第8話 もうひとつの神話・1

「私は怒っているのよ」


 扉を開けて入ってきたカインを振り返る事もせず、リリスは背を向けたまま静かな声でそう言った。滑らかな曲線を描くリリスの体を淡いブルーの瞳に映すだけでは満足できず、カインが少し強引にその体を後ろから抱きしめた。

 ふわりと鼻をくすぐる香りがいつもとは違い、カインの背筋がぞくりと震える。本能を目覚めさせるような、官能的な香りだ。


「香水、変えたのか?」


「やっぱりカインには分かるのね。そうよ、ルーヴァに貰ったの。男を虜にする香りですって」


 後ろから回され胸元で組まれていた大きな手に自分の手を重ねて、リリスは後ろのカインに頭を傾ける。


「どう? 効いてる?」


「試してみるか?」


 リリスの白い首筋に口付けしたカインは、そのまま線をなぞるようにすうっと唇を耳元まで這わせ、小さな耳朶を甘噛みする。カインの熱い吐息が耳をくすぐり思わず体を震わせたリリスだったが、それ以上を許そうとはせずにカインの唇を強引に引き離した。


「あの女の事を話すまで駄目よ。あんな冴えない、しかも人間の女をどうして連れていたの?」


 おあずけを食らって行き場をなくした唇を少し尖らせて、カインは面倒くさそうに頭を掻きながら深い溜息を零した。何気なく視線を窓の外に向けて、カインは昨夜から自分の身に起こった出来事のすべてを脳裏にぼんやりと思い起こしてみた。


 リリスとの甘い夜を過ごそうとした矢先に下界へ召喚され、そこで見るからに田舎臭く色気のかけらもないシェリルと出会った。失われた召喚術によって呼び出された挙句、不本意にも羽根を印とした契約まで結んでしまった事に対して自分でも愚かだとは思ったが、不思議と今はそこまで嫌ではない。

 今朝方見たシェリルの寝顔が、一瞬だけ瞳の奥に甦る。


「俺も何が起こったか十分に把握はしてないが……あいつ、召喚術で俺を呼び出したんだよ。弾みで契約しちまったから、今はあいつの願いを叶える為にここに連れてきた」


「召喚術? 下界では既に失われた術のはずなのに、あの子よく知ってたわね。それに……天界の中でも特にレベルの高いあなたが簡単に召喚されたって言うのもおかしな話だけど」


「偶然が重なったのさ。さぁ、もういいだろ? こっち向けよ」


 そう言ってリリスを自分と向かい合わせたカインは、もう逃げられないようにぴったりと体を寄せて彼女の体を両腕に抱きしめた。応えるように赤い唇を引いて微笑んだリリスも、カインの首にすっと手を回す。


「せっかちね」


「これからって時に召喚されたんだ。分かるだろ?」


「でもまさか、シェリルって女に手を出していないでしょうね?」


 顔をぎりぎりのところまで近付けて紅い唇を奪おうとしたカインは、リリスのその言葉に一瞬だけシェリルの姿を思い出す。シェリルの小さな体を抱き寄せ、花のような唇に触れようとした事も。


「……まさか」


 小さく返事をしてゆっくりと瞳を閉じたカインの唇が、リリスの真っ赤な唇に落ちようとしたその時。


「突然お邪魔してすみません、リリス。ちょっとカインを借りますよ」


 カインの背後でいつもと同じ冷静なルーヴァの声がしたかと思うと、一瞬のうちにリリスの前からカインの姿が消えていた。はっとして目を開いた時には既に遅く、部屋の中にはリリスひとりが取り残される。


「またなのっ?」


 怒号のようなリリスの声は、家の外にまで響き渡っていった。






 甘いひとときからルーヴァの家に引き戻されたカインは、頬を引きつらせながら自分の腕を掴んでいるルーヴァへと目を向けていた。


「……ルーヴァ。俺を苛めて楽しいか? この堕天使め」


 声を殺して呟いたカインの肩をぽんっと軽く叩いて、ルーヴァは悪びれた様子もなく、いつもの穏やかな笑みを向けてみせた。にこにこ笑うその顔は、悪戯を隠す子供のようだ。


「そういうの、一気に吹き飛んでしまいますよ」


「はぁ?」


 言葉の意味を理解出来ないカインの前で、ルーヴァが得意げに部屋を仕切っていた白いカーテンを勢いよく開けた。カーテンの向こうには診察台が置いてある。それは変わらないが、その診察台の上に見知らぬ女が横たわっている事実に、カインが思わず声を詰まらせて驚いた。


 美に関する事ならいくらでも興味を持つが、正常な一般男性なら誰でも持つ女性に対する感情にはほとんど興味を示さないルーヴァ。その彼の家で、しかも診察台と称したベッドの上に眠っている女にも驚いたが、カインはそれ以上に女の姿に言葉を失った。


 透けるように白い肌。

 白い清潔なシーツの上に波打つ見事な金色の髪。

 長い睫毛に薄桃色をした小さな唇。

 そして何より額に刻まれた三日月の刻印が、カインの目を釘付けにした。


 光を受けて薄い紫から銀に色を変える三日月の刻印。それは天使ならば誰でも見た事のある形だった。

 天界に遠い人間でありながら、天界に最も近い存在。


「神の落し子……。この目で見るのは初めてだ」


「ええ、私もですよ。彼女が神の落し子だったと言うのなら、古代に失われた召喚術を行えたのも何となく分かるような気がします」


 さらりと言ったルーヴァに生返事をしながら女を呆然と見つめていたカインは、ふっと何かを思い出したように目を見開いた。そして目の前に横たわる女を、もう一度しっかりと見つめ直してみる。

 額の刻印を重い前髪で隠し、長い金髪を二つにきっちりと編んで、最後に黒ぶちの眼鏡をかけてみるとそれはカインの中でひとりの女と重なり合う。


「……ルーヴァ。この女、もしかして……」


「シェリルですよ。当たり前じゃないですか」


 さっきとは違う意味で言葉を失ったカインの耳に、満足げなルーヴァの笑い声が届く。


「私の手にかかれば誰でも美しく変身できます。もっともシェリルの場合は、もとの美しさをあえて隠していたように思えますが」


「何で寝てる?」


「抵抗されると面倒なので」


 屈託のない笑顔を向けながら、ルーヴァが恐ろしい事をさらりと口にする。そんなルーヴァに呆れた笑みを零しながら、カインはまだ気持ちよさそうに眠っているシェリルを起こさないよう静かにカーテンを閉めた。


「お前の方がよっぽど怖いな」


「何がです?」


「いや、別に」


 まるで自分の家のように椅子に座ってくつろぐカインに、ルーヴァが慣れた手つきで紅茶を差し出す。


「家にお酒は置いてませんので、紅茶で我慢して下さい」


「ああ、悪い」


 ルーヴァの淹れた紅茶を飲みながら無意識にさっき閉めたカーテンへと目を向けていたカインは、その向こうに眠っているシェリルの姿と昨夜初めて会った時の姿を比べてみる。

 分厚い眼鏡越しに睨みつけてきた翡翠色の瞳。化粧っけのない顔。初めて会った時は色気も何も感じないつまらない女だと思っていたのに、たった少しの変化を付けるだけで目を奪うような女に変身したシェリル。

 あの小さな体を腕に抱いて口付けしようとした時の事を思い出して、カインの胸がどくんと高鳴る。その不可解な鼓動に唇を噛み締めて、カインはシェリルの姿を振り払うかのように軽く頭を振った。


「……しかし、神の落し子が神に会うとはな」


 ぽつりと呟いたカインの言葉が終わると同時に、テーブルの向こうでルーヴァのティーカップがかしゃんっと鳴った。見ればルーヴァは片方しかない瞳を大きく見開いて、カインを凝視している。手に持っていたティーカップから零れた紅茶が、テーブルクロスに茶色い染みを作っていた。


「シェリルは神に会いたいと願ったのですか?」


「ああ。とんでもない願いだろ?」


「……カイン、あなたも知っているでしょう? 神は」


「シェリルが相手なら、どうにかなるんじゃないのか?」


 さらりと言ったカインを見て、呆れたようにルーヴァが大きく溜息をついた。乗り出していた体を再び椅子に戻してカップを手に持ったルーヴァは、少し意味ありげに笑って残っていた紅茶を一気に飲み干した。


「そんな簡単なものじゃありませんよ。シェリルが目覚めたら月の宮殿へ行ってみて下さい」


「やけに意味ありげだな。……お前、何か知ってるだろ?」


「さぁ、別に。ただ、暫くはシェリルと一緒にいる事になりそうですよ」


 その言葉にカインが言い返そうとしたその時、穏やかな空間を引き裂く鋭い悲鳴が部屋中に響き渡った。

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