第5話 天界レフォルシア・1

 眩しい朝日が窓から差し込み、深い眠りの底からシェリルの意識を呼び戻していく。

 記憶には残らない夢の残骸をぼんやりとした意識で追いながら、重く閉じられた瞼をゆっくりと持ち上げて……再び閉ざす。起きなければと意識の深い所で思いながらも、もう少しだけと自分を甘やかしたシェリルが気だるげに寝返りを打った。その額が、こつんと何か固いものに当たる。


(……?)


 いつもよりなぜか窮屈に感じるベッドの中で、シェリルが額に当たった何かを払いのけようと上げた手の指先に、さらりとした感触があった。指先をすり抜けて零れ落ちるそれは、まるで絹のように心地よい。その感触を楽しみたくて、シェリルは目を閉じたまま、何度もそれを掬い上げては指を絡ませて弄んでみる。


「……気持ちいい」


 寝起きの掠れた声音で呟いたシェリルに応えるかのように、不意に頭上から低い男の声がした。


「何なら、もっと気持ちよくさせてやってもいいぞ」


 その声にシェリルの意識が一気に覚醒する。今まで惰眠を貪っていたとは思えないほど素早い動きで上体を起こしたシェリルの瞳に、想像もしていなかったあり得ない光景が飛び込んできた。


「なっ……!」


 いつもと同じ部屋。いつもと同じベッドの上で、シェリルは昨夜の男カインと一緒に仲良く並んで横になっていた。

 少し皺になったシーツの上に、カインの珍しい色の髪が流れている。指先に絡めていたのはこれだったのかと気付いたシェリルが、慌てて右手を引き戻し、ついでに自身の体もカインから逃げるように仰け反らせた。


「やっと起きたな」


 少しの動揺すら見せず、余裕しゃくしゃくで笑みすら零したカインをよそに、シェリルが慌ててベッドから抜け出した。そんなシェリルを気にも留めず、カインは大きく伸びをしてからゆっくりと体を起こすと、そのままベッドの縁に腰かけてにやりと笑った。


「寝顔、意外と可愛いんだな」


「……っ!」


 無防備な寝顔まで見られていた事を知り、シェリルが頬をかあっと紅潮させた。


「なっ、なんで……どうして私が……ここにいるの! あなた、ベッドはっ?」


 驚きすぎてまともに喋る事すら出来ないシェリルとは対照的に、カインは暢気に欠伸をしながら、ゆっくりとベッドから立ち上がった。両腕を上げて伸びをしながら歩を進めたカインに身を竦ませたシェリルだったが、心配するような事は何もなく、カインはシェリルの怯えもよそに部屋の窓を開けただけだった。


 朝の肌寒い空気が頬を撫でていく。窓際に佇むカインが、少し張り詰めたようにも感じる朝の空気を浴びて、一瞬だけ瞳を閉じた。朝日を浴びてきらりと輝く紫銀の髪と、少し乱れた服の隙間から見える肌が妙に色っぽい。


(……綺麗な髪。月明かりの下の方がもっとよく映えるかも)


 元々整った容姿を持つ彼だけに、窓際に立つその姿すら絵になってしまう。慌てふためいていた事も忘れ、思わずカインに見惚れてしまった自分を戒めるように、シェリルが少し強めに頭を振った。


「お前に聞きたい事がある」


 そんなシェリルを知ってか知らずか、カインが少し声音を変えて、閉じていた瞳を開いてシェリルを見つめてきた。見惚れていた事を悟られないように、シェリルは慌てて目を逸らし、音を立てないように深呼吸する。


「……何?」


「この俺を呼び出した理由は何だ? お前の願いを叶えないと、俺はいつまでたっても天界に戻れないんだが」


 願いはと尋ねられ、シェリルの頭の中に見た事もない天界の姿が思い浮かんだ。創世神である女神アルディナの住まう場所。シェリルが願って止まなかった、神聖な力の溢れる場所。

 ――しかし、アルディナに仕える聖なる天使がこれほどまでにシェリルの理想をぶち壊した今、それよりももっと神聖なイメージを描いていた天界もシェリルの理想をあっけなく壊してしまうかも知れない。


 シェリルが求めていた天界。しかしそこにはシェリルの求めるものが既に失われているかもしれない。意味すら忘れ去られているのかもしれない。


「おい、聞いてんのかよ?」


 なかなか口を開こうとしないシェリルに、カインが痺れを切らして少しだけむっとする。そんなカインを観察するように見ていたシェリルだったが、やがて小さく溜息をつくと諦めたように緩く首を振った。

 こんな男でも、天使は天使だ。せっかく召喚出来たものをみすみす手放すほど、シェリルも愚かではない。カインを天界へ帰してしまえば、次はいつまともな天使を召喚出来るか分からないのだ。


「……に」


「は?」


 決意を固めて、シェリルはカインに向き直る。


「私を女神に会わせて。それが私の願いよ」


「はあっ?」


 突拍子な答えに、カインが思わず奇声を上げた。

 人間の願いと言うのは大抵決まっているものだ。普通の人間や邪悪な心を持つ者は天使を召喚する事すら出来ないし、出来る者といえばそれは神に仕える神官だけ。その清き心を持つ神官たちの願いは、世界平和や淀んだ邪気の浄化などであり、それが当たり前のように昔から天界に広まっていた。

 しかし、いま耳にしたシェリルの願いはカインが知っている中でも例がない。


「出来ないの?」


 昨日の仕返しだと言わんばかりに、シェリルが少し勝ち誇った眼差しをカインに向ける。流石にむっとしたカインだったが、目の前の現実を無視する事が出来ずに緩く首を横に振った。


「いや、天界に連れて行く事は出来る。……だが……」


 言葉を切り、そこで暫く考え込んでいたカインは、ふいに顔を上げてシェリルを見つめ直した。

 今の時代には失われたとされる天使召喚術を、いとも簡単にやってのけたシェリル。女神アルディナとの面会を望む彼女が何を求めているのかまではわからないが、見たところ悪意に染まっているようには見えない。願いを叶える一環としてシェリルを天界へ連れて行く事は出来るが、その先を保証できるかはカインには分からなかった。第一、天界にいる女神は――。


「……考えても同じだな。どっちにしろ、俺はそれまでお前と離れられないんだし」


「嫌なら構わないわ。私だってあなたみたいな不良天使と一緒にいるなんて……」


 言いながら机の上に置いていた眼鏡を手に取ったシェリルの体が、突然ぐいっと後ろへ引き戻された。


「きゃっ!」


「契約は成立した。とりあえず天界へ行くぞ」


 カインの腕にがっちりと抱きしめられ、耳元で言われたシェリルが抵抗するより先に、ふわりとその足が床から離れた。目線がかくんと上昇し、机の上のランプが足元に見える。


「ちょっ……降ろして! 誰が今からなんて言ったのよ!」


 床に下りようと暴れ出すシェリルだったが、それが返って逆効果となり、カインの腕の力は強まるばかりだ。


「おい、暴れるな。落とすぞ」


「そんな事言ったって……エレナ様にも報告に行かないと」


「悪いが俺は一刻も早くお前との契約を消滅させたいんだよ。誰かに使われるなんてまっぴらだ。……それに、お前もこの状況を誰にも見られたくないだろ? 仮にも神官なんだしな」


 そう言って背中の翼を大きく羽ばたかせたカインが、瞬きする間に窓から外へ飛び出した。朝の冷たい風が二人の体を通りすぎ、そのあまりの冷たさにシェリルは体をびくんと震わせて抵抗していた手を止める。

 カインの肩越しに見えていた神殿や背の高い木々たちがあっという間に黒い点に変わり、視界がぐんぐん上昇する。もはや抵抗するより、落ちないようにしがみ付いていた方が妥当な高さだ。


「強引なんだからっ!」


「ああ、よく言われる」


 シェリルの精一杯の反抗もさらりと返したカインは、髪を撫でていく風を受けて気持ちよさそうに目を閉じた。その姿を間近で目にして、シェリルの胸がとくんと鳴った。

 決して悪くはない、むしろ整っている顔立ち。細く華奢に見える腕は見た目よりもずっと力強く、白い翼と紫銀の髪はとても魅力的な色彩としてシェリルの瞳に映る。黙っていればその微笑みひとつで、シェリルの心を掴んだだろう。

 ……黙っていれば、だが。


「私、まだ着替えてもいないのに」


「たいして変わらないだろ」


 激しく翻弄されるがまま髪を巻き上げていたシェリルの周りから、突然ふっと風の抵抗が止んだ。耳の側を通り過ぎていた風の音も消え、完全に無重力状態になった事を感じて恐る恐る目を開けたシェリルの頬を、柔らかな白い羽根がくすぐる。


「これで少しはマシだろ」


 風の衝撃に耐えていた事を見抜いていたカインに、シェリルが驚いて顔を上げた。その視線の先では、カインがシェリルの代わりに風に激しくあおられている。カインの大きな翼と腕に守られて、シェリルだけが風の抵抗を受けずにすんでいるのだ。


「カイン? あなた……羽、使わなくていいの? 落ちないの?」


「もう風の回廊に入った。風の抵抗はあるが、このまま天界へ着く」


 風の回廊。

 聞き覚えのある言葉に記憶の糸を手繰り寄せると、それが天界と下界を繋ぐ道だったことが思い出される。今まで数々の書物を読み、天界の知識をある程度得ていたシェリルは、自分が本当に天界へ近付いていると言う事を改めて実感した。


 ずっと願い続けてきた事がやっと叶う。女神に会って、自分を狙い両親を殺したあの黒い闇の正体を知る事が出来る。はやる気持ちを抑え、目を閉じて深く息を吸い込んだシェリルの耳にカインの声が届いた。


 それはこれからの、辛く苦しい旅の始まりを告げるものでもあった。

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