第9話 もうひとつの神話・2
「きゃああっ!」
ただならぬ叫び声に瞬時に身を翻し、カインが椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
「シェリル!」
乱暴に開けたカーテンの向こうで、シェリルがベッドの端に蹲ったままがたがたと震えていた。
「シェリル! おい、どうしたっ!」
顔を膝に埋めて震えるシェリルが、肩に感じた手の感触にびくんとして顔を上げた。止めどなく零れる大粒の涙に濡れた翡翠色の瞳が、すぐ側のカインを見つけてぴたり止まる。未だはっきりとしない瞳に映ったカインの姿はぐにゃりと歪み、そのままシェリルを捕えようとする黒い闇へと姿を変えた。
肩に置かれたカインの手でさえ闇へと誘う魔手のようで、シェリルは恐怖のあまり力ずくでカインの手を振り払う。
「いや! 来ないでっ!」
「おい、シェリル!」
振り払われた手をもう一度伸ばして、カインはもっと強くシェリルの体を押さえつけた。その度に怯えた目をして暴れるシェリルは、もう何も見たくないと言うように涙で濡れた瞳をきつく閉じる。二人の様子を見て、ルーヴァだけが取り乱す事なく安定剤の準備をし始めた。
「シェリル! ったく、落ち着け!」
「離して! ……いや……――――殺さないでっ!」
「シェリル!」
恐怖に震える肩をぐっと掴んで、カインが間近でシェリルの名前を呼んだ。その強い声に、伏せられていたシェリルの瞳が弾かれたようにぱっと開いた。
涙で歪んだ視界に少しずつ色が戻り始め、そこに現実のカインを見つけたシェリルが、まだ震えている手を伸ばして指先でそっとカインに触れてみる。かたかたと震える指先がカインの熱を感じ取った瞬間、シェリルの中で自分を取り巻いていた闇の塊が一気に弾け飛んだ。
「……――――カイン」
悪夢に連れ戻されないよう必死に手を伸ばして、シェリルはそのままカインへと強くしがみ付いた。
手に触れるものが現実だと確かめたくて。そして、もう二度と目の前で消えてしまわないように。
「カイン……。カインっ!」
「大丈夫だ。ここにいる」
思ってもみないシェリルの行動に驚きはしたものの、カインはそれが嫌ではなかった。救いを求めてきたシェリルを優しく受け入れ、カインはその背中にそっと手を回して、まだ震えている体をふわりと抱きしめる。
カインの胸に顔を埋め、そこから聞こえる生きた鼓動に耳を傾けたシェリルが、ゆっくり深く息を吸い込んで気持ちを落ち着かせる。温かいものに守られている感覚に、まだはっきりとしない瞳で周りを見回したシェリルは、自分を取り巻くものが何なのかを知って一気に意識を取り戻した。
「……っ!」
途端、顔を真っ赤にしたシェリルが、カインの腕の中から逃げるように飛び出した。シーツで顔を覆い隠しながらベッドの上をじりじりと後退する。
「なっ、なっ……何を」
強く突き飛ばされて数歩後ろへ下がったカインは、目の前で慌てふためくシェリルの行動に淡く笑みを零して大げさに肩を竦めて見せた。
「随分だな。お前から抱きついてきたくせに」
「そ、そんなの知らない! 大体……」
言いかけて、シェリルがぴたりと動きを止めた。
結っていたはずの髪がシェリルの顔を覆い隠していた。髪を払いのけた手は眼鏡をしていない顔に触れる。視界を塞ぐ金色の髪に恐る恐る触れたシェリルは何が何だか分からず、ただ呆然とするだけで次の言葉が出てこない。
彷徨った視線が、壁に掛かった鏡で止まる。磨かれた鏡面に映し出されていたのは、今まで隠してきた自分の本当の姿だった。
幼い頃、両親と共に暮らしていた幸せだった頃のシェリル。額に三日月の刻印を持つ神の落し子。
「どうしてすべてを隠していたのかは分かりませんが、神に会うと言うのであればその姿の方が都合がいいと思いますよ」
ルーヴァの声に振り向いたシェリルが、ほとんど無意識に額の刻印に触れた。
この印にどういう意味があるのか、シェリルはまったく知らない。分かっているのはこの刻印を持つ者が「神の落し子」と呼ばれている事だけだ。
この天界ではその意味を知る事も可能だろうし、女神に会う為にはこの姿のままがいい事も何となく分かる。けれど。
「……駄目よ。これじゃ、いつまたあの闇が……」
ひとり言のように呟かれた言葉を聞き逃さなかったカインは、さっきシェリルが取り乱した時に口走った言葉を思い出した。
『殺さないでっ!』
シェリルが何を恐れているのかは分からなかったが、彼女を狙う者がいる事はその言葉だけで十分に読み取る事が出来た。
神の落し子であるがゆえに命を狙われ、心に傷を負ったシェリルが己の身を守る為に本当の姿を隠してきた。いつ訪れるとも分からない恐怖に怯えながら、この小さな体で今まで必死に耐えてきたシェリルを思い、カインはその胸に小さな痛みを覚える。
「一体何に怯えているのか知らないが、……お前なぁ、自分が呼び出した天使を誰だと思ってるんだ?」
「……え?」
「俺は天界戦士だぜ? お前ひとり守るくらいわけはない」
少しぶっきらぼうに、でも優しくそう言ったカインを見上げたシェリルは胸がじんと熱くなるのを感じて恥ずかしそうに下を向いた。
あの黒く邪悪な存在に、エレナやクリスティーナたち他の人間を巻き込んではいけないと強く思っていたシェリルは、今までずっとひとりで耐えるしかなかった。
正体すら定かではない邪悪な闇に立ち向かおうとしているシェリルを、カインは助けてやるといとも簡単に言ってのける。彼の自信がどこから来るものなのか分からなかったが、その言葉を信じてみてもいいとシェリルは思い始めていた。
なぜだかわからないが、心のずっと奥の方で何かがそう告げているような気がした。
「とりあえず、宮殿へ行ってはいかがです?」
ルーヴァに促されベッドから立ち上がったシェリルは、いつのまにか自分がきちんとした白い服を着ている事に気付いた。それは驚くほどシェリルの体にぴったりで、同じように用意されていたサンダルもサイズを測ったように足に合う。
「サイズもぴったりですね、よかった」
平然と言ってのけたルーヴァは、刺すような鋭い二人の視線を受けながらも慌てる様子すらなく、逆ににっこりと微笑んで見せた。
「服は魔法で着せたので安心して下さい。眠っている女性の服を脱がすなんてカインみたいな事はしませんよ」
「なんだよ、その例えは」
思わず弁解しようと身を乗り出したカインを宥めるように、ルーヴァはその肩を軽く叩いて窓の外に見える宮殿を指差した。
「ほら、行かなくていいんですか?」
指差された宮殿に目を向けたカインは、仕方なさそうに大きく息を吐いてそれ以上何かを言う事を止め、長い前髪をかきあげながらシェリルへと手を伸ばした。
「シェリル、行くぞ」
「どこへ?」
訊ね返したシェリルを見たカインは視線を再び宮殿へと戻して、そこにいるはずの女神の事を思い浮かべる。
彼女は女神がどうなっているのかを知らない。しかしそれがシェリルの願いであるなら、カインはそれを叶えてやるしかないのだ。
「月の宮殿。女神のいる所だ」
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