽりと覆い隠した。一瞬びくりと震えたシェリルだったが、有無を言わさず閉じられた瞼の奥に、さっきカインが言っていた五芒星の砂漠の映像が浮かび上がった事で言葉をなくした。


「見えてるだろ?」


「う、うん。何、これ」


「以前俺が見た記憶を、お前に流してる。今、何が見える?」


 その言葉とほぼ同時に、砂漠の真ん中に突き出た黒い影が見えた。


「何か、細長くて黒い影が見えるけど……」


「……それは、ルシエルが使っていた魔剣フロスティアだ」


 ひどく静かな声音で告げて、カインがシェリルの目から手を離した。


「そしてあの砂漠は、ルシエルの墓だ」


「ルシエル? それっていったい……」


「闇に取りつかれたもうひとりの神。……――女神アルディナの弟だ」


 声に導かれるように、崖の下から少し強い風が吹きあがる。音を立てて渦巻く突風は、まるで恐ろしい悲鳴のようにも思えた。


「アルディナ様に弟? え……ちょっと待って。その話、本当なの?」


 驚きを隠せずに呆然とするシェリルを見つめたまま、こうなることを予想していたカインがただ静かに頷いた。天界の住人ですら恐れて口にしない名前を、交流の途絶えた下界の人間たちが知るはずもない。そして何より、その存在を隠していたのは、他でもない天界なのだから。


「そうだ。これから話す事はお前たちの知っている神話とは別の話になる。創世神話の続きだと思えばいい」

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