第7話 天界レフォルシア・3

「カイン!」


 少し怒ったような素振りで遠くから駆け寄ってくる女は、見事なブロンドの髪をくっきりと波打たせた色気のある女性だった。怒っているからだけではなく元から少しきつい目つきは、女性が気の強い性格をしている事を示しているようにも思える。


「昨夜はどこに行ったのよ! 私だけ置いて急にいなくなるなんて、まさか他の女の所じゃないでしょうね?」


 怒ると更に美しさを増していく妖艶な美女だった。彼女の真っ赤な唇を目にしたシェリルは、彼女がカインの首筋に口紅の跡をつけた本人だという事を直感する。その居づらい雰囲気に少し後ろへ身を引いたシェリルの耳に、あっけらかんとしたカインの声が届いた。


「まあ、女っつったら女の所だったけど、そんなの慣れてるだろ? リリス」


「ちょっと! 誤解を招くような言い方しないでよ!」


 さらりと言ってのけたカインの言葉に、後ろで様子を窺っていたシェリルが思わず二人の間に割り込んだ。


「……誰? この女」


 突然湧いて出たシェリルに一瞬目を丸くしたリリスが、答えを求めるようにカインに視線を投げかけた。天界にも、そしてカインにも似合わないシェリルの姿を見て、リリスは一瞬目を疑った。


 重く垂らした前髪。黒ぶちの眼鏡。ぼさぼさの頭に起きたままの姿。どこをどう見てもリリスの方が勝っている。そんな冴えない女がカインの連れだとはどうしても考えられなかったし、リリス自身も認めたくなかった。


「訳は後で話す。こいつをルーヴァの所へ置いて来たら、お前の家に行くから待ってろ」


 そのたった一言でリリスは大人しく頷き、カインの横に立つシェリルへ目を向けた。


「分かったわ。なるべく早く来て」


 シェリルを見たままカインにそう言うと、リリスはそのまま何度か振り返りながら人ごみの中へ消えていった。リリスの姿が完全に見えなくなるまで待ってから、ふうっと大きく息を吐いたカインが髪をかきあげながらぽつりと呟いた。


「面倒臭ぇな、女ってのは」


「面倒臭いって……。あの人カインの恋人なんでしょう? だったらもう少し大切にしなきゃ」


「リリスとは嫌いじゃないから一緒にいるだけだ。別に俺の女って訳じゃないし、それはあいつも分かってる」


 再び歩き出したカインの背中を呆然と見つめたまま、シェリルがその恋愛観に納得のいかない表情を浮かべて眉間に皺を寄せた。


「そんなの恋じゃないわ」


「別に俺は恋愛したくてリリスと一緒にいる訳じゃない」


「でも……それじゃ悲しすぎる」


 後ろから聞こえた思ってもみない反論の声にむっと目を細め、その言葉ひとつひとつに苛立ち始めたカインが思わず強い口調で怒鳴り声を上げた。


「お前に俺たちの事は関係ないだろ!」


「失ってからじゃ遅いのよ?」


 少し怒ったカインにも負けずに言い返したシェリルは、咄嗟に口から出た自分の言葉に昔を思い出し、はっとしてカインから顔を背けた。その悲しげな表情に、今度はカインが言葉をなくした。出会ってからずっと反発してきたシェリルが初めて見せた表情に、カインの胸がちくりと痛む。


「お前……何かあったのか?」


「……別に何もないわ。気にしないで」


 涙で少しだけ潤んだ瞳を見られまいと、顔を背けたまま足早に歩き出したシェリルの腕をカインが思わず引き戻した。


「おい、シェリル!」


「何でもないってば!」


 今度はシェリルが声を荒げ、掴まれた腕を振り払おうとする。その腕を離すまいと僅かに力を込めて引き寄せたカインが言葉を発するより早く、落ち着いた別の男の声が二人の間に柔らかく響いた。


「嫌がっている女性を連れて行くほど、女には困っていないはずでしょう? カイン」


 聞き慣れた声に、カインの表情が安堵のそれに代わる。カインが苦手とする色恋沙汰の面倒事にも似た状況に、突然降ってきた助け舟が心底ありがたかった。


「ルーヴァ、ちょうど良かった。今からお前の所に行こうとしてたんだが、手間が省けたよ」


 ルーヴァと呼ばれた男は顔の左半分を洒落た眼帯で覆い隠し、片手には数冊の医学書らしきものを持っていた。真っ直ぐな青みがかった髪は肩より少し下で綺麗に切り揃えられ、先ほどの口調と変わらず落ち着いた柔らかい雰囲気を醸し出している。


「何の用ですか?」


「ああ。こいつを少しお前に預けたい」


 シェリルの翡翠色の瞳が、ルーヴァの右目と重なり合う。ほとんど無意識に、シェリルはぺこりと頭を下げていた。


「ちょっと野暮用が出来ちまってな。シェリルはお前の好きなようにしていいぞ。お前が相手なら、今より悪くはならないだろ?」


「ちょっと……」


 好きなようにと言われてぎょっとしたシェリルが、さっきまでの言い合いも忘れて縋るようにカインの腕を引っ張った。捨てられた猫のように怯えた瞳を真っ直ぐに向けられては、カインの方が逆に戸惑ってしまう。


「おいおい、別に取って喰われやしねーよ。一時間くらいで戻るからルーヴァと一緒にいろ」


 腕を掴んでいたシェリルの手をやんわりと外すと、カインは軽く右手を上げてそのまま人ごみの中へと消えていった。その方向がリリスと一緒だった事から、シェリルはカインの向かう先を知る。少し淋しげな表情でカインの後ろ姿を見つめていたシェリルの背後から、穏やかなルーヴァの声がした。


「カインならすぐに戻ってきますよ。……まあ、彼は魅力的ですからね」


「ち、違うわ! 誤解しないで。あんな女好きな天使っ」


「……まだ、何も言ってませんけど?」


 静かに返されたルーヴァの言葉に、シェリルが顔を真っ赤にさせて俯いた。そんなシェリルに、ルーヴァが小さく声を漏らして笑った。


「あなたはとても可愛らしい客人ですね」


 そう言って微笑むルーヴァの姿を、シェリルは改めて見つめ直した。

 顔の左半分を覆い隠す紺色の眼帯は小さな半透明の赤い石と糸で縁取られ、一見しただけではそれが眼帯だとは分からないほど洒落ている。少し病的な白さを持つ肌と、それを浮き出させる青みがかったさらさらの髪。女性にも見えてしまう儚さを持ったルーヴァに見惚れていたシェリルは、自分の中に思い描いていた天使像を少しだけ修復した。


「それにしても、人間がここを訪れるのは珍しいですね」


「やっぱり、珍しい事なのね。私も本当はカインを召喚するつもりなんてなかったんだけど……なんだか私の願いを叶えないと天界に帰れないって言うから、仕方なく……」


 簡単に今までのいきさつを説明したシェリルに、ルーヴァが驚いたように声をあげて目を大きく見開いた。


「召喚? 天使召喚術を行ったのですか?」


 さっきまでの穏やかさは一気に吹き飛び、まるで食い入るように自分を見つめてきたルーヴァにシェリルは恐る恐る頷いた。


「私……何かいけない事でも?」


「ああ、すみません。あまり突然で驚いてしまいました」


 怯えたシェリルを目にしてはっと我に返ったルーヴァが、声を荒げてしまった事を丁寧に謝罪した。そして、自分が大げさに驚いてしまったその理由を、さっきの優しい口調で話し始めた。


「実は、カインは魔物と戦う天界戦士の一員です。その能力は中でも特に優秀で、剣技にも長けています。彼のように能力の高い天使は、召喚される事自体が珍しいのですよ。天使の能力が高ければ高いほど召喚者の能力も高くなくてはなりませんし、私の知り得る限りの情報では今の下界イルージュにそれほどまでに高い魔力を秘めた者はいなかったので少々驚いてしまいました。すみません」


 ルーヴァの説明は非常にわかりやすく、相槌を打ちながら聞くシェリルにもすぐに理解ができた。けれどカインを褒め称えるルーヴァには、ついつい笑みを零して首を傾げてしまった。


「私も召喚しただなんて思ってないし、……あれは何かの間違いだったのよ。それに、カインが優秀って言うのも信じられないわ」


「今に分かりますよ、シェリル。彼の力がいかに強いのか」


「どうしてそこまで彼を?」


 尊敬にも似た感情を込めて話すルーヴァの言葉をシェリルは完全に信じる事が出来ず、僅かに表情を曇らせたまま曖昧な笑みを浮かべてみせる。そんなシェリルの疑心を感じたルーヴァは優しく笑みを返して、昔を思い出すように語り始めた。


「私も天界戦士のひとりでしたから。……共に戦い、何度も助けられました。左目を失い、今はもう引退していますけどね」


「そうだったの」


 小さく頷いたシェリルはその言葉で、ルーヴァの眼帯がただの飾りではない事を知った。




 歩きながら話をしていた二人はやがて、崖の上の宮殿に続く一本道の近くに建ってある小さな家に辿り着いた。石造りの家と、小さな庭には見た事もない草花が咲き乱れ、辺りに少しつんっとした香りを漂わせている。

 木で出来た扉を開けて、ルーヴァがシェリルに振り返る。


「どうぞ」


 ルーヴァに促されて中に入ったシェリルは、部屋の棚ぎっしりに置かれている小瓶の山に目を見張った。瓶にはそれぞれラベルが張ってあるものの、いわゆる「天使語」なのか、古代語を読めるシェリルでさえ解読できない不思議な文字だった。大きなテーブルの上にはいろいろな実験器具がきちんと整理されて置かれており、その横には本と書類が山のように積み上げられている。


「……すごい。ルーヴァは医者なの?」


「ええ、まあ一応。専門は美容なんですがね」


 美容専門と言われ、更に驚いたシェリルは真後ろのルーヴァを振り返って尊敬の眼差しを向ける。


「ルーヴァは頭がいいのね。それに、男の人で美容に興味を持つなんて珍しいわ」


「そうですか? 女性が美しくなっていく様は、一種の芸術だと思うのですが」


 にっこりと笑ったルーヴァの顔を間近に捉え、つられて微笑んだシェリルの耳に、穏やかではあるが意味深な言葉を口走ったルーヴァの声が届いた。


「シェリルは十分にやりごたえがありそうですね」


 その言葉にはっと目を開いたシェリルの意識が、そこでぷっつりと途切れた。

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